岡田以蔵 10
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以蔵ちゃんと最後に会った日から、随分と月日が流れている。
彼女は姿を現さず、僕たちも行方を一切知らなかった。
旅籠に会いに行っても会うことは叶わず、店の者も知らないと言っていた。
その内に八月十八日の政変が起こり、過激な攘夷志士たちは京から一掃される。
長州藩を筆頭に都を追われ、彼らに加担していた公家である七卿も落ち延びた。
以蔵ちゃんの所属している土佐勤王党も同じだ。
土佐藩の大殿である山内容堂公により、帰藩命令が出された。
それらが起こったのは、幕末の時間で言えば、二年ほど前のことだった。
風の噂で聞いた。
八月十八日の政変から半年後、以蔵ちゃんは京の店に押し入り、捕まったという。
その後、土佐藩へ送られて、今は牢獄にいるそうだ。
僕たちは彼女がそのようなことをしたとは思っていない。
決して、そのようなことをする子ではない。
人のことを想う以蔵ちゃんは、押し借りを嫌っていたのだから。
以蔵ちゃんが亡くなる日は刻々と近づいていた。
僕は正確な日付を覚えていないし、史実の正確性も怪しい。
不意に背後から大きな音がした。
クオンがいつも向き合っている家の文机に、手のひらを乗せている。
叩きつけたのだろうか。
その横顔は血を失ったかのように酷く青ざめ、緩やかな曲線の肩を震わせている。
「どうしたの?」
彼女の横には橙色の大きな風呂敷がある。長旅用に、前日から用意していた物だ。
その中には、いろいろなところで集めた品が入っている。
昨夜の彼女は、遠出をする子どものように準備をしていた。
「ミナト様……どうしましょう……」
クオンの前にある文机には、未来の小型端末が置かれている。
未来と過去を行き来するために必要なものだ。
僕も持っていて、未来との通信用の側面もある。
「ミナト様……!」
こちらを見る彼女は、普段とは違う表情をしている。
懇願するような悲痛な眼差し、紅い瞳には涙が集まり、潤いを持っていた。
「なにか……あったの?」
「行けません……」
彼女は震える手で小型端末を渡してきた。
幕末では見ることのない字体が並ぶ。それは短い文章で淡々と綴られていた。
『緊急メンテナンス。明日から一箇月程度、タイムトラベルの使用不可。
すべての使用者は自発的に帰還するか、明日をもって強制的な移動となる』
「これ……」
「ミナト様……!」
跪いたクオンは、僕の着流しの裾を白い指で握る。
定期的にあるメンテナンスは、何月何日に行うという事前連絡がある。
緊急メンテナンスは今までもあった。
おそらく今回も不測の事態が起こったのだろう。
僕たちは今日から旅に出るところだった。京から川を使って大阪に行く。
そこで一泊し、さらに航海する予定だ。
土佐へ向かうために。そう……牢獄にいる以蔵ちゃんに会いに行くためだった。
「どうしましょう……ミナト様。どうしましょう……!」
「大丈夫、落ち着いて。大丈夫だから」
その言葉を自身にも言い聞かせたい。どくどくと胸の中を血が走る。
史実に照らし合わせれば、以蔵ちゃんは……もうすぐ亡くなってしまう。
稔麿ちゃんの死から、クオンは偉人たちの没年月日を口にしなくなった。
僕は何年に何が起こったか、何年に誰が亡くなったという知識があるだけだ。
個人の詳細な生年月日、没年月日は覚えていない。
幕末の人たちと僕たちの交流、そこには絆が生まれる。
互いのために死を強く意識することはやめようと、クオンと話し合った。
今回はクオンからの申し出で、以蔵ちゃんが亡くなる前に牢獄へ向かうことに決めた。
「ミナト様……ミナト様! どうしましょう!」
「大丈夫、少し落ち着こう。ね、大丈夫だから」
声は震えていないだろうか。
手は震えていないだろうか。
以蔵ちゃんの斬首は……およそ二週間後だ。
「僕が担当者に聞いてみるよ」
「お願いします! 変更できないか聞いてください!」
僕は端末を手に持ち、裏手にある畑の中心部へ向かった。
自分たちが野菜を食べる分の土地は決して広くない。
照りつける夏の太陽は容赦なく降り注ぐ。
土の上に跪くと、隣には濃い紫色の野菜が光っていた。
端末を操作して、担当者に連絡する。
何度かの通信音の後で、相手は出た。
「はーい、はーい」
クオンの緊迫した様子とは違い、気の抜けた男性の声だ。
「どうされましたー」
「ミナトです。緊急メンテナンスのことで、お聞きしたいことがあります」
「ええ? ああ、はい。なーんかありますか?」
「日程の変更というのは――」
「ああー、無理ですよ。緊急事態らしいんでー。
強制帰還って、そういうことじゃないですか。
昭和の前期に行っている人たちが問題を起こしたらしいですよー」
「問題とは?」
「生死介入ですよ、生死介入。
前もあったでしょー。ほら、あの時も強制帰還になったじゃないですか」
他の時代の者たちが生死介入をしたために、時の流れがおかしくなったようだ。
それを解決するための緊急措置。
各時代、各国に選別された者たちが時空を越えて生活している。
一つの国と一つの時代には一組まで、という基本的な規約があった。
けれど、昭和のように長い時代の場合、何組かで分担して観測していることもある。
今回、問題を起こしたのは、昭和前期を観測していた二人のようだ。
唾を飲み込み、息を吸い込む。
「どうにか……できませんか」
「ええー、無理ですよー。
本来ならすぐにでも戻ってきてほしいんじゃないですか。
というより、俺の仕事を増やさないでくれって感じですかねー、はい」
「どうしても……今は戻れないんです。
それか……未来に戻っても、すぐにこちらに戻れるようにしてもらうことは――」
「ああー、それはアウティです。一箇月くらいはかかるんじゃないですか」
「そうですか……上司の方と話したいのですが」
「ああー、その手できますかー。きちゃいます?
でも、知ってますか? 俺が観測者たちをまとめる現場の一番上の者なんですよー」
「開発者の――」
「無理ですって。規約にも書いてあるでしょう。
さあ、早く戻ってきてくださいねー」
僕は担当者に何度も頼み込むが、鼻を鳴らし断られてしまう。
時の流れは地続き。一度、その道に乗れば後ろに向かうことはできない。
けれど、前に向かって虫食いのように飛ぶことはできる。
事実、僕たちもそうやって未来と過去を行き来し、暮らしていた。
以蔵ちゃんの死は、およそ二週間後だ。
僕たちが再び幕末に来れるのは一箇月後になる。
歴史の月日に誤差が生じていたとしても、そこまでの開きがあるとは考えられない。
端末を握りしめて、肩を落とし、踵を返す。
僕の藍色の着流しの裾が、野菜の葉を揺らした。
それだけの僅かな力だというのに。
たった……それだけだというのに。
小さい茄子がぽとり、と土の上に落ちた。
紫色は陽の光で輝いている。
深く息を吐き出し、茄子を手に取り家に戻った。
「ど、どうでしたか?」
引き戸を開けると、クオンは下駄も履かずに駆け寄ってきた。
紅い瞳が涙によって潤い、頬には滴の跡があった。
僕の視線は、固められた土の上に逃げる。
それを見たクオンが僕の足元に崩れ落ちた。
嗚咽を漏らし、自身の太もも辺りの着物を強く握りしめている。
「クオン……」
同じ目線までかがみ、抱きしめてあげたい。
少しでも彼女の心が安らぐ言葉をかけてあげたい。
しかし……やはり僕は臆病者だ。
視線を銀髪に向けているだけで、両の手は彼女の痛みを和らげるすべを持たない。
荒くなっていく呼吸と共に、彼女の身体は大きく震えた。
僕は息を吸い込む。
「クオン……聞いて」
返事はない。いつでも必ず返してくれるというのに。
「やれるだけやってみよう。今すぐに以蔵ちゃんのところへ向かおう」
残酷な言葉だ。自分で言っていて嫌気がさす。
けれど……。
僕は勢いよく座敷に上がり、クオンの橙色の風呂敷を背負い、自身の荷物を左手に持つ。
右手で彼女の手首を握り引っ張ったが、動いてくれない。
「クオン」
彼女の顔の両脇から垂れる銀髪が左右に揺れた。
返事はない。
「お土産を持っていって一緒に食べるんでしょ。行こうよ」
嗚咽が繰り返されるだけで、反応はない。
「クオン、行こう」
「私……以蔵ちゃんに……約束したんです……」
格子戸から入る風は、家の中にある空気を入れ替えない。
「また一緒に……ご飯を食べようって約束したんです……」
「それなら……行こうよ」
彼女を上がり框に座らせ、手拭いで足の裏を拭いてから下駄を履かせた。
「行こう、クオン。僕も以蔵ちゃんに会いに行きたい」
「はい……」
強制帰還は明日起こる。
以蔵ちゃんがいる土佐に辿り着くまでに、数日は必要だ。
早くても……だ。
間に合わないとわかっていても、留まることなどできなかった。
黙って立ち止まったところで、何も変わらない。
松陰先生に教えてもらったことだ。
真摯な姿勢で物事に打ち込めば、変わらないことはない。
それが成らずとも、なにかは変わる。
強制帰還の期日が変わるかもしれない。
早期にメンテナンスが終わるかもしれない。
しかし……それをクオンに示すことは残酷だ。
淡く脆い希望を口にすることで、彼女の心をさらに傷つけてしまう。
外に出ると、容赦のない夏の陽射しが降り注ぐ。
奇跡が起こってはくれないだろうか。
いつも隣にいてくれる人の涙を拭い、温かいものに変えてはくれないだろうか。
燦々と照りつける太陽は、僕たちの歩む道を照らしていた。




