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散りゆく桜の真実、ぼくは未来で口づけを  作者: 陽野 幸人


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山南敬助 5

             *




「切腹を申しつける」


 彼女と膝を向かい合わせるのは久方ぶりだ。


 肩まである黒い髪をしっかりと頭の上で結んでいる。

藍染めの着物を愛用しているのは、昔から変わらない。

彼女は細く鋭い、獲物を狙う獣のような瞳をしている。

しかし、とても麗しく、夏の打ち水のように涼しげでもあった。


 新選組 副長 土方歳三(ひじかたとしぞう)


「切腹のこと承知しました」


 深く頭を下げる。向かいから真冬の川で手を洗うような声が続く。


「なぜ、脱走したの」


「私の愚かさ故です。申し訳ございません」


 座敷には舌を鳴らす音が響く。少しの溜め息も聞こえた。


「愚問だった……ね」


「いえ……申し訳ございません」


 ゆっくりと顔を上げると、土方副長は無表情だった。


 いや……私はわかっている。隠しているだけだ。


 彼女の心は江戸の試衛館にいたときよりも、ずっと擦り減っている。


 それを知っていながら、私は彼女の心に刃を突き立てた。


 進むべき道を見ていた。手にする信念があった。譲れないものがあった。


 私たちは……。


「あんた……わかってるの?」


 彼女の表情は変わらない。眉の一つも動かない。


「総司のやつ……あんたと戻ってきてから納屋に隠れて泣いていた」


「…………。申し訳ございません」


「近藤さんが声をかけても……頑なに拒んだ。近藤さんに怒っているの初めて見たよ」


 私も見たことがない。

天然理心流で師弟関係の二人は、まるで、親子のようであったから。


「あんたを切腹させるなら、私を斬り殺すって……さ。

新選組があんたのことを敵だと言うなら、全員斬ってやるってね。

あいつ……本気で言ってたよ」


 瞼を閉じる。ゆっくりと鼻から息を吸い上げる。


 己の愚かさを呪う。


 新選組の一番組長。局長と副長が全幅の信頼を寄せる女剣士。

その若き娘を追い詰めてしまったのは私だ。


 重い空気と共に申し訳なさを飲み込み、土方副長に目を向ける。


 彼女の血の気の多い唇が少し上がっていた。


「新八も左之助も怒った。源三郎さんは私に小言を言った。

平助のやつなんて私に向かって啖呵を切ってくるもんだから、ぶっ飛ばしたよ」


 先程とは違い、喉から小骨が抜けたように、滑らかな口調だ。

江戸にいた頃はよく聞いた。

多摩へ出稽古に行くという彼女に同行し、二人で歩いた農村の風景を思い出す。


 私たちが若葉だった頃。


 緑が一面に広がる場所で、他愛もない話で盛り上がったものだ。


 どこどこの侍が男前だ、と。

どこどこの商人は金を持っているだけで、女の口説き方を知らぬ馬鹿者だ、と。


 その話を私は笑顔で聞いていた。夕映えで頬を染める乙女の言葉を。


 その一つ一つが私は好きだった。


「平助……あのバカ、鼻血を出したまま私の胸元に縋りつくんだ。

おかげで大切な着物が汚れてしまったよ。

――山南総長。そうなることをわかった上で、ここに戻ってきたんだよね」


「申し訳ございません……土方副長」


「あんたは……江戸にいた頃と変わらないね。

みんなさ、親切者みたいに思ってい――」


 障子を隔てた廊下から、人の気配と衣擦れの音がした。


「伊東です。よろしいですか」


 艶を帯びつつも、威厳のある女性の声だ。

その声の主は数箇月前に同志と門人を引き連れ、新選組に入隊した。


 新選組 参謀 伊東甲子太郎(いとうかしたろう)


「入って……よろしいですか」


「入るな」


 伊東さんに鋭く返したのは土方副長だ。


「しかし、私は新選組の参謀――」


 障子の先で言葉を続けようとする伊東さんに、土方副長はさらに強い口調で言う。


「入るな。副長と総長の話だ」


「同席いたします。私は参謀ですし、総長とは――」


 微かに障子が擦れる音がした。


「黙れ。動くな。開けるな。そのまま踵を返せ。

同じことを次も言わせたら、あんたを斬る。

近藤さんが認めていても、私には関係ない」


「…………。承知しました」


 障子越しにあった気配は小さくなる。


 追い返した彼女は口元を歪ませ、首を傾げて黙った。


 静かな座敷に二人の息だけが微かに聞こえる。


 土方副長は手のひらで黒髪を後ろに流した。


「試衛館にいた頃の話だけどさ。

私が食べる沢庵(たくあん)に、あんたがケチつけたこと覚えてる?」


 突然の言葉に、あっけにとられてしまった。


 ぽりぽりと頭を掻く彼女を見ると、自然と微かな笑みがこぼれる。


「また……その話ですか。あれは悪く言ったわけではありませんよ。

好物であれば『味わったほうがいい』と言ったのです」


「いや、違うね。山盛り飯と沢庵は下品だ、と聞こえた。

じゃあ、これも覚えてる?

京に来た頃さ、多摩から届いた沢庵を私が食べていたときのこと」


 覚えている。この話にしても、酒宴の席で何度も言い合ったのだから。


「あんたはさ、京の沢庵は品があって味わい深いって言ったんだよ」


「そうです。塩気が強くない沢庵はよいですね」


「はっ! 沢庵は塩辛いからこそ沢庵だ。塩辛ければ塩辛いほどいいんだよ。

山盛り飯と沢庵。上品な味付けなんていらない」


 障子に近づく、新たな人の気配がした。私と土方副長は同時に目を向ける。


 そこには背丈の違う者たちの影が並んだ。


「私が湯漬けにしているのを見てバカにしたよね」


「バカにはしていません。湯漬けにすると腹が満たされにくいと言ったんです。

冷や飯でもないのに、湯漬けにする必要はないと思います」


「冷や飯とか関係ないんだよ。湯漬けを食べたいから食べる、それだけよ」


「炊きたてであれば、そのまま食したほうがおいしいですよ」


「なに言ってんの、正気?

炊きたての飯がうまいのは京での話でしょ。

試衛館にいた頃、大先生が出しゃばったときの飯は酷かったよ」


「そうですね……思い出すと、味が蘇るかのようです」


「どうやったら、あそこまで米を台無しにできるんだろうね。

なにを入れたのか知らないけどさ、古漬けみたいな臭いまでしたよね?」


「しましたね。沢庵を共に炊いたのかと思いました」


「ふかした饅頭も同じ臭いしてたことあったよね。

あ……芋も臭かったことある。ほら、みんなで芋掘り勝負したときさ」


「ありましたね。周助先生だけは食べていましたね。おいしい、おいしいって。

自分で料理したからかもしれませんけど」


「大先生って頭も舌も耄碌してるから。天然理心流の先代はもうダメね」


 互いに笑みを交わすと会話は途切れる。


 けれど、私たちの座敷は温かくなっていた。


 まるで……江戸の試衛館道場にいた頃のようだ。


 彼女は短く一回だけ鼻を啜った。


「バカが三人待っているみたいだから……私は行くよ」


 ゆっくりとした動作で彼女は立ち上がり、私に背を向けた。


 いつでも隊士たちに見せている背中だ。それは誰もが頼りにするところだろう。


 彼女は決して倒れない。心に一本大切なものを通しているのだから。


 武士としての矜持。


 最後まで戦うのだろう。たとえ一人になろうと。


 その背中を……私は見届けることができない。


「土方副長。お耳に入れておきたいことがあります」


 彼女は振り返り、眉をひそめる。


 私は総司ちゃんと話した黒き物乞いに関しての情報を伝えた。

眉間に皺を寄せる土方副長は、舌打ちをしてから言う。


「確かに私も芹沢から言われた。黒き物乞い……あんたはどう思う?」


「普通に考えれば尊攘派の者でしょう。

ですが……芹沢さんに接近したことから、幕府方ということも考えられます」


「どちらにせよ、目障りな芹沢を……ということか」


「はい。その者は新選組の脅威となりうるかもしれません」


「まあ……そうだね。ただ、そいつは山南敬助を見誤ったな」


「え?」


「あんたが自ら捕まるとは思ってなかったんだろ、その物乞いは」


 視線を落とし、小さく頷いた彼女は再び背を向けた。


「土方副長」


「なに?」


 障子に手をかけた彼女は振り返らない。


「私は禁令を破りました。禁令に則り切腹します。

ですが……これからは隊士の言い分にも耳を傾けてください。

表面だけを見て腹を切らせるのは……やめてください」


「難しい相談……ね」


「罪を犯した者、禁令を破る者は構いません。それは彼らも承知のはずです。

土方副長の作った禁令があるからこそ、新選組は死線を越えられる。

――新選組は新選組でいられます」


「そう。有象無象の集団を纏め上げるには強い縛りが必要よ。

人は温い湯の中では好きに泳いでしまう。

熱ければ、冷たければ。痛ければ、苦しければ。

――己を律し、決死の覚悟で外へ飛び出すものよ」


「そのとおりです……ね。禁令と切腹は否定しません。

しっかりと事の次第を吟味し、判断してください」


「さあ……ね。どうだろう」


 彼女は今も振り返らず、静かに続ける。


「介錯だけど……総司に頼もうと思う」


「そう……ですか」


 その申し出は嬉しい。嬉しいけれど……。


「大丈夫。あいつは必ず介錯人を務めてくれる。

新選組の一番組長、沖田総司だから。

総長である山南敬助の介錯を断るわけがない。

他の誰にも……あんたの首を斬らせるわけがない」


 私の心を見透かすのは昔から変わらない。


 そして……私も彼女の心をよく知っている。


 誰よりも知っている。誰よりも近くにいる。誰よりも……遠くにいる。


 いつからこうなってしまったのだろうか。

話したいことはたくさんあったはずなのに、私たちは同じ座敷に座らなくなった。


 食事をするなら、試衛館道場の傷んだ板張りの上でよかったというのに。

穀物を混ぜた飯と少しの菜っ葉が入った味噌汁があればいい。

商人が朝方に売り歩く納豆があれば、豪華なものだ。

そして……みんなで漬けた沢庵を並べる。


 私たちは同じ釜の飯を食べていたはずなのに。


 私たちが同じ味を食べ続けることはなかった。


 共に旅をしてきた。共に道を歩んできた。共に剣を振るってきた。


 最後に伝えたいことがある。


 彼女は受け入れてくれるだろうか。










「トシちゃん。ありがとう」










「礼なんていらないよ……サンナン」










 彼女は障子を引き、ちらりと横に目を向けると、開け放ったまま静かに出て行った。




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