岡田以蔵 1
肌寒い冬の京を歩く。目の前で銀髪が揺れる。
それを見ていると、僕が幼い頃、クオンに髪を乾かしてもらっていた日々を思い出す。
さすがに今はやってもらうことはないけれど。
かつて過保護であった名残は今もある。僕は彼女に助けられてばかりだ。
「ミナト様、目立ちすぎです。なるべく端を歩いてください」
彼女は普段より冷たい声色で言った。
「目立つのはクオンだけどね」
「これは仕方がないのです。そこを指摘するなど重箱の隅をつつくようなものです」
銀髪に紅い瞳。さらに桃色や薄紫といった上質な着物を纏うことも多い。
人々は最初こそ物珍しさや好奇心で、クオンのことを見ては、話しかけてきた。
この時代の日本人は積極的であるし、あまり恐れたりもしない。
僕たちは普段から薬を売り歩く。
店に立ち寄り、買い物や食事をする。みんなと会話をして心を通わせる。
時の流れが、すっかりクオンの存在を時代に溶け込ませていた。
「おっ! 異人のねえちゃん! 今日もかわいらしいなあ!」
「私は異人ではありません。
私は日本人です。生まれも育ちも日の本です。血も日本人です。
かわいい、は素直に受け取ります。ありがとうございます」
「ミナトはん、クオンはん、お蕎麦食べていっておくれやす」
「すみません、今日の夕げは決まっているのです。お蕎麦は後日食べに来ます」
「だんごー、だんごー、おいしい団子がありますえー。
あ……! クオンはん! 今日も綺麗なお召し物どすねえ!」
「ありがとうございます。この着物は私の魅力の一つなのです」
多くの人に声をかけられる。
クオンが言う目立たないように、という指示はあまりに滑稽だ。
「目立ってるよ、クオン」
手を口元に当て、彼女に小さく告げる。
「…………。気のせいです」
「今日は目立つとよくないんでしょ」
「おっしゃるとおりです」
「じゃあ、手拭いや笠で顔を隠したほうがよかったんじゃないの?」
前を歩く彼女は素早く振り返り、こちらを少し睨む。
「私と歩くことが恥ずかしいから、顔を隠せということでしょうか」
「違うよ」
「わかりました。そのお考えは見えております。
私は三歩ほど下がって歩き、ミナト様の後ろを歩けばよいのですね。
そうすれば他人に見えますものね」
「そんなこと言ってないよ」
「私とは歩きたくないのですね。
私はミナト様と一緒に買い物ができて、とても嬉しいですが……。
――ダメです! これはダメです! もう……ダメです!」
その大きい声に道行く人は振り返る。足を止める者もいた。
「言ってないってば。急に大声出すのやめてよ。目立ってるよ」
「め、面倒くさい……女って言いましたね!?
もう……ダメです! 私は……もう……!」
彼女はいつものように周囲をちらちらと確認する。
同情を集めようとしている。見世物となることを気にしている。
毎回思うけれど、そのようには見えない。
――わざとやってるよな……。
「そんなに大声を出したら目立つよ」
「目立ったらダメなのですか……!」
――今日はダメだろ。
「それよりさ……まだ先なの? 例の場所は」
クオンは少し丸めていた姿勢を正す。
「はい。あと少しです。それとミナト様。店の名を出さなくて正解です。
誰かに聞かれたら怪しまれます。後を付けられて、密告されたら首が飛びます」
「大げさだよ」
詳しい説明は受けていないが、僕たちはこの時代の禁忌を犯そうとしている。
だから、なるべく注目を浴びずに歩けとクオンに言われていた。
「ここから入ります」
クオンは狭い路地の入口で足を止めた。
首を動かさず、紅い瞳だけが左右を行ったり来たりする。
「三、二、一! 今です……! ミナト様……!」
背中を押されて、二人で日陰になっている路地へ入る。
冬の寒さもあるのか、しんと静まり返っていた。
道の途中にある店の暖簾には、薬という文字だけが染め抜かれている。
クオンは僕を見て不敵に笑う。
「店の旦那さんとは話がついています。
この取り引きは……とても危険なものであることを理解してください」
「大げさだって。でも、楽しそうだね、クオン」
「甘くみないでください。軽んじないでください。
今日を迎えるまでの交渉には、とても苦労しました」
幕末に来てからクオンが僕の傍を離れたことは、ほとんどない。
例外は、京に滞在し、稔麿ちゃんや久坂さんが僕の隣にいるときだけだ。
それが店との交渉によるものだと後で知った。
クオンはいつも僕のことを心配する。
その彼女が傍を離れるということは、彼女たちのことを信頼している証でもあった。
引き戸に手を掛ける。
木が軋む低い音と高い摩擦音が混ざり、不気味な響きがした。
店内は薄暗い。酸味のある独特の匂いが立ち込めている。
土間には年季の入った木桶や樽が乱雑に置かれていた。
「あのー、すみません」
僕が声をかけると、土間の奥でかがんでいた男性が、ぬっと立ち上がった。
紺色の前掛けは、でっぷりとした腹で膨らんでいる。
「なんや」
瞳がほとんど見えず、瞼は厚い。商人とは思えない眼光だ。
クオンの言う店の主人だろうか。
彼の手には光沢のない包丁が握られている。
「おい。な、ん、や」
――怒ってる……!
「あの……」
「はよう、答えろや」
息をのむ。息を吸い込む。言葉を出そうとした瞬間だ。
僕の背後にいるクオンが見えたのか、男性は表情の強張りをほどいた。
「なんや……クオンちゃんか。おいでやす」
言葉自体は柔らかいが、愛想笑いの一つもしない目は恐ろしい。
一歩、一歩と近づいてきた店主は、急に片方の口角を上げ、にやりとした。
人を見た目で判断するなという意見がある。
それは悪意ある人間側の言い分ではないだろうか。
第一印象は外見がすべてだ。
瞬きをほとんどしない双眸。無精髭に覆われた口元。手に持つ厚みのある包丁。
僕たちの前に立つ店主は、悪人にしか見えない。
彼は小鼻を太い指先で摘み、ずずっと鼻を啜る。
「例のモンは……きっちり用意したで」
「ありがとうございます、旦那さん」
背を丸めた店主が僕たちの間を通り抜ける。
店の外に顔を出し、左右を確認した後で、引き戸に支え棒を施した。
「さあ、商いの始まりや。残りの金……払うてもらおか」
クオンは桃色の巾着袋から小判を取り出す。
一枚、二枚、三枚と上がり框に並べていく。
それを見た店主は唾液混じりの息を吸い、ぶるっと身体を震わせた。
「三両……か。クオンちゃん、ようわかっとるな」
この時代の貨幣価値は大きく変動する。
けれど……。
四十万円に近い額を惜しみなく出す彼女を見て、僕は思わず身を引く。
会話の流れから察するに、前金を払っている。
未来と違って、僕が稼げる金額は決して多いとは言えない。
薬売りとしての利益とクオンが賭博で荒稼ぎしている金があるけれど。
困窮している人たちに食べ物を分けたりもするから、派手に使うほど裕福ではない。
店主は素早く小判を回収し、店の奥へと消える。
しばらくすると、小玉の西瓜が収まるほどの桐箱を両の手で持ち、足早に戻ってきた。
いくらか湿り気がありそうな箱が畳の上に置かれる。
クオンは顔を近づけ、垂れた銀髪を耳にかけて、店主に言った。
「中身を検めさせていただきます」
「なんや、そんなに信用ならんか。こっちは商売に命を懸けとるんやで」
「お互いのためです。これは必要なことです」
彼女は桐箱の蓋を取る。
箱の中はしっとりとした大鋸屑と荒く砕かれた氷で満たされていた。
クオンの細く白い指先が中を掻き分けていく。
そこには幕末で見ることのない、綺麗な肉が入っていた。
鮮やかな赤色と美しい白さで光る、大きな肉の塊だ。
「極上の品や。どこに出しても恥ずかしゅうあらへん。
お上や公家はん、その膳に並ぶはずやったもんや。苦労したで、ほんまに」
「問題ありません。ありがとうございます」
「牡丹、紅葉、桜とは味が違うで。わしも味見したんや」
――猪……鹿と馬の隠語か。
「勝手に食べないでください」
「極上の品やから、調べんことには売られへん」
クオンが桐箱の蓋を閉めると、店主は軽く頭を下げた。
「また買うておくれやす。
世間じゃ攘夷やなんや言うとるけど、人は金には勝てん。飯の美味さにも……な」
「確かに……人は食の誘惑に弱いということは同意します」
「せやろ。わしは今回の件で危ない橋を渡るおもしろさ知ってしもたさかい。
クオンちゃんもそうやろ。その目は……商人の目や」
クオンは店主の発言を鼻で笑った。
「危ない橋を渡ることがおもしろいとは、よく言ったものですね。
旦那さんが他にも横流しをしていること、私は知っていますよ」
「な、なんや……それ……」
「一月ほど前、今回の薬に近い味噌漬けを買った客がいますね。
あれは博徒です。親分へ献上するのでしょうか」
「それは……」
「私は取り引き相手のことを入念に調べるのです」
「ほんまに……クオンちゃんは怖いわ。堪忍しとくれや」
クオンと店主の間に嫌味のない、称え合うような笑みが交わされた。
「旦那さん、味噌漬けもいただきます」
「おっ、なんや、味噌漬けも買うてくれるんか。
牡丹も紅葉もあるで。紅葉は昨日入ったもんや」
そう言った店主の肩から、力が抜けたように見える。
「豚の味噌漬けがよいですね」
「あるで。クオンちゃんなら一朱でええわ」
クオンは再び巾着袋を探る。
そして、畳の上に将棋の駒を指すように一朱銀を置いた。
――七千円……高いな。
店主は土間に置かれた木桶の中に手を入れる。
たっぷりの味噌が入っていて、そこから肉の塊を取り出した。
そのまま帳場へ向かう。
竹の皮の上に肉を置いて、慣れた手つきで皮を畳み、余った端を指で細く裂く。
それを紐代わりにして、十文字に固く縛り上げる。
「へい、お待ち」
クオンは持参していた橙色の風呂敷で、牛肉と豚の味噌漬けをさらに包んだ。
無精髭を指で撫でる店主が彼女に微笑む。
「また上等の薬が欲しけりゃ、声をかけよし。
一見さんには出さんけど、クオンちゃんになら特別に回したるさかい」
「ありがとうございます。また来ますね、薬流しの旦那さん」
「ほんま、堪忍しとくれや。お上よりクオンちゃんのほうが恐ろしいわ」
店から出て、誰もいない細い路地を歩き出す。
僕は店主の最後の一言が気になって、クオンに問いかける。
「ねえ、おじさんの言っていた薬ってさ、隠語の薬食いのことでしょ」
クオンは周囲を見渡し、声を潜めた。
「おっしゃるとおりです。この時代は食肉を好まないのです」
「殺生の忌避、四足の食肉が禁止かー。
でもさ、別に隠さなくてもいいじゃん。
実際には朝廷から庶民にいたるまで食べているんだから」
「人には建前、というものがあるのです。
禁止した側、禁止された側。このように危うい関係性があります」
「まあ……そうだけど」
彼女は軽く頷いて、微かに口元を上げる。
「今回の薬もそうですが、氷を融通してもらうことにも骨が折れました。
この時代は冷蔵技術が未発達なので、お肉は味噌漬けが主流なのです」
僕は彼女が抱える風呂敷を見た。
「今回のは生肉なんだね。氷は入っていたけどさ」
「これは朝廷や将軍家の献上品となるはずだった彦根藩の薬です。
屠殺し、氷漬けにしたものを飛脚で運んでもらいました。不正ですけどね」
「もしかして……黙って飛脚を使ったの?」
「はい。飛脚には秘密裏に運んでもらったのです。
正規の手続きを踏めば、牛肉の存在が露見しますから」
「それってさ……」
「はい。賄賂です」
「まずいって……」
「いつの時代も賄賂は付きものです。
きれいな言葉を並べる者ほど私腹を肥やすものです」
「じゃあ、クオンも同じってことになるよ」
「私は私腹のためではありません」
彼女は首を大きく振った。
「賄賂が知られたら……どうなるの?」
「死罪です」
彼女は隠すことなく、明瞭な言葉で言い切った。
「秘密裏に飛脚を使うこと。献上品を横領すること。
これは御公儀への反逆です。とても重罪なのです」
背筋が少し寒くなった。
死罪もそうだけれど、そこに至る前には罪を吐かせるための拷問もあるだろう。
「いくら牛肉が食べたいからって強引すぎるよ。
薬として手に入れられる猪とか豚の味噌漬けでよかったじゃん」
「いいえ、ダメです。生の状態でなければいけません。今日は特別な日ですから」
彼女の口元は上がり、僕を見てから目尻を下げた。




