山南敬助 4
*
静かな旅籠の座敷。私の眼前には美しい剣士が座っている。
綺麗な二重瞼に色白でしなやかな肢体だ。
町を歩けば誰もが振り返り、頬を赤く染めてしまうだろう。
江戸でも京の都でも、それは変わらない。
試衛館道場で共に剣を交え、切磋琢磨した人物だ。
真剣を持てば誰も彼女には勝てない。正に天賦の才だ。
いや……その言葉一つで評するほど、浅いものではない。
血の滲む鍛錬の賜物であることは、共に過ごす者の多くが理解している。
そのような女性が物悲しい表情で私を見ていた。
「山南さん……なぜ、脱走したのですか」
総司ちゃんと畳の上で向かい合うのは久方ぶりだ。
普段は明るく、のんびりとした彼女の口調が強くなることも、また珍しかった。
「わざわざ置き手紙まで残して、脱走するなんて……」
「申し訳ございません」
私の不誠実な一つの言葉が、彼女の怒りに火をつける。
「どうして……この場に留まっていたんですか!
そのまま進めば追いつかれない! 手紙とは別の方向に行けばいい!
なぜ、偽名も使わず……私を宿に呼んだんですか!」
若き天才といえど、感情が表に出れば年相応のおなごだ。
瞼を閉じる。彼女の疑問に答えることは、あまりに残酷かもしれない。
屯所に手紙を残し、宿場町で意図的に滞在していたことは事実であったから。
「ごめんなさい……総司ちゃん。嫌な役回りをさせてしまいましたね」
彼女は首を鋭く振り、身体は前のめりになっている。
「教えてください。なぜ、脱走したのですか。禁令を破れば切腹になりますよ!
それは誰であろうときっと変わりません!
幹部の私であろうと平助ちゃんであろうと……!
それが……総長の山南さんだったとしても!」
瞼を開く。目に映る旅籠の畳は随分と傷んでいた。
このような古びた物の新調でさえ、人の確固たる意思が不可欠なのだろう。
「一言では伝えきれませんが、一つは……変えたかったからです」
「なにをですか」
「誤ったまま進んでいくことを少しでも正せればと思ったからです」
「含みを持たせる言い方はやめてください!」
「ごめんなさい。私の悪い癖ですね。少しだけ……昔話をしてもよいですか?」
彼女からの返事はなく、私は畳の上に声を置くように話し始める。
「京へ来ることになった浪士組の始まりは、上洛する将軍を警護するためでしたね。
みんなで浪士組募集の話を聞いて……高揚したことを今でも覚えています」
江戸にいた頃、試衛館の面々で喜び勇んでいたことを思い出す。
「しかし……蓋を開けてみれば違いましたね。
発起人である清河八郎の本懐は将軍警護にあらず。
攘夷を決行するための浪士組であると唱えました。
私たちは誰も逃げ出さず、当初の目的のために京に残りました」
会えなくなった、一人の友の顔が浮かぶ。
「私たちは芹沢さんを筆頭とする壬生浪士組を作りましたね。
あの方の勇ましい姿は、今でも目に焼きついています。
彼女が亡くなった後に、私たちは新選組として新たな道を歩み始めましたね。
それも……すべては芹沢さんの想いです」
歩いてきた己の道を振り返るように告げる。
一つ息を吸い込み、真っ直ぐに私を見据える彼女に問いかけた。
「今の新選組をどう思いますか」
「どうって……」
私の言葉を訝しむ総司ちゃんは、眉間に皺を寄せた。
「今の新選組は京の治安を守る組織です。
目指すべきところは、どこにあるのかと私は思うのです」
「新選組の在り方について納得していない、ということですか」
「はい。徳川幕府と京都守護職の会津藩。
新選組は……まるで、双方から駒のように思われています。
そして……私たちは尊攘の志を持つ者を殺します。
私たちも同じ尊皇攘夷であるのに、帝と国を想う志士たちを……殺しているんです」
「新選組は京の治安を守る組織です。おかしいことではないですよ」
背筋を伸ばした彼女の瞳は淀んでいない。
「道の先を見てください。私は同じ志を持つ者を殺すことに異を唱えます。
尊皇攘夷、勤王、公武一和、開国。
やり方は違えど、この国を想う心は同じはずです」
「きれいなところだけを見れば、そうかもしれません。
ですが、山南さんはわかっていて、わざと言っているんですか」
彼女は眉を下げて続けた。
「尊皇攘夷を笠に着て、悪さをする者たちは多くいます。
治安を乱す不逞浪士を放ってはおけませんよ。
この間だって、土佐勤王党の残党が悪巧みをしていたではないですか。
それに……新選組は幕府の下にいるんですから、幕府に刃を向ける者は討つべきです」
「やり方が正しくないと私は思います。刃と刃を交えたところで血が流れるだけです。
互いに歩み寄り、話し合うことが賢明であると思います」
私の言葉に対し溜め息を漏らす総司ちゃんは、膝の上の手を握りしめた。
「それは無理ですよ。殺すか、殺されるか。
殺し合いの場に話し合いの余地はないです」
「そうです。理想論は意味がないことです。
だからこそ、血が流し、死の現場にいる者として、新選組は発言するべきなのです」
「会津藩にですか」
「はい。新選組は会津藩や徳川幕府に進言するべきです。
芹沢さんが言っていましたね、尽忠報国の士。
彼女は広い視野を持っていました。
芹沢さんが生きていれば……別の道があったはずです。
私は……志を持つ者を殺すのではなく、共に手を取るために動くべきと考えます」
冷えた沈黙と肌寒い空気が座敷を支配する。
春を迎えたと言うには寒く、冬と呼べるほどの冷えはない。
目の前には昔から見慣れた笑顔が現れる。
「山南さん……らしいな。試衛館の頃から変わっていませんね」
彼女の笑みはすぐに心の中に戻り、真面目な顔だけが残った。
「その考え……近藤先生と土方さんには話したんですか?」
「はい。何度か話しました」
「どうだったんですか?」
「受け入れてはもらえませんでした。近頃は……話の場すら設けてはくれません」
「そうなりますよ。
新選組の役目は、京で暴れる不逞浪士を鎮圧することなんですから。
成さぬなら、新選組は必要ないですよ。それに近藤先生だって……」
彼女は眉を下げて、言い淀む。
「構いません。教えてください」
「近藤先生は……山南さんが伊東さんと談論していることをよく思っていないようです。
新選組を乗っ取られる……そう思っているのかもしれません」
「意見を交わしているだけです。謀など一つもありません」
友に疑われている、という事実。
胸の奥が鋸で挽かれるように痛む。
いや……私は気づいていた。
けれど……気づかぬふりをしていた。
「山南さんの言い分はわかりました。
私は納得できませんけど。不逞浪士を野放しにはできません。
ここからは新選組の一番組長、沖田総司としての役目を置いて話します」
「ぜひ、お願いします」
「幕府方の人間が暗殺されるだけであれば、目を瞑ってもいいかもしれません。
上に立つ者であれば、それくらいの覚悟がないといけない。
しかし……京の人々に危害を加える者たちがいるのは、どうなされますか?
尊皇攘夷を都合よく利用する不逞の者たちです」
彼女は明瞭な物言いで続ける。
「女、子どもが襲われている脇を通って、私たちは見て見ぬ振りをするのですか。
指を咥えて江戸へ帰りますか。泣いている人を蹴飛ばしますか。
それは日本人ではありませんよ。士道にも背きます」
「総司ちゃんは……相変わらず私の苦手なことを言いますね。
研ぎ澄ました刃を喉元に突きつけられるようです」
「山南さん……」
「だからこそ……なんです。この国を一つにせねばなりません。
このままいけば、いずれ戦が起こります。
新選組が会津藩、徳川幕府に進言し、他藩に声をかけるべきなんです」
「それができないから、今の世の中なんですよ」
「はい……そのとおりです」
どこまでも絵空事だ。一人ではできないことであると理解している。
夜の中でどれほど考えても、進む道を作れなかった。
胸の奥に引っかかるのは小骨ではない。鋭い小刀が何本も突き刺さっている。
もはや、抜くことなどできはしない。抜いたところで血があふれていくだけだ。
「私は……無力ですね」
息を吐き出すと、熱を帯びる声が耳を突いた。
「逃げてください。私は山南さんのことを見ていません」
「逃げません。私は新選組の屯所へ帰ります」
「山南さん……!」
立て膝になった彼女は、今にも斬りかからんとするほどの迫力を見せる。
私は逃げるように視線を落とす。
再び顔を上げると、総司ちゃんは目に涙を浮かべていた。
「私を山南さんの追手として……寄越した意味をわかっているんですか……」
「その心遣いは、とても嬉しく思います」
「土方さんがどうして……どうして私一人だけ選んだと思っているんですか」
「わかって……います。ですが……私は帰ります」
「いけません。逃げてください」
「いいえ、私は帰ります」
「なぜ、それほど頑なに言うんですか」
「私は理想を掲げ……変えられないことに疲れてしまいました。
もう……無理なのです。一人で歩くのは……もはや、叶わぬことです」
「一人って……みんないますよ」
その言葉で胸の奥が酷く痛んだ。
和紙をぐしゃぐしゃに丸めて、引き裂くように。
「もう……己が進む道を選ぶこともできません。
みんなと……歩くこともできません。
ですから、最期は……せめて最期だけは、己で決めた道を歩きたいと思います」
背を丸めて、彼女の顔を見ることができない。
「お心は変わりませんか。どうしても変わりませんか?」
「はい、変わりません。わがままでごめんなさい」
ゆっくりと視線を戻す。彼女は私を見ていた。
真っ直ぐに見つめ合う。
ここまで彼女と真摯に向き合うことは、剣術の稽古を除けば初めてかもしれない。
総司ちゃんは急に足を崩し、仰向けに寝転んだ。
「はあ……。土方さんの頑固なところが山南さんにもいってしまいましたよ。
あんな人は一人で十分なのに。
土方さんの性格が風邪みたいに広がったら、この国は終わりですよ」
彼女の言葉に思わず口元が緩んでしまう。
「ふふ……そうですね」
「変わりません……か」
「くどいです」
「わかり……ました。山南さんのお気持ちを汲みます」
眉を下げた総司ちゃんは胡座をかいて、首を左右に何度か曲げる。
私は静かに立ち上がり、座敷の格子戸から外の様子を窺う。
往来には多くの人の姿があって、どこか食べ物を連想させる色が目に留まった。
淡黄色の着物に茶色い下駄は、あの日食べた菓子によく似ている。
私は総司ちゃんに目を向けた。
「クオンちゃんが作ってくれる加須底羅は、とてもおいしかったですね」
加須底羅を食べたのは半年以上前だ。
あれ以来、みんなで作ることも何度かあった。
抹茶、柚子、黒糖などをそれぞれ混ぜ込んだ加須底羅もおいしかった。
今や新選組の参謀である伊東さんが同志を引き連れて入隊したときにも振る舞った。
篠原泰之進さんという風変わりな人物は、加須底羅を握り飯のように頬張っていた。
総司ちゃんは頭上で手を組み、腕を伸ばす。
「あの菓子は素晴らしいですよね。私は作ったことないですけど。
一ちゃんがみんなと一緒になにかをするの……初めて見ましたよ」
「ミナトさんの隣は居心地がよいみたいですね」
「あー、やっぱりそういうことかー。
クオンちゃんが引き剥がそうとしていましたよー」
「最初は怒らなかったんですよ。だんだん嫌になってきたみたいです」
「嫉妬ですねー。あ、そういえば今日、ミナトさんとクオンちゃんが来てますよ」
「お二人が屯所にいるんですか?」
「はい。町で薬を売っていたら、どこかの不逞浪士に言いがかりをつけられたそうです。
鍬次郎ちゃんが通りかかって、助けに入ったみたいですけど」
「どうなったのですか? お二人は無事ですか?」
「なんの問題もありません。クオンちゃんが敵を徒手で制圧したそうです。
鍬次郎ちゃんが殺気を出すから、殺す前に止めたんじゃないですかー」
普段どおりに戻った総司ちゃんに心が洗われる。
私たちは旅籠から出て、街道を歩き始めた。
先程の言い争いは遠くの空に消えて、昔からの友と談話をしながら進んでいく。
一歩、一歩、と。確かに歩んでいく。
ふと、思う。この道は真っ直ぐだ。私の歩む道はどこで分かれたのだろう。
私は手を引いていくことができなかったのか。
そのようなことを今でも考えてしまう。
刀の柄頭に手を置いて、左右に揺れながら歩く総司ちゃんが一歩前に踏み出した。
そして、さっと振り返り、小首を傾げる。
「そうだ、山南さん。
早く見つかるようにって、わざわざ宿まで知らせなくてもいいのに」
彼女の言葉の意味が理解できず、そのまま話を聞いた。
「私が密偵のようなことに不得手だったとしても、あれは失礼ですよー。
わざわざ自分の居場所を教えるなんて。それがなくても……見つけられましたよ」
後ろ歩きをする総司ちゃんの足は止まらず、その笑顔も変わらない。
私の足は膝から下が固まるように止まった。
「待ってください。私の居場所を誰かに聞いたのですか?」
「え……? 物乞いの娘に……聞きましたよ。
宿の場所を伝えるように言ったのではないですか?
新選組の総長、山南敬助が宿で待っているって。
私のことも一番組長と知っていましたよ」
そのような人物を私は知らない。話しかけてもいない。
「物乞いの娘……ですか。どのような風貌でしたか?」
「どのようなって……いわゆる物乞いですよ。
ボロボロの黒い着物、頭には黒い手拭い。全身が真っ黒でしたねー。ただ――」
彼女は親指と人差し指で顎を挟んで、笑みを消した。
「――あれは、ただ者ではありませんね。業を背負っています。
うまく隠しているようでしたが、私たちであれば気づきますよ。
いえ、人斬りではないですが、それに近しいものを持っているかな、と」
「物乞い……」
新選組が壬生浪士組だった頃、命を散らした友の言葉がよぎる。
『山南、私からの最後の忠告だ。そいつが目の前に現れても手を出すな。
いいか、一人のときはやるなよ。
斬るなら総司、一、どっちかがいるときにしろ』
総司ちゃんは身体を前に倒し、下から私の顔を覗き込む。
「山南さんは心当たりがあるんですか?」
「以前、芹沢さんに呼ばれたときのことです。亡くなる前日……でしたか。
『黒き物乞い』には気をつけろ……と」
私が言うと、総司ちゃんは口を大きく開けた。
「あっ! そうだ!」
通りを歩く者たちが大声に反応して、振り返る。
「私も芹沢さんに言われましたよ! 黒き物乞いのこと!」
「なんと言われたのですか?」
「言いにくいのですが……あの日の夜です」
芹沢さんの名が連なれば見当がつく。
「あの日の夜に芹沢さんが言っていました。
自分が始末しておくべき相手だったけど、私たちに任せる、と。
あとは……確か、毒花……と言っていたような」
黒い渦のようなものが胸の辺りで蠢く。
「どうにも引っかかりますね。
当時、私も近藤局長と土方副長に伝えてはいますが……」
「その者はどこかの間者ですか?」
「いえ、わかりません。ですが……」
「なんですか?」
「あの芹沢さんの刃を何度も避けた、と聞きました」
「芹沢さんの刃を……」
小さな声を出す彼女は顎に手を当て、首を傾げて続けた。
「もしかして……私たちが追っている長州の者でしょうか」
「長州藩士……桂小五郎ですか」
「はい。物乞いの格好で潜伏しているという話もありますよ」
突然、手が震えた。
背中を舐められるような嫌悪感に襲われ、すぐに振り返る。
しかし、そこにいるのは往来を歩く者たちだけで、怪しい人影は見当たらない。
「速いです……ね。山南さんが振り返ると同時に気配が消えました」
濡れた手で首元を撫でられるような感覚が残る。
「総司ちゃん、気をつけてください」
かつての会話を思い出し、身を引きしめる。
「その物乞いは、芹沢さんを相手に斬り結んだのではありません。
帯刀もせず……一太刀も浴びなかったほどの者です」
「あはは。芹沢さんは酔っていたんですよ、きっと。
万全である、あの人との一騎討ちだとしたら、無傷は考えられません」
「それは私も同じ意見です」
「それに気をつけるって……私は負けませんよ。誰にも負けません。
でも……芹沢さんとやり合って生きているのかー。
すぐに逃げたわけではないのなら、とても愉しみです」
その屈託のない笑顔に、こちらの警戒心もほどかれてしまう。
新選組の一番組長、沖田総司。彼女が剣で敗北するなど想像できない。
「そうですね。総司ちゃんは誰にも負けませんね」
「そうですよー、って……そうそう、この辺りに物乞いがいたんですよ」
彼女が指差した先を目で追う。
草むらの手前に、一つの痕跡が残っていた。
その人物が捨てた物か……わからないけれど。
萎びた大根が虫食いのように齧られて、無惨な死体のように転がっていた。




