岡田以蔵 9
*
耳の冷たさで目を覚ます。
隣の布団で寝顔を見せているのは以蔵ちゃんだ。
こちらに向けた顔は穏やかで、小さな寝息を立てている。
「えへ、えへへ……。
温かいき……この飯はみんなで食べるき……牛じゃ……牛の鍋やきに」
鼻から息を抜く。襖の隙間からは野菜の煮える匂いが入り込む。
起き上がり、ぶるっと身体を震わせる。襖を開けると、クオンの背中が目に入った。
薄紫の着物の袖を白い襷で留めている。
トントントン。
まな板と包丁が音を出す、いつもの日常だ。湯気の中でせっせと彼女は動く。
「クオン、おはよう」
「おはようございます、ミナト様」
「手伝うよ。なにをすれば――」
土間に下りるための上がり框に何かがある。
朝日が差し込むとはいえ、はっきりとは見えない。
暗い板の上にある物を寝ぼけ眼で見下ろす。
黒い……長細いものが白い和紙の上に並べられている。何本もある。
――ああ、あれか。
「かりんとう、こんなとこに置かないでよ」
まな板の前で背を丸めているクオンに言う。
彼女は一本の柱のように姿勢を正したが、こちらを向かない。
「踏みつけていただいて、大丈夫です」
「よくないでしょ。以蔵ちゃん、かりんとう好きかもね。あとで――」
「踏みつけてください。異国の文化であるのです」
「なにが?」
聞きかえしても、彼女は振り向かない。
「踏みつけることで、呪いが増える東洋の秘術があるのです」
「秘術って……」
「迷信ですけどね」
僕は足元のかりんとうに再び目を向ける。
息をのみ、言葉を失った。
「ひっ……」
黒糖で作られた、かりんとうではない。
髪の毛だ。
黒髪は乱れ、ちりちりとしていて、全部で九本ある。
元結で纏められた髪の毛が、死体のように並べられていた。
「こ、これって……」
「髷です」
「もしかして……この髷……」
「はい。以蔵ちゃんを傷つけた者たちの髷です」
「じゃあ、これって……遺髪なの?」
「違います。命の代わりに昨夜、いただきました。
以蔵ちゃんから泊まっていた旅籠は聞いていましたので。
誰が傷つけたのか判断できず、その場にいた全員の命を刈り取ってきました」
武士にとって刀と髷は命に匹敵する。
だからこそ、死ぬ間際に髷を切り取って、己の分身として扱い、遺髪と呼ぶ。
クオンはそれを刈り取ってきたのか。命の代償として。
「彼らは髪が伸びるまで表を歩けません。
髪を結えない男性は武士と名乗れませんから。
彼らは引きこもりになるしかないのです」
「どうやって……切ったのさ」
「松陰先生の牢に忍び込む際に使った香を焚きました」
「そっか……行くなら僕にも声をかけてよ。一人で行くのは危ないよ」
「ミナト様には以蔵ちゃんの隣にいてほしかったのです。
なにかあっても、ミナト様が守ってくれると思ったのです」
「それでもさ……一人は危ないよ」
「申し訳ございません。
私は……あの者たちを許すつもりがないので、他にも仕返しをしておきました」
まな板と包丁から鈍い音が出る。
彼女の手に隠れていたカブが真っ二つにされ、ごろっと転がり、顔を見せた。
「他にもって……なにをしたの」
「漆を彼らに塗ってきました」
たった一言であるのに、復讐という思いを強く感じた。
「漆って……触ると、痒くてどうしようもなくなるって前に言っていたよね。
水疱ができたり、腫れたりするって」
「おっしゃるとおりです」
僕たちの住まいには漆がある。クオンの趣味で器に塗るためのものだ。
触るな、と厳しく言われていた。
漆を扱うときには、手、首、顔などに油を塗って保護しているそうだ。
水に溶けないから、触った場合は油で拭き取れ、と教えてもらったことがある。
「あと数刻……昼過ぎになれば、痒さでのたうち回るでしょう。
アレルギー反応を起こして、他の部位にも症状が出るかもしれません」
カブの葉が切られていく。
トントントン。トントン。
「怒らない……のですね」
後ろで纏められた銀髪が揺れる。
「怒らないよ。僕だって以蔵ちゃんのことで仕返ししたかったんだから」
「ありがとうございます」
「でも、相手が身体を掻き毟って死んだら、生死介入に……なるかも」
「そのときは私だけが咎を受けます。私が勝手にしたことです。
ミナト様を傷つける者は私が許しません」
ぐつぐつと音を出す鍋の中に、切られた野菜が滑り落ちていく。
――そうなったら僕が咎を受けるよ。
「クオン、僕は干し魚を焼いてくるね」
「はい。お願いします」
外に置いた七輪で干し魚を焼いていると、家の中から大声がした。
「あっ! かりんとうじゃ……ってえ! 髷じゃ!
な、なんでこんなにあるがか! 誰ぞ討ち入りのための形見でも残したがか!?」
「捨てられなかったので、一応置いてあるのです」
「こんなに討ち入りに行くなんて……この人たちはどこに行ったがぜ!?」
「黄泉へと歩んでいますね」
「まっことの武士ぜよ……」
「武士ではありません。この髷の主たちは、武士ではないから髷を落とされたのです」
僕たちの朝げは昨夜の痛みを隠すというより、包み込むように楽しく進んだ。
「ねえねとミナトと食べる飯はうまいぜよ!」
以蔵ちゃんは痣のある顔で笑みを浮かべた。
それが……僕の心を抉る。
朝げを食べ終えて、僕が薬の調合をしていると、背後から喜々とした声が上がる。
「ねえね! 剣術でもせんか!?」
「もう少しだけ待っていてください」
「なんしちゅうがか?」
「昨日書き忘れた日記を書いているのです」
「わあー、ねえねは字がうまいぜよ」
僕は薬を扱う手を止めて、文机に向かう二人に近づく。
今日の以蔵ちゃんはクオンの着物を借りている。
桃色に白い線模様が綺麗に入った品だ。
その姿、その笑顔は、茶屋の看板娘のように輝いていた。
「ミナトも書くがか?」
「僕は書かないよ」
この時代の文字を読むことはできるけれど、上手には書けない。
クオンはすぐに習得したけれど。
僕は丸い目をしている以蔵ちゃんに言う。
「以蔵ちゃんも、なにか書いてみたら」
「うちは、いいき」
「どうして?」
以蔵ちゃんは目と口元を下げる。
というより、蛙を上から潰したような表情をした。
その後で酸っぱい、酸っぱい梅干しを食べたかのように口をすぼめる。
「もう忘れてしもうたき。寺子屋には少し行っとったから字のことも習ったがぜ。
うちは下士やから、藩校に行くんには厳しかったきに」
「あー、そういうのあるよね」
「けんど……字のことは忘れてしもうた」
「忘れるって……そんなことあるのかな。字のことは忘れないと思うけど」
以蔵ちゃんは先程と同じ顔をしてから、僕のことを見て笑う。
「ミナトは甘いきに。
人を斬るとな、かあーっと身体が熱うなって、いろんなもんが飛んでいくきに。
びゃびゃーっと。きっと字も飛んでいってしもうたがぜよ」
――そ、そういうものなのか。
すらすらと文字を綴るクオンの手が止まった。
「それでは以蔵ちゃん。字を書きましょう」
「えー、うちは書けんでもええき」
「よくありません。字は必要です。日本の文字は美しいのです。日本の言葉は雅です」
「うー。けんど、うちはできん」
頬を膨らませる彼女に対し、クオンは微笑んだ。
「字の練習をしたら、かりんとうを差し上げましょう」
以蔵ちゃんは口を歪ませ、畳の上で身体を引いていく。
「ねえね! それは罰当たりじゃ! 遺髪を食わせるなんて罰当たりぜよ!
そ、蕎麦みたいに食うがか!? そんなら……天ぷら……いいや! 鴨がいいぜよ!」
「鴨は食べません。かわいいからです。私は私の主観で殺生し、食べます。
――かりんとうは本物です。私が今度作ります」
「それは食いたいぜよ!」
「それなら字の練習をしましょう」
二人は肩を並べて、和紙に墨を落としていく。
その姿は本当の姉妹のようで、黒髪と銀髪が僕の目に映る。
「あー! ボタッとなっちゅう!」
「筆につける墨を少なくしましょう。多くなくて大丈夫です」
「あっ……! ミミズが走ったがぜ!」
「それはドジョウです!」
和やかに進んでいく。
以蔵ちゃんは桃色の袖を上げ、指定された文字を慎重に模写している。
そして、クオンの横顔をまじまじと見つめた。
「うまくいかん。けんど……せっかくなら、書いてみたい字があるぜよ」
「なんですか?」
「ねえね、ミナト、うちの名じゃ」
クオンは目を丸くした後で、顔を綻ばせる。
「そうですか。それなら以蔵ちゃんの名から書きましょう」
彼女がお手本で書いたものを見て進めていく。
しかし……すぐに和紙はぐしゃぐしゃと丸まって、畳の上を寂しく転がる。
「ああっ! 難しいぜよ! 大きゅうなってしまうき! こぶしみたいになっとる!
蔵なんて書けん! 臓腑の臓にしたらいいぜよ!」
――そっちのほうが難しいよ。
「以蔵ちゃん、ダメです。和紙は捨てないでください。まだ使えます」
「うん!」
僕は息を抜いて、座敷から離れた。
外にある厠から戻ると、以蔵ちゃんが、にやにやとした顔を向けてきた。
「なに? なんで笑ってるの」
「ねえねとミナトの名を漢字で稽古。うちのはまだ書けん」
「そう。それで?」
「いんやー、やっぱりミナトはいい男じゃ思うたき」
「どういうこと?」
「な、なんでもありません。ミナト様は薬の調合をしていてください」
白い頬に赤みを帯びるクオンは顔を逸らす。
二人は昼げを食べた後も、熱心に字の練習をしていた。
夕方を迎え、以蔵ちゃんはそろそろ帰ると言う。
僕たちは心配で引き止めたけれど、彼女が聞き入れてくれることはなかった。
「これからも字の稽古をするきに!
必ず、ねえねとミナトの名を漢字で書くぜよ!」
明るく、優しい笑顔だ。
時代が違えば、楽しい日常を送っていたのかと考えると胸が痛くなる。
けれど、どちらかを選べとなっても、彼女は己の義のために戦うのだろう。
僕には……それが羨ましかった。
「本当に土佐勤王党に戻るの? 戻るなら、武市さんに文を書くよ。
昨日のことも今までのことも、武市さんに言えば動いてくれると思う」
「大丈夫じゃ! 今日は武市先生のところに顔を出すきに!」
強い陽射しのような笑顔だった。それは僕とクオンを安心させるためのもの。
僕が首を垂らし下を向いていると、小さい草履と小さい足が見えた。
顔を上げると以蔵ちゃんが微笑んでいる。彼女は口元を綻ばせ、上目遣いで囁いた。
「ミナト。おまんがうちのために怒ってくれたんは嬉しかったがぜよ。
ミナトは気づいとらんけど、おまんはええ男じゃき。うちはいつでも応援しちゃる。
――これからもミナトのままで、そのままでいてほしいぜよ」
「なにそれ……。また来てよ。いつでも待っているから」
「こん髪飾り、ありがとう。いつまでも大切にするきに」
首を曲げて、指差すのは紅色に白い花模様の櫛だ。
「うん、また買ってあげる。白甲は無理だけどね」
彼女はこくこくと頷いた後で、クオンに顔を向けた。
「ねえね! 今度はうちがうまいもんを持ってくるきに!」
「昨日の干した芋で十分です。とてもおいしかったですよ」
「あれとは違う、うまいもんを持ってくるき! 牛はうまかったぜよ!」
「ダメです! 声が大きいです! あれは薬なのです!
お上に知れたら打ち首にされてしまいます!」
「あっ、そうやった。
けんど、ねえねに悪さするもんはうちが天誅しちゃるき。
――今度はウナギを持ってくるがぜよ!」
「はい、お願いします。一緒に食べましょう」
「楽しみぜよ!」
僕は微笑み、以蔵ちゃんに言う。
「今度さ、網を使った魚の獲り方を教えてよ。ウナギとか獲れたら僕も嬉しいし」
「ミナトにウナギは獲れん。最初はコイかフナでいくぜよ。
ドーッとグオーっと捕まえればいいきに」
「うん、わかった。その説明はわからないけどね」
「ほいたら、うちは行くきね……!」
背中が小さくなっていく。
彼女は何度も振り返り、クオンが持たせた竹の皮に包まれた握り飯を掲げる。
角を曲がる、その時まで。




