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散りゆく桜の真実、ぼくは未来で口づけを  作者: 陽野 幸人


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幕間 クオン

「ミナト様、髪の毛を乾かしましょう」


「えー、いいよ。このままでも乾くよ」


「ダメです」


「いいよ」


「ダメです」


 ミナト様は聡明だ。

しかし、小学生であるからか、私の助言を聞き入れてくれないことも多い。


 背後から濡れた髪をタオルで叩く。彼は端末で数式を見ていた。

それは彼の両親が勉学に厳しいということが影響している。


「髪の毛は濡れるとキューティクルが開き、とても傷みやすいのです。

濡れたままでは雑菌が繁殖して、頭皮トラブルの原因にもなります」


「えー、そうなの? でも、ぼくは別にいいよ。女の子じゃないし」


「性別は関係ありません。

それに頭皮トラブルとは、髪の毛が薄くなる可能性もあるということですよ。

よいのですか? ハゲたおじさんのように醜態を晒すことになっても」


 端末の画面の上を滑る彼の指先が止まる。


 恐怖心を与えれば理解してくれるのかと思ったが、それは私の勘違いだった。


「クオンってさ、おじさんにきびしいよね。そういうこと言わないほうがいいよ。

なりたくて、なっているわけじゃないんだから」


 振り返った顔、タオルの中にあるのは純粋な眼差しだった。


 彼は私のことを「人工生命体」としてではなく「一人の人間」として接してくれる。


「いいですか、ミナト様。ハゲはハゲです。

ツルッパゲであれば……スキンヘッドということで誤魔化せます。

しかし、頭頂部だけ髪が無いのは不気味ですよね」


「でも、なりたくてなっているわけじゃないよ」


「ミナト様、よく考えてください。

テーブルの上に真ん中だけ齧られたリンゴが置かれていたら、どう思いますか?

暗い、暗い、誰もいない室内。

明かりを点けると、そこにあるのは齧られたリンゴです」


「それは……こわいけどさ」


「やはりハゲのおじさんは不気味でしょう。

茹で卵にヒジキを部分的に刺したら怖いですよね?」


「それは別の話だよ」


「つまりは、日頃のケアが大切ということです」


 ドライヤーの熱でミナト様の髪を横から乾かしていると、彼は頬を緩めた。


「クオンの髪はすごくきれいだよね。ちゃんとケアしてるもんね」


「それは……私への嫌味でしょうか」


 熱を分散するための手首の返しは、だんだんと早くなってしまう。


「ちがうよ。友だちにクオンの写真を見せたら、きれいって言ってたよ」


「世の中には世辞や建前があると、以前の勉強でお伝えしました」


「うん、覚えてるよ。でも、ぼくは世辞なんて言ってないよ」


「それはよかったです」


「信じてないんだね」


「はい、信じていません」


「あはは、クオンのいじわるー」


「この場合に適切な言葉ではありません。

人間不信や猜疑心という言葉を使いましょう」


「人間不信なんだね、クオンは」


 ミナト様のように接してくれる人間は珍しい。

彼は私のことを見下すことも都合よく使うこともない。


 人工生命体の購入理由は家事、介護、教育など多岐にわたる。

他にもするべき役割があった。

その目的のために人工生命体を購入する者も多い。


 私たちは食事をするし、生理現象もある。

女性の身体を持つ人工生命体であれば、擬似的な生理も備わっている。

私たちを作った人間たちは、なぜ身も心も人と同じ造りにしたのか。


 人間と同じ。しかし……人間ではない。


 ミナト様が就寝した後で、私はキッチンの掃除をしていた。

廊下のほうから、ひたひたと足音が聞こえ、人の近づく気配がする。


 背を丸めた身体が硬直し、唾を飲み込む。


 息は浅い。瞬きが速くなる。


 背後に現れたご主人様に腕を掴まれ、寝室へ引きずり込まれた。


 いつものように身体の芯に刺さるような痛みが走る。


 何回目の行為が終わった頃だろうか。

突き飛ばされるように私は寝室から追い出された。


 洗面所で何度も口をすすいだ後、月明かりが差しこむだけのリビングに戻る。


 膝から太股にかけて、タオルで拭いているときだった。


 急に照明が点く。振り返ると、目を擦っているミナト様がいた。


「あ、クオン……まだ、寝てなかったの?」


 すぐにタオルで身体を隠したが、彼の寝ぼけた目でさえも欺くことはできなかった。


「どうしたの、クオン……!」


 目を見開いて、駆け寄ってきた。


「なんでもありません」


「アザがいっぱいあるよ……!」


 普段は衣服で隠れている腕や背中を見られてしまった。


「なんでも……ありません。申し訳ございません」


 夜のリビングは静まり返っている。私たちの呼吸音しか聞こえない。


「父さんに……なにかされたの?」


「申し訳ございません」


「ひどいことされてるの?」


 ミナト様は優しい。その心を私の痛みで塗る必要はない。


「違います」


「じゃあ、母さんに殴られたの?」


「違います」


「クオン……」


 顔を見ることができない。下を向いていると、小さい足が廊下へと向かった。


 すぐに追いかけて、細い腕をしっかりと掴む。


「やめてください」


「どうして!」


 振り返った彼の目には涙が溜まっている。


「私は人工生命体です。このようなことも業務の範囲なのです」


「クオンは……それでいいの?」


「私を購入したのはミナト様の父上です。

ご主人様のお申しつけは、すべて聞き入れます」


 掴んでいた腕を振りほどかれる。


「そうじゃない……よ。クオンは……クオンはどう思ってるの?」


 唾を飲み込む。ミナト様の言葉に対し、すぐに反応することができなかった。


「私が行うべき業務であり、責務であると思っています」


 彼は小さい身体を震わせた。


「そんなの……ウソだよ」


「そのようなことはありません」


「ウソだよ! クオン、泣いてるじゃん!」


 彼は駆け出し、父親の部屋に入っていった。


 指先で頬を撫でる。ミナト様に言われたとおりだ。

肌に染み込むより先に、涙は首筋を伝っていく。


 大きな音を立てて扉が開き、ミナト様が部屋から追い出された。


 彼は廊下に出てきた父親の足元に縋りつく。


「父さん……! クオンにひどいことするのやめてよ!」


「いい、いい。離せよ」


「なんでそんなことするの! やめてよ!」


「いいんだよ。あいつは人工生命体なんだから」


「そんなこと関係ないよ!」


 小さい身体で向かっていったところで、大人に敵うはずもない。

組みついても簡単に突き飛ばされて、広い廊下に転がってしまう。


 私は駆け寄って、ミナト様の身体を覆った。


「申し訳ございません、ご主人様。ミナト様は悪くないので、どうかお許しください」


「ちゃんと教育しておけよ」


 そう言った彼の足が私の脇腹に食い込む。


 重い痛みと同時に、私の名を呼ぶミナト様の声が廊下に響く。


 ご主人様は鼻を鳴らし、部屋に戻った。


「クオン……」


「私は大丈夫ですよ」


「大丈夫じゃない……よ」


 蹴られたところに触れる手の温もりは痛みを和らげてくれる。

同時に胸の辺りまで温かくなることが不思議だった。


 いや……昔にも感じたことがある。


 人工生命体の施設にいた頃だ。


 私は涙目の彼の頬に触れる。


「おケガはありませんか、ミナト様」


 彼の目から、ぽろぽろと涙が流れていく。


「ぼくがクオンのこと……守るから。必ず……守るから」


 胸の辺りはさらに熱を帯びる。

私は相反する言葉を口にすることで頭がいっぱいになった。


「おやめください」


 ミナト様は目を見開いて、硬直した。


「おやめください。私を購入したのはミナト様の父上です。

ご主人様の言いつけを破れば、私は廃棄されてしまいます」


「なんで……そんなこと言うの?」


「私は人工生命体です」


「関係ないよ!」


 彼は立ち上がり、父親の部屋のドアノブに手をかけた。


「おやめください……!」


 声を荒らげたことは初めてではない。

施設にいた頃、同期とは言い争いをすることもあった。

人工生命体であっても、自我を持っていいと教えてくれた子と喧嘩したこともある。


 ミナト様の顔を見ることができない。しんと静まり返る廊下で私は声を出す。


「これ以上、ご主人様に逆らえば私は廃棄されるかもしれません。

廃棄されずとも、不良品として返品されてしまうかもしれません。

そうなれば……私は――」


 途中で言い淀むと、ミナト様は小さい声で問いかけてきた。


「どうなるの……?」


 声が震えてしまう。


「ミナト様との……記憶も失われます」


「そんな……」


 私は廊下に座り込んだまま、ドアノブに手をかけているミナト様の腕を掴む。

彼の手は力なく、するりと下りる。


「これ以上、ミナト様がご主人様に立ち向かうというのであれば――」


 言いたくなかった。そのようなことを口にしたくない。


 それでも……言わなければいけなかった。


「私は自らの記憶を初期化します。誰のことも知らぬ人工生命体に戻ります」


「そんな……どうして……そんなこと」


「私が人工生命体だからです」


 私たちは目を合わせず、沈黙した。


 しばらくすると、ミナト様は私の手を引いて立ち上がらせてくれた。

ゆっくりとした足取りで、リビングに連れて行ってくれる。

ソファに座るように促され、傍に置いてあるタオルケットを身体にかけてくれた。


 ミナト様はキッチンへ向かう。


 戻ってきた彼の手には、銀色のボウルに張られた氷水と橙色のタオルがあった。


 タオルを氷水に浸けて、小さい手で、ぎゅっと絞り、私の腕に押し当てる。


「ごめんね……クオン……」


「ミナト様が謝る理由は一つもありません。

冷やしてくれて、ありがとうございます。あとは自分でやります」


 ミナト様の目から涙があふれている。それを見ていることがつらかった。


 彼は鼻水を袖口で拭いながら、途切れ途切れに言葉を絞り出す。


「ぼくが……ぼくが……もっと強かったら……」


「ミナト様は、お強いですよ」


「強くない……弱いよ……」


「いいえ、お強いです。一緒にいる私は知っています」


「ぼくが……ぼくが……。

幕末の偉人さんたちみたいに強かったら……クオンのこと守ってあげられるのに。

ぼくが幕末の偉人さんたちみたいに強かったら……クオンが泣かないですむのに……」


 彼は幕末が好きだ。歴史の授業は詳しく話すように言ってくる。

偉人たちの生き様と死に様を想像し、思いを馳せていることも多い。


「ごめんね……クオン。ぼくが弱いから……」


 私の身体を冷やしてくれる手は震えていた。


「ミナト様は決して弱くありません。

大丈夫です、泣かないでください。私は……ミナト様の涙を見たくありません」


 カーテンを開けたままのリビングからは月が見える。


 鼻を啜り、氷水を絞る。熱を持つ肌が冷やされていく。


 私は彼の涙を指先で拭ってあげることしかできなかった。




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