岡田以蔵 11
*
「やめてつかあさい……!」
うちは商家の入口で声を荒らげた。
夜更けの京に白い吐息が出る。相手からの返事はない。
棚が倒される音が響き、袴が翻るように揺れる。
土佐勤王党の二人の男が、埃の舞う店の中で暴れていた。
「今ある金を全部出すんじゃ!」
「出さんなら、めちゃくちゃにしちゃるぜよ!」
店主は跪いて懇願し、女将と娘、奉公人は腰を抜かしている。
いきり立つ二人の男の背に、うちは声をぶつけた。
「やめてつかあさい! こんなことしちょったら武士の名がすたりますきに!」
「黙っちょれ! おまんは人を斬っとけばいいがぜよ!」
「そうじゃ! おまんは役に立たん!」
帳簿が宙に舞う。ひらひらと落ちる紙もあれば、重い音を出す紙の束もある。
今の土佐勤王党は壊滅していた。
薩摩藩や会津藩などによって、京から長州藩が追い出された。
それを機に、土佐勤王党にも帰藩の命が下されている。
土佐藩の中で、目障りな勤王派を粛清するための策略であるとわかっていた。
だから、土佐に戻ることを良しとしない同志もいる。目の前で暴れる二人も同じだ。
柱が蹴飛ばされ、家全体に振動が伝わる。
その時だった。
毒塗りの矢じりで射抜かれるような視線が刺さる。
全身の毛穴が引き締まり、鯉口を切って振り返った。
灯りのある商家とは違い、しんと静まる闇が広がっている。
向かいの店も、路地も、黒が一面に這うだけだ。
いや……違う。
ゆらゆら、と微かに揺れる。何かが蠢く。
路地からゆっくりとこちらに近づいてくる。
忘れてはいない。
この気配を忘れるわけがなかった。
ずずず……と、草履の擦れる音が耳に入る。
息を吸い込む。黒い塊のような者が目の前に姿を現した。
「お久しぶりですね、岡田以蔵さん」
「おまん……あん時の物乞い」
ミナトが襲われそうになったとき、路地に潜んでいた物乞いだ。
黒い着物。黒い手拭い。闇の底から現れたかのような、得体の知れぬ者だ。
「哀れですね」
そう言って開かれた口元は、醜悪な笑みを作る。
底知れぬものを感じ、眉間と右手に入る力が自然と強くなった。
勢いよく抜刀する。
背後からは、店主の謝罪と男二人の罵声が続く。
うちは正眼に構えて、物乞いの様子を窺う。
相手の手拭いの下にある口元がゆっくりと動く。
「やめてください。争うつもりはありません」
「なんの用がか」
「用ですか。いえ、特には。ただ一つ気になることがありまして」
「はっきりと言うぜよ」
「土佐の者は藩に戻れと命が下されたのでしょう。
なぜ、京に残っているのですか?」
「うちは……まだ戦えるきに」
「土佐勤王党の盟主である武市半平太さんは、投獄されているそうですよ。
そのことは、ご存知ですか?
あなたも……犬は犬らしく尻尾を巻いて、逃げたほうがよいのでは」
「うちは逃げん」
物乞いの女は顎に指先を当て、首を左右に動かす。
斬り込もうとしても隙がない。身に纏う雰囲気は強者の……それだ。
あの人に……少し似ている。
武市先生と長州藩の者たちとの密談の場にいた女だ。
彼女は長州藩と付き合いのある肥後藩の者だった。
武市先生と長州の者が論じているところで、一人だけ目を瞑っていた。
特に声を出すこともなく、涼しげに酒を一口、また一口と含んでいた。
一目見てわかった。うちと同じ人斬りである、と。
彼女と物乞いが似ているのは、人斬りが漂わせている独特の生臭さではない。
腹の底が見えぬ者が発する匂いに近かった。
物乞いは挑発するように右往左往する。
瞬時に考えた。一足で飛び込み、相手の膝を崩し、そのまま首を斬りつける。
しかし……。
うちの思考を読み取ったのか、物乞いはこちらを見ることなく溜め息をついた。
「やめてください。争うつもりはないと何度言えばよいのですか。
ああ……次に会うときは手加減など無用です、と私が言ったのでしたね。
――ですが……ほら、来ましたよ」
物乞いの視線の先を追う。
遠く。遠くに微かな光がある。
冬に見ることのない蛍のように揺れている。
「おそらく奉行所の方々ですね。
どこからか、土佐の残党がいると話がいったのでしょう」
物乞いは笑みを浮かべ、鼻から息を抜いた。
彼女から目を離さず、後ずさりして、背後に声をかける。
「奉行所の連中が来ましたき! 早う逃げてつかあさい!」
押し借りをする男たちは怒声を上げた。すぐに退散する足音が聞こえる。
その音が徐々に霞んでいくけれど、うちは目の前の物乞いから目を離せない。
彼らが角を曲がり、摩擦音が小さくなった頃合いで、うちも駆け出す。
「逃げるのですか」
闇夜に言葉が一つ置かれた。足は止まる。
「無駄に争う必要はないきに」
「違います。あなたが逃げることで、よからぬことが起きると危惧しているのです」
勢いよく振り返ると、物乞いの口元は妖しく上がっていた。
「どういうことぜよ」
「逃げれば、今宵、商人の家に押し入った岡田以蔵さんのことを話します。
そして……友は薬売りをしている二人。その者たちが岡田以蔵を匿って――」
勢いよく踏み込む。胴体へめがけて刀を振り抜く。刃は紙一重で空を切る。
すぐに刀を切り返し、かがんだ相手に振り下ろす。
鋒は地面に微かに触れた。
物乞いは斜め前に飛び出し、間合いを取って嘲笑う。
彼女の背後にある何個もの光が、先程より大きくなっていた。
「刀を振るうだけ。それだけで国が動きますか。国が変わりますか」
「日本を変えたいと思うんなら、動くしかないきに」
「新たな時代に……あなたのような者は必要なくなると思いますよ」
「それでいいぜよ」
物乞いの上がっていた唇が静かに下がっていく。
うちは柄を握り直す。寒さによって乾いた唇が割れる。
舌先で舐めると、鉄の味を微かに感じた。
「必要とされないことが怖くないのですか」
「怖くないぜよ」
「すでに居場所がないからですか」
「違うがぜ」
「それでは……なぜですか?」
白い雪が目の前に落ちていく。まるで、花が咲き終わった後のタンポポのようだ。
大粒の冷たい塊は、地面にじんわりと吸い込まれ、消えていく。
「新しい時代に刀はいらん。そんために……うちは刀を握ったきに」
「あなた、という人が必要なくなると言っているのですよ」
「それでもええぜよ。
けんど、こんな世は……ここで終わらせるき。
子どもが一人で泣くような世の中は、もう終わらせるぜよ。うちが無くしちゃるきに」
黒い手拭いの中にある瞳は見えない。
「絵空事ですね。言うは易し、行うは難し。
ただの人斬りに、なにができるというのですか」
「できるかどうかやないき。決めたら動くだけぜよ。
新しい時代が来たら、そん後は刀なんていらん。
みんなの前にあるんは……温かい飯じゃきに」
沈黙の中で雪が降り注ぐ。物乞いは一切動かない。
二つほど呼吸をすると、急に首を垂らした彼女が声を出す。
「一つ教えてください。
あなたの刃は……大切な人を守れるのですか」
「守るぜよ」
冷たい風が夜道に吹く。
しばらくして、物乞いの片方の口元が上がった。
いや……酷く歪んでいる。
「それなら……守ってみてください。
大切な人を守れるというなら、私に見せてください」
物乞いは腰に差す、汚い和紙が巻かれている出刃包丁を手にした。
顔を見せたのは手入れのされていない刃だ。
時はない。奉行所の連中が迫っている。
物乞いは、うちの前に包丁を伸ばした。
「あの二人の命。秤にかけてみてください」
その言葉。言葉でしかないというのに。
身体が芯から熱くなって、血が湯のように巡った。
一気に間合いを詰めて、斬りかかる。
背後に跳ばれて刃を躱された。喉元に向けて突く。
皮、一枚。
すぐに刀を引き、肩めがけて振り下ろす。
その刹那、うちは目を見開く。
出刃包丁が頬を掠め、物乞いはうちの足を踏んだ。
彼女の拳が鳩尾に食い込む。
左足で物乞いの腕を蹴り飛ばし、すかさず斬りつける。
着物だけが切れた感触が手に伝わった。
彼女は転げるように避けて、軒下にある木桶に突っ込んだ。
「さすがは岡田以蔵さん。なかなかに鋭い刃をお持ちですね」
「まだやるがか」
ゆっくりと立ち上がる物乞いは、溜め息を漏らす。
「天誅の以蔵と呼ばれたあなたが……すっかりと臆病者ですね」
「うちは、うちの義のために人を斬るき。
おまんのようなもんを斬るための刃は持っちょらん」
ちらりと横に目を向けると、無数の灯りが大きくなっている。
奉行所の者が持つ行灯は、二十間ほどの距離にまで迫っていた。
踵を返し、前に踏み出した瞬間だ。
「愚かですね。先程も申しましたよ。
ここで逃げれば、私があなたのことを話します。
岡田以蔵の仲間は薬売りの二人。その者たちも関わっている、と」
足が止まる。雪の勢いは増していた。
うちは踏み込み、物乞いに向けて刀を振るう。
首を狙い、突く。激しい金属音と火花が散る。
刀の鎬に出刃包丁が滑り、彼女の顔が目の前に来た。
うちの鍔元を上から巧みに押さえ込む物乞いは、微かな笑みを浮かべた。
「あなたは……刃を振るう理由が揺れている」
白い吐息が目の前で広がった。
無数の草鞋の音が近くから聞こえる。
「あなたは失いたくないものができた。
故に、あなたが口にしたはずの大義が霞む。
己でも気づかぬ内に、その刃を……鈍らせた」
物乞いは笑って続けた。
「大切な人を守る……守れるのなら、私に見せてください」
歯を食いしばり、鍔迫り合いに力を込めた瞬間だ。
背後から衝撃が走る。
気づいていた。その動きに反応できなかったわけではない。
けれど……。
避けられなかった。避けることはできなかった。
役人の持つ袖搦によって容赦なく引きずり倒され、泥に塗れる。
刀を持つ手が蹴飛ばされ、身体は棍棒で叩かれた。
両の手の自由を奪われて、口には湿った土が入る。
怒声が響く中で、役人たちは誰一人として物乞いを捕まえようとはしなかった。
地に伏せたまま上を見上げる。
物乞いは役人たちの奥で佇む。
白雪が舞う中で、ただ一人……笑っていた。




