山南敬助 1
蝉が鳴く昼下がり。着物の袖から出る白い腕が忙しなく動く。
「絶対に負けないからねー!」
「私も負けません……!」
桃色の着物姿のクオンは、白色の手拭いを被る。
平助ちゃんは浅緑の小袖を纏い、水色の手拭いを頭に巻いている。
二人とも襷掛けにした白い晒が背中に食い込み、袖をきつく縛り上げている。
新選組の屯所にある台所で器を左手に持ち、右手に持つ箸で中身を混ぜ合わせていく。
「クオンちゃん、平助ちゃん、がんばってください」
そう言ったのは、板の間で僕の隣に座る女性だ。
首筋にかかる黒髪。垂れた目元は、年上の余裕と人を包む穏やかな雰囲気がある。
新選組 総長 山南敬助
手を動かす平助ちゃんが大きな声を出す。
「クオン! 負けたら約束通り、私の借銭を払ってよね!」
「ええ! 喜んで……! 身から出た錆を私に押しつけるなど愚かですけどね!」
「いいんだよ! 豪遊したら給金もすぐになくなるの!」
「後先を考えない愚か者と言っているのですよ!」
「いいの! いちいちうるさい!」
「勝手に金策は、新選組の禁令で切腹です!」
「金策じゃねーよ!」
クオンは器用に何本もの箸を指の間に挟んで、円を描くように器の中身を掻き混ぜる。
平助ちゃんは刀を握るように箸を束ねて、手首を素早く動かす。
シャカ、シャカ、シャカ。シャカ、シャカ。
二人は向かい合い、やや背を丸め、時に睨み合い戦っている。
その争いとは対照的な山南さんが微笑んだ。
「ふふ……楽しいですね。ミナトさん、これは必要な作業なのですか?」
梔子色の小袖を着て、濃い灰色の袴姿の山南さんの背筋は真っ直ぐに伸びている。
その影響を受けて、僕も天井から頭を引っ張られるような感覚だ。
「はい。僕らの……住んでいた地域では必要なことです」
「卵を黄身と卵白に分けていましたね。
もしかして、淡雪卵に似た料理を作るのですか?」
「淡雪卵って……なんですか?」
「淡雪卵は鶏卵の卵白だけをよく混ぜて、お吸い物などに入れる料理ですね」
「あ、食べたことあります。そういう名だったんですね」
「でも……違いますか。卵白に砂糖を混ぜていましたものね。
クオンちゃんは少し入れて混ぜる。平助ちゃんはすべてを入れてしまいました」
山南さんが言うように、平助ちゃんは別の器に用意した砂糖を投げるように入れていた。
微笑みを絶やさない山南さんは続ける。
「器に卵白を入れる前、湯で丁寧に洗い、よく拭いていましたね。
これにも意図があるのでしょう」
やはり観察眼が鋭い。細くしている目でも物事を明確に捉えていた。
彼女は小さな溜め息を漏らす。
「それにしても……平助ちゃん。
クオンちゃんから随時、砂糖を入れるように言われていたのに……。
ごめんなさいね、ミナトさん」
「おそらく大丈夫ですよ」
カシャ、シャカ、カシャ、カシャ。
土間に響く音が少しずつ変わってきた。
「これ、なに作ってるの!」
「黙って手を動かしてください!」
「甘い物なんだよね!?」
「砂糖を入れたのだから、当然です!」
「おいしいの!? これ、おいしいの!?」
二人の顔には、うっすらと汗が滲んでいる。
平助ちゃんの黒髪を真ん中で分けた額には、生々しい傷跡が覗く。
少し前に起きた、池田屋事件の戦闘中に負傷したものらしい。
モテッ、モテッ、モテッ、モテッ。
「あっ……! とろろ、みたいになってきた!
東海道で食べたやつみたい! ご飯にかけたらおいしいかも!」
「まだ、まだ、ですよ!」
クオンは瞬きをしない。平助ちゃんは笑顔で手を動かす。
その様子を見つめ、僕は山南さんに問いかける。
「元気ですね、平助ちゃん。池田屋で活躍したって永倉さんから聞きました」
「ええ。奮戦してくれたようです。
そういう子なんです。戦いの場において誰よりも命を張ってくれる。
同流として嬉しいかぎりです。時に危なっかしいですけどね」
我が子を見つめるような瞳だ。
彼女が多くの人から好かれている理由がよくわかる。
四半刻(約三十分)ほど経っただろうか。
クオンの持つ器から、跳ねるような重い音が出る。
「いい感じです……!」
「これ、いつ勝敗が決するの!? う、腕が痛いかも……!」
「平助ちゃんは私の言ったことを実践していないから勝てませんよ!
なんですか! その握り方は!」
クオンは箸を束ねていない。空気が入りやすいよう指の間に何本も挟んでいる。
「いいの! これが私の握り方なの! 私は北辰一刀流なんだよ!」
「そんなこと関係ありませんよ! 刀と料理は違うのです!
そのようなこともわからないのですか!」
「バ、バカにするなっ!」
そう怒鳴る平助ちゃんの手の動きは速くなり、一心不乱に掻き混ぜる。
短い髪を振り乱す様は、般若のように見えた。
さらに時が進む。クオンの器の中は音が変わる。
ボテッ! ボテッ! ボテッ! ボテッ!
「すごいですね。まるで、白粉のようです。
卵白と砂糖を根気強く混ぜると、あのようになるのですね。勉強になります」
感心している山南さんとは違い、平助ちゃんは瞬きをしなくなっていた。
背を丸め、器の中を見つめる瞳は、どこか凶気を感じさせる。
次第に彼女の器からも、クオンと同じ音が聞こえてきた。
ボテッ! ボテッ! バンッ!
クオンの手の動きは次第に小さくなっていく。
「完成しました。腕が動かないほどです。私の勝ちですね、平助ちゃん」
顔には玉のような汗が浮かび、右手は力なく垂れ下がった。
「借銭はご自分で返済してくださいね。
借りたものを他人の力で返そうなど、卑しい考えです。
士道不覚悟。新選組の禁令によって切腹したほうがいいですよ」
軽口に対し、一切の反応がない。
ボテッ! ボテッ! バンッ! ボテッ!
「それくらいで大丈夫です。やりすぎるとよくありません」
器の中で美しい白色の泡が育っているが、平助ちゃんから返事はない。
「聞こえていますか。やりすぎるとよくありません。食感が変わってしまいます」
器の中の卵白だけが音を出し続ける。
「平助ちゃん……手を止めてください」
ボテッ! ボテッ! ボテッ! ボテッ!
「…………。平助ちゃん……!」
ボテッ! バンッ! ボテッ! バンッ!
止まらない。彼女の手の動きは止まらない。
すると、土間に一人の女性が入ってきた。
淡い青の着流しには、白い水玉が点在している。
女性はすたすたと歩き、平助ちゃんに近寄った。
微笑んだかと思えば、目にも映らないような速さで手が動く。
腰に差している刀を左手で掴み、柄頭を突き出し、平助ちゃんの額にぶつける。
「ぐえっ!」
声の届かない平助ちゃんの手が止まった。
「平助ちゃんは夢中になると、いつもこれですからね」
首を左右に振り、涼しげに笑う。長い黒髪は背中まである。
純粋そうな黒い瞳。くすみの一つもない白い肌。
綺麗な二重瞼にすっきりとした鼻筋。
初めて会ったときは、黒と白の対比も相まって、儚げな印象に胸が高鳴ってしまった。
新選組 副長助勤 沖田総司
後の新選組 一番組 組長。
「総司ちゃん! いきなり小突かないでよっ!」
手の甲で額を押さえる平助ちゃんが声を張った。
「止めてあげたんですよー。平助ちゃんは夢中になっていけない」
「い、痛い! 痛い! もう……痛いよ!」
「大丈夫ですか?」
クオンが彼女の髪を掻き分け、手で撫でる。
それを一切気にせず、総司さんは僕に目を向けた。
「ミナトさん。その腰の物はどうしたのですか?」
僕が着流しの帯に差した脇差を見ている。
稔麿ちゃんから譲り受けた刀だ。
「ずいぶんと立派な拵ですね」
「友に……大切な人から譲ってもらったんです」
「へー、拝見してもいいですか?」
総司さんに脇差を渡す。
彼女は朱色で白桔梗が描かれた鞘から刀を抜く。
刃を立てたり寝かせたり、角度を変えて刃文や造形などを見ている。
「立派な大脇差ですね。刃文も拵も美しい。手入れも入念にされていますね」
「ありがとうございます」
「これからも大切にしてください」
脇差を納刀し、手を添えて丁寧に返してくれた。
彼女は僕の隣に顔を向ける。
「山南さん。後で評議があるみたいなので、よろしくお願いしますね」
「承知しました。評議の内容は言っていましたか?」
「うーん。隊士募集や入隊希望の話になると思いますよ」
「そうです……か」
「あ、そうだ、聞いてくださいよー。
さっきも食い詰め浪人のような者が入隊希望に来ていて。
これが、すごく臭い人だったんですよー。
私に臭いが移ったらいけないので、もう少しで斬りそうになりましたよ」
「そうおっしゃらずに。これから新選組の入隊希望は増えます。
身分問わず、ということになるでしょう。今の屯所では……賄えなくなりますね」
「それほどですか?」
「ええ。それほど先の活躍は大きいのです」
「えー、やだなー。臭い男の人とか来たら……。
ちゃんと男女で分けてくれるんですよね?」
「規律を重んじる土方副長ですから、ちゃんと分けてくれますよ」
総司さんは急に口を尖らせる。
「夜這いにきたら問答無用で斬り殺していい、そういうふうにしてほしいですよ」
「新選組、沖田総司の寝所に忍び込むとは命知らずですね」
「山南さーん。わかってないですねー。それは男たちの色欲を甘く見ていますよ。
あいつらは命を懸けても、不埒な真似をしようとするんです」
「ふふ、確かにそうですね」
「こそこそ夜に忍び込まず、昼間に真っ向から向かう。まずはそこからですよ。
私は、私より弱いと思った人に惹かれませんから」
「それは難儀な話です。相手も苦労しますね」
二人のやりとりを聞く僕は、目を伏せ、土間を見つめた。
「総司ちゃん。池田屋での任務、本当にお疲れさまでした」
ちらりと隣を見る。山南さんは菩薩のような深みのある笑みを浮かべていた。
それに答える総司さんの笑みは、爽やかな夏の菓子を思わせる。
二人は、さながら温かい茶と水無月のようだ。
「総司ちゃん! 謝ってよ……!」
突然二人の間に割って入る平助ちゃんは、頬を膨らませた。
「えー? なぜ、私が謝るのですか? 平助ちゃんを止めただけなのに。
感謝こそあれど、非難される覚えはありませんよー」
総司さんは首を傾げ、嘲笑うような声で平助ちゃんの怒りを躱す。
「いきなりは卑怯だよ……!」
「隣に立って殺気を出したのに、気づかない平助ちゃんが悪いんだよ。
おかしいよ、それは」
――また……始まった……。
「卑怯者……! 無抵抗な相手を突くなんて! 天然理心流が聞いて呆れるよ!」
「防具を着けて、竹刀遊びをするだけの流派に言われたくないですねー」
「なにい……。い、田舎の流派のくせに!」
「だから? どうしたの?
門人の数だけは立派な流派のあなたに教えてあげますよー。
剣術とは『人を斬る』ことなんです。
あなたの流派は、竹刀で叩き合うだけの……ただの遊びだよ」
「バ、バカにしてえ……! 私のことバカにしてる!」
「え、そう聞こえたの……。
それなら仕方ありませんねー。今からやり合う?」
「いいよ……! やってあげるよ!」
赤い憤怒の花と無邪気な白い花が土間に咲いている。
――あ、ああ……やっぱり始まった。
「平助ちゃんは得意の竹刀で、私は素手にする?
それとも刃引き……ううん、いっそのこと、お互い真剣でやりましょうか」
けらけらと笑う総司さんに対し、平助ちゃんは歯を食いしばり目を見開く。
握りこぶしが胸の前で震えている。
総司さんは鼻から息を抜いて、半笑いで続けた。
「あっ……ごめんね。本当にごめん。私が悪かったよ。
真剣なんて……無理だもんね。剣術ごっこの平助ちゃんには無理……だったね」
背伸びするかのように踵を上げる平助ちゃんは、声を荒げる。
「い、いいよ……! 真剣でやろうよ! 後悔しないでよね!」
彼女が前に踏み出そうとした瞬間だ。
手を打ち鳴らす音が二回鳴った。
僕の隣にいる山南さんからだ。
「もうやめてください。客人の前ですよ。
お二人は新選組の名を背負っているんです。軽率な行動は控えてください」
「でも! でも……! 総司ちゃんが先に殴ってきたんです!」
「そうですね。わかっていますよ。
はい、総司ちゃん。痛い思いをさせたことを平助ちゃんに謝ってください。
確かに不意打ちのような真似であったと私も思います。
それは武士の道に反することではないですか?」
山南さんの言葉の後、少しの間があいて、総司さんは視線を落とした。
「平助ちゃん。頭を……まだ傷口が痛いのに小突いて、ごめんなさい」
これには驚いた。あまりに素直だ。
以前、総司ちゃんと平助ちゃんの喧嘩を目撃したことがある。
その時、言葉で止められる者はいなかった。
副長の土方さんは呆れたように睨み、局長の近藤さんは饅頭を食べて大きく笑う。
武田さんは書物を手に謎の持論を展開したが、隊士の誰一人として話を聞かなかった。
そして……怖かったのは副長助勤の斎藤さんだ。
彼女は言い争いをしている二人の近くに寄り、一言も声を出さない。
瞬きをしない双眸で、二人の肢体を上から下まで舐め回すように見ていた。
この争いは他の幹部たちが取り押さえる形で幕を閉じたけれど。




