岡田以蔵 8
*
上がり框に腰掛け、草履を静かに履いていると、背後から声をかけられた。
「ミナト様、どちらに行かれるのですか?」
「夜風に当たってくるよ、汗が引かないから」
「私もお供をします」
「大丈夫だよ。引き戸の前にいるだけだから」
「お供します」
「すぐそこだから、家にいるのと変わらないよ」
「そう……ですか。なにかありましたら、お声がけください」
彼女は薄紫の着物を纏い、座敷で温かな茶を飲んでいる。
僕は額の汗を拭う。
夕げはクオンが作ったうどんで、僕は京の名物でもある七味唐辛子を入れすぎた。
口の中は山椒によって、ひりひりとした痛みが広がる。顔が火照って仕方ない。
引き戸を動かし外に出ると、雨がしとしと降っていた。
ひんやりとした風が熱を持つ頬を撫でる。闇の中に白い吐息が生まれていく。
汗は冷たいものに変わり、額に手を伸ばす。
暗闇の中から、ずずっと物音がした。
隣の家の軒下には薪、木桶、小さな荷車などがある。
――野犬だったら……まずいな。
すぐに家の中に入ればいいのに見てしまう。昔からそうだ。
怖いからこそ見たくなる。正体がわからないことも、また探究心を煽る。
ゆっくりと足を運び、物音がした方向に向かう。
風が吹き、頬に小さな雨粒が当たる。
夜目が利くようになってきた。目を凝らして、物置きの様子を窺う。
再び、ずずずっと音がした。身が強張る。
真っ黒な中に白いものが微かに見えた。
人の目だ。
「ひっ……」
草履で湿った土を押しつける。
目の前には何かがのそのそと動く。
逃げないと。獣ではない、人間だ。得体の知れぬ相手だ。
頭の中で思い描く。
家に入って心張り棒を掛ける。そうしなければクオンにも危険が及ぶ。
踵を返し、駆け出す。
引き戸に手を掛けると、暗闇の中から出た声が脇腹に刺さる。
「ミナト」
聞き馴染みのある声だ。
柔らかい印象だけれど、少し尖ったような繊細さも持っている。
「以蔵……ちゃん?」
「そうぜよ。驚かして、ごめんよ」
共に牛肉を食べた日から二日経っている。
こちらに近づいてくる彼女の足取りは、ふらふらと覚束なかった。
「どうして、そんなところにいたの? なにか……あったの?」
「えへへ……ミナト。ミナトじゃ……」
家から洩れる灯りを頼りに目を凝らす。
以蔵ちゃんの小袖は着崩れ、袴も破れ、泥に塗れている。
そして、彼女は寂しく笑っているように見えた。
既視感を覚える。その身に纏う雰囲気は、痛みを隠している。
子どもの頃に見た。そう……僕は知っている。
守りたかった人が、日々の中で壊されている事実を知ったときのことだ。
人の身も心も壊す……愚者の行為によって生まれる哀しい表情だ。
「誰かに酷いこと……されたの?」
問いかけても、彼女の笑顔は変わらない。
「なんもないきに。今日は土産を持ってきたぜよ」
以蔵ちゃんは懐紙に包まれた物を小袖の袂から取り出す。
「宿の軒下で、うちが干した『ひがしやま』ぜよ。
けんど……薩摩のもんにもろうた芋じゃき、土佐のとはちっくと違う甘さになっちゅう」
「ありが……とう」
差し出された干し芋を受け取る。彼女の手は震えていた。
「うちは……もう行くき」
「待って」
踵を返す彼女の手首を掴むと、酷く冷たくなっていた。
「寄っていってよ。寒いし……今日は泊まっていきなよ」
彼女は振り返らない。
「誰かに……酷いことをされたの?」
以蔵ちゃんが俯くと、髪に挿してある紅色の簪が少しだけ光った。
「家の中に入ってよ。寒いでしょ」
彼女は首を横に振る。視線を落とす僕は言い淀んだ。
このままではいけない。
自身の弱さは今も変わっていない。
けれど、目の前で苦しんでいる女の子を見捨てることなどできるわけがない。
「以蔵ちゃん。大丈夫だよ」
「けんど……」
「さ、入ろう。こんなに手が冷たい。家の中で温まろう。クオンもいるから。
――大丈夫、ここは怖くないよ」
彼女の手を握り、引き戸を開けると、クオンが台所で洗い物をしていた。
「以蔵ちゃん……!」
こちらを見たクオンは最初こそ笑顔になったが、すぐに顔を曇らせた。
「ど、どうしたのですか!?」
水で濡れた手を前掛けに擦りつけながら駆け寄ってくる。
行灯の灯りに照らされる以蔵ちゃんの姿。
着崩れた小袖に、袴は破けている。顔は腫れて、傷跡が生々しい。
刀で斬りあったと言われたら疑うことはできないけれど、僕の見立てでは違う。
刀傷はなく、殴打されたものばかりだ。
「夜遅くにごめんよ、ねえね」
そう言った彼女は、涙で頬を濡らす。
殺し合いで傷ついたのであれば泣かない。彼女はそういう子だ。
クオンが彼女の肩に左手を置いて、背中に右手を回した。
「誰に……傷つけられたのですか」
「うちは……大丈夫やき」
以蔵ちゃんは肩に置かれた手に触れる。
「うちは汚いき。ねえねの着物が汚れゆうから離れるぜよ」
「汚くありません」
クオンが身体を包み込むと、薄紫の着物の胸に以蔵ちゃんは沈んだ。
「うちは犬と蛇じゃき……」
「どういうことですか」
「犬のように遠吠えしちゅう。心ん中で叫んで斬るがじゃ。
そんで蛇のように地べたを這いつくばるぜよ。
蛇は……なんもかんも丸呑みするしかないきに」
路地裏で怪しげな女性を撃退したときの針のように尖った声とは違う。
指で弾けば、折れてしまうほどに繊細だ。
以蔵ちゃんの背中を撫でるクオンは、はっきりと言葉を返す。
「違います。以蔵ちゃんは、以蔵ちゃんです。土佐の岡田以蔵です」
小さい身体から嗚咽が漏れる。
「私たちは以蔵ちゃんが成そうとしていることを知っています。
世の人は上辺だけを見ます。噂だけを信じます。
ですが、私たちは知っています。以蔵ちゃんは教えてくれたではありませんか」
以蔵ちゃんは泣き声を上げた。
クオンに抱きつき、言葉にならない想いを胸の中で吐き出していく。
僕たちと出会い、仲良くなってから、以蔵ちゃんは教えてくれたことがある。
『こん国の子が泣かんですむ世を作るぜよ!
腹を空かせる子どもがいなくなる世を作るきに!
それがうちの義ぜよ!』
心を殺し、それでも人を斬っているのは、子どもたちのためだった。
「土佐勤王党の人たちにやられたのですか?」
クオンの胸の中にいる以蔵ちゃんは小さく、微かに頷く。
「ミナト様。以蔵ちゃんのことを頼みます」
その声は普段よりも低い。僕はクオンに問いかける。
「どうするつもりなの」
「――ます」
はっきりとは聞き取れない。けれど、すぐに声を張って言い直した。
「以蔵ちゃんに酷いことをした者たちに、仕返しをしてきます」
以蔵ちゃんがクオンの顔を見上げる。
「うちは大丈夫じゃき……そんなこと、ねえねはせんで」
「酷いことをした人たちを見過ごせません。私が仕返しにいきます」
「うちは……ねえねに、そんなことをしてほしくないきに」
彼女の口元は赤黒く変色し、裂けている。
僕の胸の奥は、火箸で焼かれたような痛みが走る。
「クオン。以蔵ちゃんをお風呂に入れてあげて」
「私は以蔵ちゃんの心を傷つけた者たちを許せません」
以蔵ちゃんの気持ちを誰よりも理解しているのだろう。
生々しい傷跡は、クオン自身の痛みを思い起こさせたはずだ。
しかし……包み込む優しさを以蔵ちゃんから失わせるわけにはいかない。
「お風呂に入れてあげて。以蔵ちゃんを温めてあげられるのはクオンだけだよ」
「ですが……」
「お願い、クオン」
「はい……」
夕げの前に浸かっていた土間の五右衛門風呂には、まだ湯が残っている。
手を入れると人肌よりも温い。
薪を焚べ、煙が目にしみる中で適温になるまで湯を沸かしていく。
爆ぜる赤い火。胸に集まる熱。怒りで猛る炎。
僕の胸と目の前で、それらが暴れる。
「準備できたよ。僕は……外で待っているから」
風呂の前には目隠し用の簾を梁から下ろしているだけだ。
土間にいると着替えなども見えてしまう。
「ミナトは寒がりじゃ。外にいかんで」
以蔵ちゃんは僕に微笑んだ。
いくらかの会話の後で、僕は彼女たちに背を向けた。
目の前には物言わぬ少し湿った引き戸がある。
背後で以蔵ちゃんが着物を脱いでいる。
衣擦れの音が耳に滑り込み、鼻には木の燃える匂いが入り込む。
牛肉を共に食べた夜の甘辛い香ばしさなど、どこにもなかった。
奥歯を噛みしめる。こめかみにも強い力が加わった。
「やっぱり……風呂から出るまで外で待ってるよ」
握りこぶしをほどいて、引き戸に手を掛ける。
「ミナト……!」
以蔵ちゃんの強い声に、思わず振り返ってしまった。
赤黒い痣が背中を覆い尽くす。
本来なら白い肌であるはずなのに、生焼けにでもされたような色だ。
僕はすぐに下を向いて、目を瞑った。
知っている。あの傷も。この胸の痛みも。僕は知っている。
このまま目を背けるわけにはいかない。あのときは助けられなかったのだから。
「ミナト、やめるぜよ」
その声に固く瞑っていた瞼を開ける。
「うちのためにミナトが行く必要はないきに」
「でも……」
「ミナトがうちのために傷つくんは嫌じゃき」
僕は眉間に皺を寄せ、握りこぶしを震わせた。
「僕だって……以蔵ちゃんが酷いことをされて黙っていられないよ。
立場を利用して……一方的にきみを傷つけた人たちじゃないか」
静まり返る土間に、薪の爆ぜる音が響いた。
「ミナトの想いはわかっちゅう。けんど……うちは大丈夫じゃ」
胸に熱いものが込み上げてくる。あのときもそうだった。
傷ついた人が自身の痛みを隣に置いて、僕の無力さを包んでくれる。
それが……いつでも痛い。
「今は刀を抜くときでも、斬るときでもないき。ミナト、行かんで」
「わかった……よ」
僕は座敷に上がった。
湯船の波打つ音が聞こえる。以蔵ちゃんを労るクオンの声もする。
いつか助けてあげられるだろうか。
人の生死に介入することは禁止されている。
そして、争えば刃が命を刈り取りにくる。
ここはそういう時代だ。
そのような揺るがない事実が、冷たい畳の上に座る僕の前に横たわっていた。
未来で生きている。
表向きは安全という場所で生きること。
幕末で生きている。
常に死の匂いを感じる場所で生きること。
どこにいても変わらない。
いつだって無力じゃないか。




