岡田以蔵 5
*
「遅いです。ネギは大阪に生えていたのですか?」
僕たちが戻ると、クオンは少し語尾を強めた。
「ごめん。ゴンさんがツネさんとケンカしていてさ」
事実だ。以蔵ちゃんと町から戻った後で、揉めている夫婦を仲裁することになった。
「うちが止めたぜよ。ミナトは赤子みたいに指をくわえよったきに」
以蔵ちゃんは鼻を鳴らし、口元を上げて得意げに言った。
「クオン、聞いてよ。
以蔵ちゃんが刀で大根を真っ二つにして、ゴンさんたちを脅したんだ。
『おまんらも、こうなるきに』って。ゴンさんが怖がって土下座しちゃってさ」
「喧嘩両成敗やき」
「二人の言い分を聞かないとダメだと思うけどね」
「ならぬことはならぬもの、やきに」
「それは会津の什の掟。きみの敵方の言葉でしょ」
「ミナト……おまん、詳しいぜよ。間者しゆうがか?」
「やめてよ。まあ……怪しまれるのは慣れているけどさ」
僕は首を竦める。
薬売りとして多くの陣営に顔を出せば、情報を盗みに来た間者として疑われることは多い。
「以蔵ちゃん、その髪飾りはどうしたのですか?」
クオンの紅い瞳が捉えたのは、以蔵ちゃんの黒髪に挿さる飾り櫛だ。
紅色に白い花の模様が描かれている。
彼女は日本髪ではないけれど、後頭部の上の方で纏めた黒髪の根元に櫛を挿している。
ぱっと背を向ける以蔵ちゃんは、クオンに櫛を見せた。
「ミナトに買うてもろうたがぜよ」
クオンと僕の瞳が合う。彼女はすぐに目を逸らした。
「うちはいらん言うたがぜよ。
こんなん付けて戦いよったら、飛んでいってしまうかもしれん。
けんど、どうしても買うてやる言うきに。
ミナトの顔を立てるために、受け取ったぜよ」
「そう……ですか。よかったですね、以蔵ちゃん。
とてもかわいくて似合っていますよ」
そう言って、以蔵ちゃんの飾り櫛に優しく触れる。
「どうせなら高いもんがよかったがぜよ。いざというときの路銀にもなるき。
けんど、ミナトが買うてくれんかったー」
目を閉じた以蔵ちゃんは、身体を左右に揺らす。
彼女が小間物屋で冗談混じりに選んだ白甲は、一番安くても七両はした。
篠原さんによって全財産を一度盗まれた僕には、到底払える金額ではない。
以蔵ちゃんは少し筋張った指で櫛に触れ、クオンを見た。
「ねえねも髪飾りが欲しいなら、ミナトに言えばいいきに」
「いいえ……私はけっこうです」
そう返して、下を向く。クオンが触れた白い前掛けに皺が寄る。
「ミナトが良い髪飾りをくれるきに。楽しみにしとくぜよ」
「私は……大丈夫です。お気持ちだけで十分なのです」
「ねえねは頑固もんやき! うちは男の人から初めてもろうたがぜよ!
まっこと嬉しいぜよ! ミナト、ありがとう! 大切にするきに!」
その笑みは一つだけだ。
けれど……さまざまな感情が虹のように重なっているように見えた。
台所での準備を終えて、座敷には食材が並んだ。
禁忌とされる牛肉、白米の入ったお櫃、皿に乗せられた卵。
僕の対面に座る以蔵ちゃんとの間には、七輪の上に置かれた鉄鍋がある。
クオンは濃緑のネギの乗った皿を手に持って、上がり框に足を掛けた。
その様子を見ていた僕に、以蔵ちゃんが言う。
「座敷で作るがか?
牡丹や軍鶏は同志が小鍋で食うとるところを見たことがあるぜよ」
「うん。牛の肉も同じで、その場で煮るんだよ」
「同じ……。牛は畑で使うことしか知らんがぜよ。
やっぱり……牛はいかんと……思う」
「一度、食べてみてよ。牛の肉はおいしいから」
僕がクオンから受け取った皿には、大量の斜め切りにされた青ネギが乗っている。
「さあ、始めましょう」
クオンは僕の隣に腰を下ろし、手を叩き合わせた。
牛肉の脂身を熱せられた黒い鉄鍋に落とす。
じゅう……と音を出し、独特の甘い香りが白煙と共に上がる。
傾けられた皿からネギが鍋の中に落ちていく。
「あれ……ネギから入れるの?」
僕がクオンに問いかけると、鉄の上のネギは菜箸によって軽やかに踊る。
「若い牛とはいえ臭みがあるので、ネギの力をお借りします」
――確かに……未来で食べる牛肉とは違うか。
「お酒でお肉を洗ったので、おいしくいただけると思います」
「ええ匂いがするぜよー」
香ばしい匂いが座敷に広がる。脂で光ったネギを見ていて、はっと気づく。
いくら隙間風が入り込むとはいえ、七輪を使って空気が籠もったら危ない。
座敷の格子戸を開けて、外気を呼び込む。
冷たい風が居間の香りを掻き回すように抜けていく。
振り返ると、クオンの左手には鉄鍋の中をさらに豊かにする調味料の器が握られていた。
「なにを入れるがか?」
「醤油、砂糖、クオン特製の酒です」
調味料を鉄鍋の中に流す。弾ける音を立てて、一気に泡立つ。
「わあっ……! 良い匂いぜよ!」
「私の酒は特別に甘く、香り高いのです!」
密造酒。
江戸時代は飢饉や米価の変動によって、自家製の酒造りを禁止されることもあった。
けれど、その線引きはとても曖昧だ。
農家や近所の人たちも酒を造っているし、クオンも悪びれる様子なく便乗している。
幕末が終わり、明治時代に進んでいくと、完全に密造酒という扱いになるらしい。
鍋の中で旨味の泡が弾けていく。
炭の匂い。ネギの焼ける匂い。砂糖醤油の甘い匂い。
腹を空かし、夜道を歩く人が迷い込んで来るかもしれないほどに香ばしい。
クオンは器に卵を割り入れて、僕と以蔵ちゃんに手渡す。
「これはどうするがか? 鍋ん中に、みんなで入れるがか?」
以蔵ちゃんの問いかけに、僕が答える。
「卵につけて食べるんだよ」
「つける? ど、どういうことぜよ……」
彼女は顔を歪めて、身を引いた。
「そのままの意味だよ。牛の肉とネギを卵につけて食べるんだよ」
口を曲げた以蔵ちゃんは、僕を憐れむような目で見る。
「牛の肉を卵につけて……食うがか?」
「うん。そうだよ」
「そ、それはいけん! そがいなもんを合わせるなんて、聞いたことないき!」
勢いよく立ち上がり、僕を見下ろす目はいくらかの怒りを帯びていた。
「でも、軍鶏鍋にも生の卵をつけたりするよね」
「軍鶏と牛を同じにしたらいかん!」
僕はクオンに目を向けた。澄ました表情で菜箸を動かす彼女は、淡々と言う。
「味の良い卵を選別しています」
「そういうことは言っておらんき……。
ねえね……牛と卵を合わせて……いかんぜよ」
おろおろする彼女の瞳は、僕とクオンを行ったり来たりする。
「これがおいしさの肝なのです。大丈夫です、味は私が保証します」
そう言われた以蔵ちゃんは、渋々といった様子で背を丸めて正座した。
湯気が立ち昇る鉄鍋から、ぐつぐつと音が出る。
鍋の中に牛肉を入れ、少し掻き混ぜて、しばらく待つ。
お櫃から顔を見せた米が、クオンによって茶碗に盛られていく。
「わあ……白いおまんまじゃ……」
両の手で茶碗を持った以蔵ちゃんは、すうっと炊きたての香りを吸い込む。
ほこほこと笑みをこぼし、頭を揺らす。
僕は一つ疑問を感じた。
「以蔵ちゃんもご飯に麦や粟を入れて食べるの?
僕は好きだから、普段も入れて食べるんだけど。
江戸や京の町中では、みんなが白米を好んで食べると思っていたよ」
「うちは白いおまんまを食わん。ミナトと同じように混ぜるがぜよ」
「そうなんだ。前に土佐勤王党の人たちが山盛りの白米を食べているのを見かけたから。
京や江戸に来た人は、そうなるのかなって」
「みんなは外で白いおまんまを食べるけんど、うちは宿で作って一人で食べるき」
「そう……なんだ」
「それに白いおまんまは食うなって、勤王党の同志から言われとるきに」
「どうして?」
江戸患いや大阪腫れと呼ばれた脚気という病を気にしているのだろうか。
栄養価のあるおかずを食べず、白米ばかりを食べることで引き起こされる病。
栄養素の欠乏だと発覚するのは、明治時代の終わり頃から大正時代にかけてのはずだ。
もちろん身体の感覚や経験則で気づいた者もいただろうけれど。
土佐勤王党の者たちが知っているとは思えなかった。
「白いおまんまは、動けんようになると言われとるきに」
僕は溜め息を漏らす。また土佐勤王党の人たちが彼女を虐げている。
そして……残酷なことに、白米だけを食べたら動けなくなるという意見は正しい。
けれど、彼女のことを想って言っているわけではないことは明白だ。
「僕が見た土佐勤王党の人たちは、何杯も白米をおかわりしていたよ」
「それは……」
彼女は目を伏せる。
白米を見て輝いていた笑みは、枯れかけの花のように萎んでいく。
「うちはこんなに……いらんきに」
彼女はそう言うと、ご飯の半分をお櫃へ戻してしまう。
それを見たクオンが眉を下げて、以蔵ちゃんに問いかける。
「お腹……減っていないのですか?」
「食いすぎるな、言われちゅうきに」
微笑む以蔵ちゃんを見たクオンは視線を落とし、煮えてきた牛肉を菜箸で取り出す。
皿に肉を取り分けていたところで、以蔵ちゃんが片手を前に出した。
「あ、ねえね。うちは牛の肉いらんきに」
「え……どうしてですか?」
「うちは湯漬けでいいき。少し湯をもらうぜよ」
以蔵ちゃんは台所に向かい、かまどで沸かしていた湯を茶碗に注ぐ。
戻ってきた彼女は、食卓に並ぶ大根の葉の漬物を茶碗の中に入れた。
クオンは僕に牛肉の皿を渡し、口を結んでいる。
「みんなで食べるぜよ!」
「いただきます」
僕が小さな声を出すと、以蔵ちゃんは軽い音を出して湯漬けを流し込んでいく。
「この漬物うまいぜよ! ねえねが作ったがか!?」
「はい。そう……です」
小さく返事をしたクオンが下を向く。
以蔵ちゃんは湯漬けにした米を次々と流し、あっという間に茶碗の中を空にした。
米の量が少ないから当然だけれど、表情を見る限り、足りているとは到底思えない。
「ミナト、なんしよるが。
ねえねが作ってくれたもん、早う食うがぜよ」
黙しているクオンの横顔を僕は見た。
赤い瞳は砂糖醤油がふつふつと泡立つ鍋の中に向けられている。
「無理にとは言わないけどさ……この牛の肉を少し食べてみてよ。
クオンが作ってくれたから、おいしいと思うよ」
皿に盛られて湯気の上がる牛肉を以蔵ちゃんに向ける。
「うちは……いいきに。ミナトが食うぜよ」
「牛の肉を食べたくないなら、無理にとは言わないけど。実はさ――」
「ミナト様、無理強いはよくありません」
相変わらず、クオンは下を向いている。
「この牛の肉さ、クオンが以蔵ちゃんのために前から探していたんだ。
今日のために……以蔵ちゃんと食べることを楽しみにしていてさ」
以蔵ちゃんは俯いているクオンを見た。
「その卵も農家を訪ねて、良いものを選んでいたんだ。
ネギもゴンさんに前から言って、味の良さそうな太いものを残しておいてもらってさ」
「ねえね……」
「食べなくてもいいから、その気持ち……クオンの気持ちだけはわかってあげて」
格子戸から京の冷たい風が吹き込んでくる。
以蔵ちゃんは静かにクオンの様子を窺っていた。
「ねえね……ごめんよ。食いたくないわけじゃないきに」
彼女は深く頭を下げた。櫛が光る。そして、ゆっくりと言葉を続けた。
「飯は……すぐに食え、飯は味わうな……って、同志から言われとるきに。
じゃから……すぐに食える湯漬けにしちゅう」
顔を上げた彼女は、潤んだ目でクオンを見た。
「ねえね……ごめんよ」
「私は大丈夫です。
以蔵ちゃん……押しつけるような形になってしまって、ごめんなさい」
クオンの持つ菜箸が器とぶつかり、かちゃん……と音を立てた。
「ねえね……」
二人の表情を見ていると、僕の胸は鉄鍋のように熱くなってきた。
「以蔵ちゃんはどうしたいの?」
「え……」
「以蔵ちゃんのことを操ろうとしているんだよ、土佐勤王党の人たちは。
あの人たちが豪遊しているのを何度も見たことがあるよ。
土佐勤王党の人たちが言っていること……武市さんは知っているの?」
「先生とは……近頃は会えておらん。
迷惑がかかるき、会うなって同志から言われちゅう。
今日のことも……前に武市先生の使いのもんが来て、行っていいと言われたきに」
「そう……。武市さんが知ったら黙っていないと思うよ。
それに……僕は以蔵ちゃんの好きにしたほうがいいと思う」
数本の黒髪が垂れる。俯いた彼女からの返事はない。
「今は休みだよ。ここの場所を知っている人もいない。
食べたいなら……食べていいんだよ。それは以蔵ちゃんが決めていいんだから。
お役目に差し支えることでもないし」
「けんど……」
両の肩を内側に引き込み、彼女は指先で袴を弄る。
僕は先程、彼女に向けた皿を見た。
そして、荒く掻き混ぜた卵に牛肉をくぐらせ、わざと音を立てて頬張る。
甘い味付けに自家製酒の香りが重なり、すうっと牛肉の匂いが後から追いかけてきた。
新たな肉を青ネギと一緒に口へ入れる。
とろりとした甘さが口の中を満たし、香ばしさが鼻から抜けていく。
ちょうどよい硬さのご飯と共に噛みしめる。
「うん。すごくおいしいよ、クオン」
「ありがとうございます」
「以蔵ちゃん。これ甘辛くておいしいよ。
僕たちの生まれた地域では、こういうふうに牛の肉を食べるんだ。
湯漬けもあっさりしていて、おいしいけどさ」
以蔵ちゃんの口元が微かに開いては閉じる。黒い瞳は、こちらの様子を窺う。
僕はさらに牛肉を口へ運ぶ。
「これはクオンが以蔵ちゃんのために作ってくれたものだよ。
食べたいなら、食べていいんだよ。
温かいご飯……きっと以蔵ちゃんが欲しいものだと思う」
彼女は目を瞑り、背を丸めた。




