山南敬助 6
障子が軋んだ音を出し、三人の顔が座敷を覗く。
「平助ちゃん……ミナトさん、クオンちゃん」
「山南さん!」
駆け込むように座敷へ入り、抱きついてきたのは平助ちゃんだ。
「山南さん! 嫌です……! 死んじゃ嫌です!」
私の胸の中で涙を流す彼女は顔を上げた。
両目は充血し、顔は赤黒く腫れ上がっている。
二十歳の子に涙を流させることは、年長者としてとても胸が痛む。
「ごめんなさい、平助ちゃん。もう決めたことです」
「でも……でも……嫌です!」
「聞きましたよ。私のために土方副長に立ち向かったそうですね。
無茶をさせてしまって、ごめんなさい。痛かったでしょう」
黒髪を撫でると、いつものように可愛らしい笑顔を向けてくれる。
けれど、殴打された顔の腫れは己のことのように痛む。
「大丈夫です! でも、土方さん、ずっと殴ってきたんですよ!
『てめえだけで語るな! 殺すぞ! クソガキ!』って、すごい剣幕で!
怖くて……少しだけ漏らしそうになりました!」
「そう……痛かったでしょう」
「私もムカついたから、みんなが止めてくれた隙に三発くらいやり返したんです!
そしたら……もう土方さん鬼の形相になって! あの時は漏れたかもしれません!」
顔が綻んでしまう。彼女はいつでも明るい。
「おなごが下の話を人前でするものではありませんよ。
それで……土方副長を殴って大丈夫だったのですか?」
「そこなんです! もう殺されると思って、私は刀に手を掛けたんです!
もう関係ない! 土方さんがなんだ!
やるしかないって! こうなったら斬るしかないって……!」
「刀を……抜いたんですか」
平助ちゃんは、ばさばさと髪の毛を振った。
「その前に近藤局長が土方さんのことを投げ飛ばしたんです!
『八つ当たりするな!』って! 隊士たちが腰を抜かしていました!」
「そう……ですか」
平助ちゃんは急に顔を伏せて、ぽつりと言う。
「山南さん……切腹するんですか……」
騒がしさは座敷から消え去った。
「ごめんなさい。私は私の道を歩きます。己の最期は己で決めます。
それが……私の一つの義なのです」
「でも……」
「平助ちゃん」
彼女の言葉を優しく止めたのは、ミナトさんだ。
「山南さん……失礼ですけど、お聞きしたいことがあります」
畳に視線を向けた後で、彼は私を見つめた。
「いいですよ、なんでも聞いてください」
「なぜ、脱走して……切腹という道を選んだんですか」
誠実な瞳をしている。いつでも淀みがない。
今までもミナトさんと話せば、私の胸は自然と穏やかになった。
「理由は一つではありませんので、お伝えすることは難しいです。
ただ……生き死にとは、人それぞれあるものですよね。
その者が持つ感情をすべて理解することは、ありえないと思います」
「はい。その人が持つ痛み、苦しみ、悲しみは他の人が簡単には言ってはいけません」
「ミナトさんは……お優しいですね。
数ある中の一つを挙げるとするなら、私が新選組にできる最後のことだからです」
「最後のこと……」
「新選組は……さらに世の情勢に巻き込まれると思います。
その時には一枚岩でなければいけません。
叶わぬ場合は内部から崩壊することになるでしょう。
私は……私の命で新選組を助けたいと思います」
「山南総長でさえも切腹になる。組織としての隙を無くす……ということですか?」
「そうなればよいかと。私の命が新選組の命を繋ぐように願っているのです。
人の死とは……他者を強くすることがあります。
――私の命を新選組へ捧げます。それが今の私にできる唯一の誇りです」
ミナトさんは深く頭を下げてくれた。
私は強がりを言った。胸の奥に隠している。
いや……みんなの前では言いたくなかった。
これからを生きる者たちに言えなかった。
歩むことができない。進むことができない。生きることが……できない。
何度も転んだ。何度も泣いた。何度も叫んだ。
けれど……立ち上がることはできなかった。
私はミナトさんの肩に、そっと触れる。
「顔を上げてください。
ミナトさんもクオンちゃんも会いに来てくれて嬉しいですよ」
ミナトさんは、ゆっくりと顔を上げた。
「山南さん……止められないとわかっています。
止めることが……無礼であるとも思います。
あなたの決意を邪魔したくありません。よかったら……これを受け取ってください」
彼が手のひらに乗せて差し出したのは、白い組紐だった。
「切腹のとき、髪を結う必要があるかと思って」
小刻みに震えている。彼の手も白い紐も。
「ありがとうございます。こちらで臨ませていただきますね」
彼から組紐を受け取ると、今度はクオンちゃんが懐紙に包まれた物を取り出す。
それは茶色い饅頭だった。
普通の饅頭より随分と小さく作られている。殻付き胡桃ほどの大きさだ。
「今日、台所をお借りして、山南さんと試行錯誤していた饅頭を完成させました」
「ついに出来上がったのですね」
クオンちゃんは小さい饅頭を摘み上げて、私に見せた。
「私は世にある饅頭が大きすぎると思うのです。これは造形として美しくありません。
良い味に加え、雅な姿で完成させました。これこそが京に相応しいのです」
「へへん……! クオンのおっぱいが小さいから、それの表れだね!」
平助ちゃんがクオンちゃんへ想いを込めた言葉を向ける。
いつものことだ。言われた彼女も必ず想いを込めて返す。
「大きなことに意味はありません。
平助ちゃんは私より小さいのに、偉そうにしないでください」
「へっ! 負け惜しみー! 小さいおっぱいのクーオン! クーオン! クオン!」
「黙れ。人の話を聞きなさい、悪ガキめ。
その腫れた顔を冷やすために、アンコまみれにしてあげましょうか……!」
クオンちゃんは恐ろしい言葉を出すことがある。
心が軽くなった私は、軽く頭を下げた。
「クオンちゃん、ありがたくいただきます。みんなで食べましょう」
四人で小さい饅頭を口にする。
温かい日常。穏やかな日常。紡いできた日常。
それをガラス細工のように壊すのは私だ。
程よい甘さの饅頭の味が口の中に広がり、私はクオンさんに微笑む。
「とても……おいしいですね。塩加減が絶妙で……甘味が増していますね。
小さいから、くどさもないですし」
「山南さんがおっしゃっていたように、多くの隊士に振る舞えることを第一にしました。
砂糖を控えているので、用立てる金子も少なくできます」
普段より張りのない声だ。背を丸めた彼女にミナトさんが言う。
「おいしいよ、クオン。これくらいの甘さがちょうどいいよね」
「うん! おいしい……! もっと食べたい!」
目の前の三人から涙があふれていた。
気づかぬ内に私の頬にも同じ滴が伝っていた。
止めることなどできない。
大切な人との別れを噛みしめているのだから。
最後に三人と共に食べることができて……幸せだ。
*
前川邸の奥座敷に正座した。
左側の斜め前には近藤局長、土方副長。右側には総司ちゃんがいる。
格別の配慮をしてくれた近藤局長と土方副長に感謝している。
武士として切腹という誉れの場を用意してくれた。
白の小袖は身も心も引きしめる。
浅葱色の裃が自然と背筋を正してくれた。
身を清めるための濡れた手拭いは、一抹の心地よさもあった。
ミナトさんからいただいた白い組紐で、首筋が露わになるよう髪を纏めている。
――ミナトさん。あなたは知らないでしょう。
あなたと話しているとき、私の心がどれほど軽くなったことか。
お話を聞いてくれて、ありがとうございました。
――クオンちゃん。共に料理をする日々はとても楽しかったです。
あなたの知識は、私の探究心をくすぐるものばかりでした。
ありがとうございました。
――平助ちゃん。いつも笑っていますね。
あなたが笑っているのであれば、新選組は大丈夫です。
迷ったときは友に相談して、これからも元気に過ごしてください。
ありがとうございました。
――総司ちゃん。これからも……お二人の真っ直ぐな刃でいてください。
あなたの刃が健在であれば、新選組が負けることはありません。
その名が天下に轟く日を楽しみにしています。
ありがとうございました。
畳は張り替えられていた。その不器用な優しさを私は知っている。
何度か深呼吸すると、い草の落ち着きある香りが心を満たす。
――土方副長。いつも心を鬼にして新選組を支えている、あなたのことが心配です。
どうか……ご無理をなさらないでください。
あなたの隣で支えてあげることができず……申し訳ございません。
私の背後には逆さ屏風が立つ。
添介錯を土方副長が直々に務めてくれる。彼女の手で酒を注がれ、二度口に含む。
そうして再び酒を与えられ、二度口に入れる。
喉は熱くなったが、同時に少しの冷たさも迫ってきた。
四方に乗せられた短刀が私の前に置かれる。
短刀は白紙で巻かれ、さらに紙縒りで固く結ばれている。
斜め前に座る総司ちゃんが静かに立ち上がった。
私の隣に来て黙礼する。それに合わせて私も頭を下げた。
彼女が左側の斜め後ろに立つ。
私は右手で左襟に手をかけ下ろす。
左手で右の襟を強く下ろし、晒を巻いた胸を露わにする。
両肘を使い、一気に小袖を落とす。
脱いだ着物の両袖を掴み、それを自らの膝の下へ丁寧に挟み込む。
一呼吸する。
座敷の外には試衛館以来の友がいる。ミナトさんとクオンちゃんもいる。
私の最期には……もったいない。
――道は違えど……想いは同じ。そう……同じですよね。
綺麗に研がれた短刀を手にする。瞼を閉じて、鋒を腹に軽く当てた。
柔らかな肉に触れる感触が、己のこれからを想像させる。
薄く目を開けると、近藤局長と土方副長の見慣れた着物が視界に入った。
私の背後と障子の先から、鼻を啜る音が聞こえる。
その音は私の胸までも溺れさせてしまう。
喉元から感情が迫り上がり、身体が震えた。
思わず視線を上げる。
私を真っ直ぐに見据える人がいた。
昔から変わらない彼女の瞳が涙で濡れている。
泣いているところを初めて見た。
必死に耐えていた私の目から涙があふれ出す。
共に笑ったこと。共に歩いてきたこと。共に生きてきたこと。
すべてが大切な思い出だ。
――トシちゃん。ごめんなさい。そして……ありがとう。
両の手を前に出し、短刀を己の腹に強く突き刺す。
肉が焼けるように裂けて、身体の熱が飛び出ていく。
袴にじんわりと血が染み込む。
歯が砕けそうなほど噛みしめて、刃を真横に引き切る。
総司ちゃんの研ぎ澄まされた刃の気配が、背中越しに伝わる。
止まるような息は荒く、冷や汗が吹き出す。
合図のために深く顎を引いた。
白足袋が畳を擦る。嗚咽が聞こえる。
白刃が宙を切り裂き、首筋に風が当たる。
私の前には……いつか見た田園風景が広がった。
『トシちゃん、行きますよー』
『待ってよ! サンナン!』




