吉田稔麿 8
*
池田屋へ向かう道中、遠くに兵の姿があった。味方ではないことは明白だ。
会津藩の家紋である三つ葉葵の旗が揺れる。提灯には會の文字が浮かぶ。
私は手に持っていた提灯の火を消し、さらに近づいていくと目を疑った。
まるで、合戦の場に行くような行列だ。
頭は鉢金や陣笠、腕と足には篭手と脛当てをしっかりと装備している。
藩士たちが手に持つ松明は、夜の京を照らす。
――会津と……桑名か。池田屋まで、あと少しなのに……。
店の軒先で身を隠し、荒い呼吸を整えていると、多数の兵の前で声を荒げる者がいた。
「通してください!」
――どうして……。
「すみません、通してください……!」
ミナトさんが大声を出している。
クオンさんと共に、松明の灯りにしっかりと照らされていた。
「通すわげにはいがねえ! にし、会津と知っての狼藉だか……!」
「行かないといけないんです……!」
ミナトさんは会津兵の前に立ち、必死に訴える。
クオンさんは間に入り宥めているようだが、彼の勢いは増していく。
「通してくださいよ! 邪魔しないでください!」
普段から落ち着いている彼らしくない。その姿を初めて見た。
「ミナト様……! ダメです! ミナト様!」
「おめえら! なにもんだべ……!」
前線にいる会津兵が、ミナトさんの顔に向けて槍を突き構えた。
それを見た私は、地面を強く蹴り、駆け出す。
近くの池田屋には同志がいる。
目の前には大切な人がいる。
助けたい。守りたい。報いたい。
友である二人の間をすり抜けた。
納刀した状態で腰から刀を外し、会津兵の持つ槍を絡めて、地面に叩き落とす。
「大丈夫ですか。ミナトさん、クオンさん」
私は振り向くことなく言った。
「とし――、よ、よかった……」
背後から聞こえる声に、少しの笑みがこぼれる。
いつでも気遣いをしてくれる人だ。
前線の会津兵たちがどよめき、いきり立つ。刀に手を掛けて鼻息を荒くする者もいる。
「な、なにもんだ! にしは……!」
前方の男たちは白目を剥き出しにして、槍の穂先が震えている。
私は周囲を警戒しつつ、振り返ることなく二人に問いかける。
「お二人は、なぜここにいるのですか」
「きみのことを……探しに来たんだ」
私の名を決して出さない。
「なぜですか?
私は旅籠に寄って、すぐにお二人のところへ戻るつもりでしたよ」
「うん……わかってる。でも……探しに来たんだ」
要領を得ない。珍しく歯切れの悪い言い方だ。
「私は……ここにいますよ」
「うん。よかったよ、無事で!」
その言葉が私の背中を優しく撫でて、口元は上がってしまう。
背後には友がいて、眼前には敵がいる。
威嚇のために一歩踏み出そうとしたときだった。
私の前に、いつか見た背中が現れる。
萩にいた頃。
夏の中。山の中。恐怖の中。
今も変わらずに……私の前に立ってくれた。
「僕たちの家に行って、稔麿ちゃん。ここは僕がどうにかするよ」
彼は振り返り、そして微笑んだ。
ミナトさんを怒鳴る会津兵は、先程よりも勢いづく。
萩を出てから、さまざまな変遷を見てきた。
大局を動かすことのない些細な裏切りも多かった。
口ではうまいことを言い、腹の中に黒さを隠している者もいる。
しかし、今はどうだろう。目の前には数年前と変わらぬ背中がある。
一つの嘘もない。確かな真実が私の前にあった。
愛刀の鯉口を切った私は、軽やかに抜刀する。
「ぬ、抜いだ! 会津に刀さ向げて、しょ、正気か!」
「長州藩士……吉田稔麿です」
名を告げると、顔を強張らせた会津兵たちが槍を構える。
「ぞ、賊だあ! 長州の賊がいるぞ!」
前線の会津兵が口に手を添え、法螺貝の音のように野太く叫んだ。
「ミナトさん、クオンさん。ここは私に任せて行ってください」
「ダメだよ! 稔麿ちゃんも一緒に行こう! 一緒に帰ろうよ……!」
「ミナト様……」
クオンさんの寂しげな声は、会津兵の気合に押し負けている。
「賊だあ! 賊は三人だあ……!」
鞘から刀が抜ける。摩擦音が続く。
私は息を吐き出す。
「聞いてください、会津のみなさん。このお二人は賊ではありません。
通りがかった薬売りで、病人のところへ向かう途中です。
無関係の者を傷つけるなど、会津の名がすたりますよ」
そう告げてから正眼に構え、左手を腰の方へ引く。
月明かりが刀身に映り込み、すうっと伸びるように蠢く。
「クオンさん。ミナトさんを下がらせてください」
私が言うと、クオンさんは彼の袖と腕を掴み、後ろに連れていく。
「会津のみなさん。長州藩士、吉田稔麿がお相手いします」
会津兵の怒声が飛ぶ。
ずずっと草鞋が地面を擦り、二人の男が繰り出した槍が私を襲う。
半身で避けて、下から槍の穂先を弾く。鋭く振った刀で相手の膝を斬る。
倒れ込んだ会津兵の首めがけ、鈍く光る刃を突き刺す。
うめき声が京の地面に吸い込まれた。
ぬるりとした感触が鋒から柄まで伝わる。
斜め前の老兵が気合を入れて、刀を振り上げた。
私は前に踏み出し、すぐに止まる。
目の前を白刃が切り裂く。右足で踏み込み、敵の腹から肩まで切り上げる。
その勢いを切り返し、刃で首を斬り裂く。
水滴を手で払うように、血が飛び散った。
息つく間もなく、左から迫った槍が私の腹を掠める。
後ろに飛ぶように下がって、一度、間合いを取った。
甲冑は斬るところが限られる上に、槍使いも多い。
さらに多勢を相手にするなど……難儀な話だ。
会津兵は雄叫びを上げ、睨み、じりじりと前に詰めてきた。
組頭と思われる者の命令で私を取り囲む。およそ七人ほどだ。
――どうする……。
「一斉に槍で突げえ……!」
その言葉と同時に動く。
目の前の兵士に突っ込んで肩口を斬る。すぐに地面を擦るほど身を落とす。
峰に手を添えて、相手の喉から顎までを突く。
鮮血が吹き出す。くぐもった声が出る。
新たな敵に左肩で体当たりし、足払いしてから首を斬る。
背後から迫る刃。斬撃を間一髪で弾き飛ばす。
横からは槍の穂先が光る。その刃を受けて滑らせ、前に踏み込む。
私の刃は、敵の持ち手の指を斬り落とす。
ぼとぼと。数本の指が地面に落ちる。
「ひぎいっ……!」
男は槍を落とし、背後にある家の軒下に突っ込んだ。
振り返る間もなく、刃が迫った。
肩を刃で守り、身体を反転させると同時に相手の足を斬りつける。
数本の槍がぎらりと光り、私を襲う。
叩き落とす。身を捩る。前に踏み込む。
身体に加わる、衝撃。
地面を這うような槍が左の脇腹に突き刺さった。
「稔麿ちゃん……! 後ろ!」
ミナトさんの声が聞こえた。
同時に、右の肩から血に濡れた穂先が突き出る。
――数が……多い。
すぐに刀を振り回し、威嚇する。
力の入らぬ右手から、命綱であった刀がするりと抜け飛んでいく。
新たに迫った刃を紙一重で躱し、倒れている会津兵の槍を拾い上げる。
左手でしっかりと握り締め、周囲を睨む。
呼吸は荒い。右手の指先は動きが悪い。
呼吸を整えるために、深く息を吸い込む。
その時だった。
ミナトさんが駆け込んできて、絶命している会津兵の刀を握ろうとした。
「やめてください……!」
私は思わず叫んだ。
彼の手は止まり、こちらを見る目は滲んでいる。
「クオンさん! ミナトさんを後ろへ!」
クオンさんは、すぐにミナトさんに駆け寄り、後ろに引きずっていく。
ミナトさんの真っ直ぐな瞳は私のことをただ……見つめていた。
共に戦えば、この場を離脱することはできるだろう。
二人の剣術の腕前を知っている私だからわかる。
しかし……。
巻き込んではいけない。彼らは尊皇攘夷を掲げていない。討幕派でもない。
これは私が戦うべき道なのだから。
槍を握る左手は重い。その肘で出血している脇腹を何度か押す。
大丈夫だ。まだ戦える。私は……戦える。
「どげえ! どげ……!」
野生動物の咆哮にも似た声がした。
眼前の会津兵たちは次々と振り返り、ススキを割くように道が開いていく。
そこに現れたのは、無骨な甲冑を纏う、とても大柄な女性だった。
「なんだ、にし。にしが賊が?」
エラの張った顔立ちは、身を引いてしまうような威厳がある。
「そうです……ね」
「そっだら、名乗れ」
「相手に名を尋ねるときは……ご自分から名乗るのが礼儀ですよ」
相手の頬の肉が大きく上がり、うんうんと頷き、嫌味なく笑った。
「これは申し訳ねえ。わだしは会津藩、佐川官兵衛だ」
――会津の佐川官兵衛……手練れか。
周囲の者たちは先程と違い、静まり返っている。
夏の虫だけが静かに鳴く。
「長州藩士、吉田稔麿です」
「吉田稔麿。そうが……おめえが長州藩の中でも有数の才人か」
彼女は倒れている会津兵たちに目を向けて、人差し指を縦に振っていく。
「ひい、ふう、みい……これだけの人数相手に四人も屠るか。
手傷を負っているもんも多ぐいる……な。
敵ながらあっぱれ。投降すれば――」
「私は志士です。戦いとなれば……逃げも隠れもしません」
「そう……が。殿の命だ。ここを通すわけにはいがねえ。
――後ろのやつらは、仲間か?」
その声と視線で、私は振り返る。
クオンさんがミナトさんのことを羽交い締めにしていた。
ミナトさんは瞬きせずに涙をこぼし、クオンさんは目を閉じて、涙が頬を濡らしている。
「お二人は立派な薬売りです。
今夜の私たちの争いとは、天地神明に誓って関係ありません。
どうか、手を出すことはないように」
「そうが。そんなら手は出さねえ」
先程まであった彼女の笑顔は消えている。
吊り上がる鋭い目は、獲物を見定めたかのような獰猛さが滲む。
「おめえら、離れでろ」
彼女の指示で、会津兵は絶命している者たちを引きずっていった。
佐川官兵衛さんは腰に差した刀をゆっくりと引き抜く。
今の時代ではあまり見かけなくなった大太刀が、その姿を見せる。
先程よりも身体が大きく見える。その身に纏う雰囲気は、やはりただ者ではない。
一騎討ち。他の会津兵は構えていない。
「会津藩士、佐川官兵衛」
「長州藩士、吉田稔麿」
夜風が血の匂いを巻き込んでいる。
佐川官兵衛さんがゆっくりと上段に構えた。
周りの空気を引き込むような威圧感だ。
私は間合いを詰めず、円を描くように動く。
夏の蒸し暑い風が吹きつける。
息をのむ。萩にいた頃の記憶が不意に蘇った。
松下村塾の筆頭。誰よりも勇敢で、誰よりも過激な人の声がする。
『いいかー、稔麿。勝負っていうのは臆したら負けるのよ。
決して退くな、前だけを見な。
――あんたは誰にも負けない。私以外に負けるわけがない』
命を賭した勝負の最中だというのに。
高杉さんの言葉が、私の笑みを導こうとする。
上段に構えられた大太刀が、すっと動いた。
その刹那。
大地を揺らすような強烈な踏み込み。同時に風を切り裂く刃。
避けると風圧によって前髪が揺れた。素早く返された太い刃が頬の皮を抉る。
私は槍を切り返し、石突で鳩尾を突く。間髪いれず、首の根元を打ち据える。
「ぐっう……」
唸り声を上げた佐川官兵衛さんの腹と顔に蹴りを入れる。
すぐに離れた。傷を負っている脇腹から血が伝い、私の袴を濡らす。
身体を折った佐川官兵衛さんは、しばらく咳き込んだ後で、にやりと笑う。
「にし……強いなし。才人であるのがもしれねえけど……とんでもねえ武人だ」
互いに構え直す。私は左片手で脇構え。佐川官兵衛さんは正眼に構えた。
しばらく睨み合う。風が鳴く。
どこからか迷い込んだ葉が二人の間に落ちた。
互いに踏み込む。刹那の突き。
橙色に色付く刃が交わる。
――これが……。
佐川官兵衛さんの左肩の肉を私の槍の穂先が裂く。
しかし……。
割れるような、焼けるような感覚が走る。
ずしりと臓腑にかかる重み。
私の腹に彼女の大太刀が貫通していた。
刃を腹から引き抜かれ、声が漏れ出て膝をつく。
呼吸がうまくできない。身体中の毛穴から冷たい汗が吹き出ていく。
身体を仰向けに倒された。
いや……違う。抱きかかえられた。
「稔麿ちゃん……!」
ミナトさんは目に涙を浮かべていた。その隣にはクオンさんがいる。
「よ、よおし……! 勝った! 勝ったどお!
残りの二人も討ち取れ! やっぢまえ!」
囲んでいた兵士の声が耳に入る。
いまだ手の中にある、頼りない槍を握りしめようとしたときだった。
「手ば出すでねえ……! 武士の約束だべ!
にしら、会津もんだのに、そったなごどもわがんねえのが……!」
傷口の血が吹き出すかのような大声だ。薩摩の武士が出す猿叫よりも迫力がある。
腹を押さえる私の手に、とても硬い手のひらが覆い被さった。
「わりいなし。この二人は会津の名にかけて、無事に返すって約束するがら」
「ありがとう……ございます」
佐川官兵衛さんが微笑む。静かに立ち上がり、血の匂いのする京の夜へ咆哮した。
「さあ、持ち場さ戻れ! ここに賊はいねえ……!
賊はいねえがら! 早く持ち場さ戻れ……!」
多くの草鞋が動き、足早に遠ざかっていく。
佐川官兵衛さんは、再び私の隣にかがんだ。
「今、介錯を――」
「いいえ……お気持ちだけで十分です」
「そが……わがった。
長州藩士、吉田稔麿。にしと戦えたこど……忘れねえ」
「私も光栄……でした。会津藩士……佐川官兵衛さん」
笑みを浮かべた佐川官兵衛さんは立ち上がり、ずんずんと歩み、去っていく。
女性とは思えないほどの身体だ。その心も器も、また大きかった。
「クオン……」
私を膝の上に乗せたミナトさんが声をかけると、彼女は隣にかがんだ。
刀で刺された私の腹の傷口を見ている。
クオンさんは一言も声を出さず、地面に向けて視線を落とした。
「稔麿ちゃん……」
これほどまで弱い声で、ミナトさんに名を呼ばれたのは初めてだ。
「そんな顔しないで……ください。そ、そうだ……お二人に贈り物があります」
まだ動く左手で懐を探す。本来は軽い音を立てるはずだが、そうもいかない。
摘み上げる懐紙は真っ赤に濡れていた。
「ごめん……なさい。血で汚れてしまいました」
「ううん、大丈夫だよ。開けていいの?」
彼は涙を流し微笑んでくれた。鼻水も垂れている。
――ふふ……子ども……みたい。
濡れた懐紙が彼の指によって開かれていく。
「これ……金平糖だよね」
「はい……髪を整えてくれたことと夕げのお礼です」
息が苦しい。歪な音が身体の中から生まれる。
思うように動けない。力が入らない。
昔、川で溺れたときのことを思い出す。あの時も抱きかかえてくれたのは彼だ。
私のことを助けてくれたのは、ミナトさんだ。
小さな息を吐き出し、掠れた声で告げる。
「ごめんなさい。血に濡れてしまって……。これでは食べられません……ね」
「ううん、大丈夫。中身は濡れてないよ。ありがとう。何色にしようかな……」
店内に並んでいたときの淡い色の飴は、どれも綺麗だった。
「クオンは薄黄色。僕は浅葱色。はい、稔麿ちゃんは桜色」
彼にとっては、何気ない一言だったのかもしれない。
けれど……私には、その優しさが痛いほどわかる。
夜に色の判断ができるわけがないのに。私に桜色という言葉を贈ってくれた。
そして……私が買った金平糖の中には、確かに桜色が入っている。
――覚えてくれてたんだ。
いつかの思い出が胸の奥を撫でて、温かさが涙と共にあふれ出す。
目の前にミナトさんの指先が向かってくる。
血に濡れた口を小さく開けると、彼は唇に金平糖を触れさせて、そっと落としてくれた。
血の味、微かな甘さ。涙があふれていく。
「うん、おいしいよ」
「はい。甘さが上品です。稔麿ちゃん、ありがとうございます。
とても……おいしいですよ」
ミナトさんもクオンさんも微笑んでくれた。
「クオンさん、私たち……今も桃花団子同盟ですよね」
「もちろんです。二人で続けましょう」
高杉さんに立ち向かうため、クオンさんと結んだ同盟だ。
いつからか甘味処を巡るものに変わっていった。
「また……甘味処に行きたかったです……ね」
「行きましょう。これからも。
私は近頃、新しい菓子作りをしているのです。
それで……カステラを作ってみようかと思っています」
「加須底羅ですか……」
クオンさんの手は震えている。掴んでいるのはミナトさんの藍色の着物だ。
「今度、カステラをお作りします。これは雅な味にします」
「クオンさんの……加須底羅。はい、とても楽しみです」
二人とも頬に涙が伝っている。私の耳にも涙が入り込んでくる。
虫の鳴き声は、先程よりも薄れていた。
「ミナトさん……クオンさん。聞いて……ください」
二人は静かに頷いた。
「高杉さんも久坂さんも……私からすれば太陽のような人たちです。
ですが……私は己の生き方が嫌いではありません」
「うん。わかっているよ」
「太陽ではなくても……静かに光る月でいたかったんです」
「いつでも……みんなのことを見ていてくれたよね」
昔に聞かれた問いを今なら答えられる。荒れる時勢の中にあって私は見つけた。
そして……それは彼が教えてくれたことだ。
「ミナトさん……あの時のことを覚えていますか。
萩にいた頃、私の進むべき道がわかったら……一番に伝える……と」
「うん……覚えているよ」
「遅れてしまいましたけど……まだ誰にも言っていません」
「うん……」
「私は……みんなのことを支えたかったんです。
私の慕う人。私の周りの人。私の住む国の人。みんなを……守りたかったんです。
慕う人を守り、共に過ごし……この国で一緒に笑っていられること――」
声が掠れる。それでも、それでも続けた。
「それが……私の尊皇攘夷です」
ミナトさんは涙を流し、頷いてくれる。
「松下村塾に入ったときのこと……僕は忘れていないよ。
一番、最初に話しかけてくれたのが……稔麿ちゃんだった」
「私も……よく覚えています。あの時……高杉さんは裸で歩いていました」
「うん。それで、僕が怒られて……さ。
高杉さんが暴れられるのって……稔麿ちゃんがいたからだと思う。
いつでも、みんなのことを支えてくれたから」
「そうですか……ね。そうだ……高杉さんに伝えてほしいことが……」
松下村塾で議論を交わしていた顔を思い出す。
真っ赤な着流しを纏い、真っ赤な魂を持っている人だ。
「ばーか」
三人で笑い合った。一つも変わっていない。あの頃と何一つ変わっていない。
「これを……」
脇差を左手で握り、腰から外す。これだけでも随分と身体が痛む。
打刀と揃いの朱色の鞘には、白桔梗が鮮やかに描かれている。
柄巻も朱色で、歪みのない菱巻は私の信念さえも形良くしてくれた。
「ミナトさん。私の脇差……受け取ってください」
「うん……ありがとう。大切に……大切にするよ」
彼に脇差を託した後、私は血に濡れた腹に手を掛けて、もう一つの刃を手に取る。
淡い鳥の子色の漆で塗り上げられ、舞うような紅梅が散らされた短刀。
縁頭と鯉口の金具は濡れたような朱色をしていて、私の自慢の品だ。
「この短刀は……クオンさんの命を奪うものではありません。
あなたの心を……守るためのものです。
どうか……苦しいときには、私の刃を見つめてください」
クオンさんは涙をぼろぼろと流し、短刀を受け取ってくれた。
息がうまくできない。力が入らず、何度か咳き込む。
「今まで……ありがとう……ございました」
「稔麿ちゃん!」
「稔麿ちゃん……!」
――松陰先生……ごめんなさい。いただいたものを返せませんでした。
――ですが、決して恥ずべきことはしていません。
――私は……私の道を貫きました、松陰先生。
――高杉さん。みんな……ごめんなさい。
――でも……。
――私の進んだ道に、後悔は一つもありません。
目が霞む。痛みが薄れてきた。じんわりと身体の力が抜けていく。
でも……温かい。とても……温かい。
ミナトさんが私の手を握ってくれる。
あの頃と変わらない……優しい手だ。
私は彼の手をそっと持ち上げ、クオンさんの震える手の上に置いてあげた。
輝く星空。視界の端には三日月が浮かぶ。目をそっと閉じる。
朝凪のような静けさだ。静かに。ただ静かに。私の身体は優しく包まれていく。
私は最期まで、慕う人の頬の温もりへ手を伸ばせなかった。
――言えなかったな……。
――なんと答えてくれた……かな。
――今なら……今なら……言ってもいいですか。
――私は……あなたのことを――。




