岡田以蔵 3
茶屋を出て三人で歩き出すと、クオンは以蔵ちゃんの手を引いた。
「以蔵ちゃん、あれを見てみましょう」
二人は絵草紙屋の前に立つ。
店先には浮世絵などが飾られて、女性が着物のお手本にする絵も並んでいる。
「ねえねに似合いそうぜよ」
「以蔵ちゃんには、この花模様の着物が合っていると思います」
「淡い色はいらんき。うちは昼は鼠。夜は藍、鼠がええがじゃ」
「この色は以蔵ちゃんにきっと似合いますよ」
「これは目立つき。柄もあったらいかんぜよ」
「そのようなことを言わないでください。ほら、これもかわいい」
「これは血を浴びたら目立つきに」
「任務以外のときに着たらよいではないですか」
クオンは白い花があしらわれた桃色の着物を纏う。
以蔵ちゃんが纏うのは、濃い灰色の小袖だ。
二人は肩を寄せ合い、絵を指で差して語らう。
「あっ……ねえね。これはどうがか。良い色をしちゅう」
「この色も素敵ですね」
「うちは銭が無いき、ねえねに買うてやれん。
ミナトに買うてもろうたらいいがぜよ。それともミナトは甲斐性がないがか?」
「ふふ……どうでしょう。あっ、これもよいではないですか」
二人は店先で楽しそうに話す。けらけらと笑い、意見を出し合っている。
未来で見かける女の子たちの買い物と何も変わらない。
深い意図のない、ただ楽しむだけの会話だ。
僕まで顔が緩む。店主には冷やかしと思われているのか、じっと見られていた。
――この日々がずっと……続けばいいのに。
二人の邪魔をしてはいけない。
僕は一人で隣の店でも見てみようと足を進めた。細い路地が視界に入る。
背後からは日常の音が続く。
女性の軽やかな下駄の音。草履が土を擦る音。炭火が爆ぜる微かな音。
ふっ……と、それらの音が真っ直ぐに刀で斬り落とされるような感覚になった。
日中でも僅かな光だけが入る暗い路地には、一つの人影が見える。
背を丸めて、その人は座っていた。
路地に足を踏み入れると、ひんやりとする空気が頬を叩く。
黒い影の隣にはゴザのような物が置いてある。
一歩、一歩と進んでいく。
何度も咳き込む音が聞こえる。
僕は息を吸い込んでから、問いかけた。
「あの……大丈夫ですか? 具合が悪いんですか?」
どこからか湿り気のある腐った水のような臭いがした。
「あの……」
再び声をかけると、相手の首は寝違えたようにゆっくりと動いた。
継ぎ接ぎの黒い着物だ。黒い手拭いを頭に被っている。
暗い中でも、何となくわかった。
相手の顔は見えないが、口元だけがゆっくりと上がる。
着物から覗く手足から察するに、若い女性だ。
夜鷹と呼ばれる、野外で売春する女性だろうか。
昼間にいるものなのかと思った矢先、僕の身体はぶるっと震えた。
唾を飲み込み、あらためて声をかける。
「あの……よかったら食べてください」
僕は手に持っていた竹の皮で包まれた物を彼女に見せる。
「いただいた物なんですけど、まだ温かいですよ」
先程立ち寄った茶屋とは普段から親しくしている。
竹の皮に包まれた饅頭は、帰り際に看板娘から貰った物だ。
寒さによるものか、緊張によるものか、僕は震える指先で包みを開ける。
握りこぶしほどの饅頭を彼女の目の前に出すが、特に反応はない。
彼女の手は傍らに置かれた風呂敷へと伸びる。その中から細長い物体を引きずり出す。
それは……泥が付いたままの大根だった。
このような場所で見るからだろうか。
水分が抜けて白く萎びた大根は、死人の腕のようにも見えた。
彼女は大根を左手に持ち、右手の指先で身を滑らせるように撫でる。
両の手で端を掴んで力を込めた。硬いはずの大根の真ん中が、ぐにゃりと曲がる。
次の瞬間。
べぎん……。
鈍い破裂音が狭い路地に反響した。
無惨に折られた白い大根が僕に向けられる。
「差し上げます。齧ってみてください」
「生で……食べるんですか? おいしいんですか……ね」
「苦いかもしれませんし、辛いかもしれません。
もしかしたら……とても……とても甘いかもしれませんね」
「そ、そうですか」
相手の厚意だ。無下にはできない。
なぜか、僕の手は震える。相手が持つ大根も微かに揺れている。
大根を受け取ろうと、手を伸ばす。
「ありがたく、いただきま――」
「なんしちゅうが……!」
僕の声を掻き消す怒声が、背後から轟いた。
身体が大きく震え、すぐに振り返る。
明るい大通りには、目を見開く以蔵ちゃんの姿があった。
こちらに向かって、走りながら叫ぶ。
「なにを……しよるがぜよ!」
店先での柔和な表情が消え失せ、瞳には殺気が込められている。
彼女は身を低く落とし、刀の柄に手を掛けた。
「ち、違うよ……! 以蔵ちゃん! 待って!」
女性を買おうとしている。おそらく、そう思われているのだ。
誤解を解くために、両の手を前に突き出し、大げさに振ってみせる。
「待ってよ!」
「答えや……!」
草履が土の上を滑り、摩擦音を出して止まった。
以蔵ちゃんは空気を切り裂くように抜刀し、正眼に構える。
「ちが……違うって! 話を聞いてよ!」
「ミナト! うちの後ろに来るぜよ! はよう!」
「え……」
予想していない言葉だった。
「はよう下がるがぜよ……!」
その声には鬼気迫るものがあった。
彼女は僕の藍色の着流しの袖口を掴み、自身の背後へ乱暴に引き寄せる。
「ミナト様!」
背後にはクオンも来ていた。
「おまん、なにもんじゃ!」
以蔵ちゃんの草履は、ずずずっと鳴る。刀の鋒が女性に向けられた。
「答えや……! だれぜよ……!」
怒りの真意がわからず、僕は以蔵ちゃんに問いかける。
「急にどうしたの……この人は――」
「こんやつ、死人みたいな臭いがするき!」
「死人って……」
「急に現れたぜよ! さっきまで気配を殺しちょった!
こんやつ……ただもんではないがぜよ!」
そう言って、黒い着物の女性に向かった。
暗闇の中で刀が鈍く光る。大きく踏み込んで、刃を振り下ろす。
座っていた女性は後ろに跳んで、白刃を避けた。
さらに踏み込んだ以蔵ちゃんの刃は、すぐに首へ向かう。
女性は柳のように身を沈め、鋭い刃を躱す。
そのまま転がるように後ろに下がって、すぐに立ち上がる。
口元は、にちゃあ……と緩んだ。
暗い路地で二人が対峙する。
以蔵ちゃんは腰を落とし、左足を引く。
「おまん……なにをしようとしちょったがぜよ!」
その尖った声とは違い、黒い着物の女性がゆったりと返す。
「なにもしていませんよ。大根を……共に食べようとしただけです」
「おまん、殺気のようなもんを出しちょったがぜ!」
「誤解です。土佐の……岡田以蔵さん」
「おまん……うちの名を……」
草履が地面を擦る音と共に、以蔵ちゃんはさらに腰を落とした。
黒い着物の女性から笑い声が漏れる。
「数多くの暗殺に関わっている土佐勤王党の岡田以蔵さん。
今のように人を守ろうとする剣は……あなたに相応しくないと思いますよ」
以蔵ちゃんの肩は微かに上下している。
その刹那。
尋常ではない飛び込みから、鋭い突きが真っ直ぐに繰り出された。
黒い着物の女性は前に踏み込み、以蔵ちゃんの肩口に体当たりする。
身体を捻り、体勢を低くした以蔵ちゃんが、すぐに脛打ちを狙う。
上に跳んで避けた女性の喉元めがけて、さらなる刃が追う。
女性は首を曲げて躱す。
同時に刀の鍔元を足裏で蹴飛ばし、すぐに後ろに下がった。
口元を手で撫でて、妖しく微笑む。
「これが……京の都を震撼させる天誅の名人の剣ですか。
まさか、この程度というわけではないでしょう」
「おまん……」
全身の毛が逆立つような気がした。臓腑を抉られるような恐怖心だ。
それは黒い着物の女性から受けたのではなく、僕の前に立つ以蔵ちゃんからだ。
おそらく先程の斬撃は本気ではない。
得体の知れぬ相手とはいえ、威嚇程度に抑えていたのだろう。
雰囲気が一変した路地で吸い込む空気は冷たい。
黒い着物の女性は先程の大根を拾い上げ、土を手で払って一口囓る。
微かに笑い、僕たちに背を向けた。
「また……お会いしましょう。
次に会うときは手加減など無用です、岡田以蔵さん」
彼女は傍らの荷物を持つ。ゆっくり、ゆっくり歩き、闇深い路地の奥に消えた。
「あっ……」
我に返った僕は、先程の女性が消えた方向に足を踏み出した。
なぜだか、わからない。わからなかった……けれど。
そうしないといけないような気がした。
以蔵ちゃんに腕を掴まれる。
「深追いはいかんぜよ。ミナト、大丈夫がか?」
「うん……助けてくれて、ありがとう。以蔵ちゃん、さっきの人って……」
「あれは……ただもんじゃないぜよ。うちの刀を簡単に避けよった」
言葉を返せず、手に持っていた饅頭を見つめる。
「どうかなさいましたか、ミナト様」
「うん……いや、なんでもないよ」
頭に靄がかかる。答えのないものが胸の中で回る。
違和感を言い表せない。その心を探ろうとしても藻が絡みついてくる。
何があるのだろう。何が引っかかるのだろう。
「おケガはありませんか、ミナト様」
クオンの声が僕を包む。
いつも隣にいてくれる彼女を見ると、身体の緊張はすっと抜けてしまう。
「うん、大丈夫だよ」
三人で路地から出ると、頭上には晴れた空が広がっていた。
「ミナト。おまん……おなごを買おうとするなら、遊郭にでも行けばええき。
あんやつを買おうとするなんて、どうかしとるき。
ミナトは、ああいうのが好きがか?」
「ち、違うよ! あの人、お腹が減っているんじゃないかと思ったんだよ」
「ミナト様! 女性を買おうとしたのですか!?
ダメです! それはダメです……!」
「違うって! 二人揃ってやめてよ!」
「道端は安く買えるからいうて……ミナト、いかんぜよ」
「ミナト様! 私は許しませんよ!」
「そうじゃ! この外道のあんぽんたん……!」
僕は家に帰るまで何度も弁明したが、二人に追及され、人格を徹底的に否定された。
しかし……それは不安を拭うための虚勢だったのかもしれない。
各々が得体の知れない者に、何かを感じていたのかもしれない。
まるで……灯された蝋燭が錆びついた刀でゆっくりと削がれるように。




