吉田稔麿 7
*
小走りして、懐に入れた品物を手で撫でる。
夕方、ミナトさんに髪を整えてもらい、クオンさんの鱧料理をご馳走になった。
心から笑い合える食事は随分と久しぶりで、身体が軽い。
私は夕げの礼をするために旅籠に戻り、菓子を懐に入れて夜道を急ぐ。
――喜んでくれるかな。
ミナトさんとクオンさんは変わっていない。優しい笑顔も昔と同じだ。
思いがけない出会いも、思いがけない再会も、私の心を優しく抱きしめる。
二人の住まいから離れるとき、彼らは土間の奥で話をしていた。
途中から、言い争いのようにも見えなくはなかった。
珍しいことだ。軽口はたくさんあるが、争っているところを私は見たことがない。
ミナトさんは出て行こうとする私を呼び止めて、酷く悲しそうな顔をした。
私が問いかけても「早く帰ってきてね」としか言わなかった。
何か話したいことがあったのだろうか。
早く彼らの元に戻って、菓子を渡したい。
もっと……もっと話したいことがある。
夜空には月明かり、私の手には提灯の灯り。
民家はなく、左右には畑が広がっている。
足早に夜道を進んでいくと、空気が一変した。
隠すが故の……怪しさ。暗闇から這い出るような視線を感じる。
夜露の湿った匂いと人の気配が混ざる。それに気づく者は多くないだろう。
人とは無意識に身体から気を発しているから、意図的に消すことは難しい。
鍛錬を積み、気を削げば、小鳥などが警戒せずに近寄ってくることもある。
そのような生気と殺気を隠すことに長けている者が、道端に座っていた。
わざと忍び足で近づき、提灯の灯りで照らす。
継ぎ接ぎだらけの着物に身を包み、頭から手拭いを被り、表情を隠している。
その色は明確ではないが、いつもどおりだろう。
黒い着物に黒い手拭い。
口を開いたときの白い歯だけが、提灯の温かな色によって光った。
「稔麿さん」
私の名を呼ぶ女性の声は、少しだけ掠れていた。
私は周囲を確認し、口元を上げて言葉を返す。
「お久しぶりですね。
そこまで闇夜に紛れなくても……よろしいのではないですか」
「味方にも敵にも悟られぬ、これも立派な兵法です」
彼女は牽制や威嚇のために姿を晒すこともあるようだ。
しかし、幕府側、新選組などの追跡の網に一度も引っかかったことがない。
朧のように存在し、煙のように消えていく。
そのような人物だ。
鼻を小さく啜った彼女は、傍らに置いてある風呂敷へ手を伸ばす。
そして、細く萎びた大根を取り出した。
両の手で大根の端を持ち、力を込めている。
弓が引かれるように、真ん中が盛り上がった。
べぎん……。
夏の夜、私たちにしか聞こえない虚しい音だ。
二つに割れた大根の片方を私に差し出す。
私は手のひらを彼女に向けて、首を横に振る。
鱧料理の名残を消したくない。
彼女は微動だにせず私を見た。
じっと見ている。暗闇の中で僅かに光る双眸は、何を思っているのだろう。
しばらくすると、彼女は大根を持つ手を下ろす。
地面に向けて視線をゆっくり落とし、大根の先端を小さい口で齧った。
細い顎が動き、咀嚼音が聞こえる。
「この大根は少し辛い……です」
「煮物にすればいいのに。そのままだとおいしくありませんよ」
「鍋もなにも無いですから。なにも持っていませんよ、私は。
それで……稔麿さん。近頃の動向は?」
私と彼女が京で会うのは、互いの知り得たことを共有し、擦り合わせるためだ。
「以前と大きくは変わっていません。
幕府側は及び腰の部分もありますが、事態は膠着しています。
我ら同志は、もはや幕府から政権を武力で奪い取り、攘夷するべきである、と。
大義のためであれば手段など選ばぬ、日増しに過激になっています。
私も止めることで精一杯です」
大根を一口齧った彼女は、静かに飲み込んだ。
「稔麿さんは今も止めているのですか。
前にも言いましたが、私は武力による衝突が必要であると思います。
徳川の世を終わらせて……新たな世を築くために」
「なぜ、同じ日の本に生きる者同士で血を流し合うのですか。
内で争い、国を割るなど、異国に付け入る隙を与えるだけでしょう」
「一つにまとめるためです。相容れない考えを持っているのですから」
「根底は同じです。尊皇攘夷、開国、佐幕、公武一和、どれも同じですよ。
『日本を守りたい』という想いがあるからこそ、みなで手を取り合うべきなのです」
「手を取り合う……ですか」
「幕府にいるから、討幕であるから、そのようなことでは先の世を作れません。
考えが対立したとしても、面と向かって話し合い、この国の道を作っていくべきです」
彼女は溜め息をついた。着物の衿元に指を入れて、ゆっくりと掻く。
「さすがは幕府とも繋がりのある稔麿さんの言葉。
そして……きれいですね、あなたは。きれいなことが正しいと思っている」
「私は……正しいと思う道が、きれいであるように願っています。
その道は、人の涙ではなく、笑顔にあふれていてほしい。そう思っています」
「相変わらず……ですね」
黒い手拭いの間から見える口元が、少しだけ上がる。彼女は話を続けた。
「今日は少し特別な会合が開かれるんです」
「特別……ですか」
「ええ。肥後の宮部さんが主体となって……ね。
本来なら稔麿さんも同席するべき会合ですよ」
「会合の内容はご存知ですか?」
「はい、知っています。
稔麿さんがいたら反論されるから弾かれたんですね、きっと。
そうであっても、松下村塾の出である稔麿さんのことを外す……なんてね」
この人は時々、煙に巻くような言い方をする。
「それは構いません。会合の目的はなんですか?」
「ふふ、驚きますよ」
夜風が強く吹きつける。夏の虫が鳴く。
彼女は信じられないことを口にした。
「京に火を放ち、幕府側の要人と京都守護職である会津藩、松平容保の暗殺。
混乱に乗じ、帝を長州へお連れする、というお話です」
私の首筋は夜露で撫でられたかのように冷えた。
彼女は淡々と言葉を続ける。
「この話は少し前から出ていました。
今日の本題は、奪われた武器と古高を新選組から奪還する話かもしれません……ね。
武器は必要ですが、身内の秘密を漏らした者など助ける必要がないというのに」
先程の言葉は聞き捨てならない。
奥歯を強く噛みしめると、整えた髪の毛が逆立つような感覚になった。
「京に火を放つなど許されません。
天子様に弓を引くことと同じではないですか。
そのようなことをすれば、今度こそ長州の居場所はなくなります」
「それがどうしたのですか。居場所など新たに作ればよいのです」
冷たい一言だった。うっすらと滲む汗の熱が奪われていく。
「京に火を放てば大勢の人が死にます。決して進めてはいけません。
なぜ、罪もない人々が苦しまなくてはならないのですか」
大根を齧る彼女は、温い風を飛ばすような深い溜め息を吐き出した。
「大義のために犠牲はつきもの、という考えなのでしょう。
私も今回のことは賛成していません。
ですが……あの方々は止まらないでしょう」
喉の奥が重くなる。
手を強く握りしめ、声は小さく、しかし、確かに伝える。
「罪なき民を殺せば、大義は失われます。
戦うすべを持たぬ者を殺すことがあってはいけません。
己の意見を通すために、毎日を平穏に生きている人を巻き添えにするというのですか」
「この国を変えるためには……必要なことなのかもしれませんね。
少なくとも一部の者たちは、それを行おうとしているわけです」
「そこに人を想う気持ちは……一つもないでしょう」
夜の虫が私たちの会話の間に入っては消えていく。
私は八つ当たりにも似た言葉を彼女に向けた。
「そのことを知っていて、どうして止めなかったんですか」
「聞く耳を持たないでしょう」
「あなたなら……止められたはずです」
「これは国を二分する戦いです。すべてが無傷といったわけにはいきませんよ」
「そうであるからです。戦いになる前に話し合わないといけません」
「これは蜂と同じです。
蜂の巣に危険が迫ると、新たな女王蜂が生まれることがあります。
そして、一つの巣に女王は二匹もいらない。
一つにするための殺し合いが必要なのですよ」
身体の奥から震えが迫ってくる。
「私たちは日本を守るために立ち上がった。
そこには避けるべき道があると私は思います」
「相変わらず……ですね。高杉晋作、久坂玄瑞、お二人とも違う。
その実直さは新しい時代に必要ですか?」
彼女は手に握る大根を静かに見つめた。
「それに……この流れは止められないでしょう。どうあっても討幕は始まる。
この国は狂気に飲み込まれ、漆黒の雨が降り注ぐ」
「私が止めます。人々を苦しめることが正しいなど間違っています」
「止められませんよ」
「止めます」
「止められるのであれば、ぜひ見せてほしいものです。
手始めに……今日の会合はどうでしょう」
「会合はどこで行われているのですか」
私が問いかけると、彼女は目を伏せて沈黙した。
なぜだろう。微かに見える表情は、どこか寂しそうだった。
「会合の場所を教えてください」
「三条大橋を越えて……木屋町通り」
「木屋町通りのどこですか」
「池田屋……ですよ」
私は彼女に背を向けて駆け出す。
後ろから最後の言葉が風に乗ってきた。
「気をつけてください。今日の池田屋は血に染まるかも……しれませんよ」
*
提灯の火が消えないように走った。生暖かい風が身体の中に入る。
視線の先には、ぼんやりとした灯りがゆらゆらと揺れていた。
近づいていくほどに鮮明になっていく。
真夏でも絶やさない篝火が夜道を照らす。
高張提灯に一文字三つ星の紋が浮かぶ。そこには普段と違う光景があった。
「どうされたんですか!」
私は思わず声を荒げ、駆け寄った。
うつ伏せで倒れ込んでいる人物に、長州藩邸の門番二人が槍を向けている。
「だ、誰だ……!」
怯えた声を出す若い男の門番は、炎が映り込む槍の穂先を私にも向けた。
臆病な刃を無視し、倒れている人を抱き起こす。
多くの生傷から血が滲み、小袖がずっしりと重くなっている。
門番の槍は血で濡れていない。他の者に斬られたのか。
「大丈夫で――」
私は言葉を失う。
刀傷を見たからでも、抉られた肉を見たからでもない。
血に濡れた人物は、松下村塾で共に学んだ人だ。
「杉山さん……!」
「と、稔麿……池田屋……池田屋に新選組が……」
「新選組……相手は何人ですか」
「わ、わからない……でも……おそらく増えて……きている」
――援軍……か。
私は隣に立つ若い門番に目を向けた。
「すぐにお取次ぎを」
「え……? と、取次ぎ?」
さらに隣にいる中年の門番は、口をへの字に曲げている。
二人とも、まるで他人のような振る舞いだ。眉間に皺が寄ってしまう。
「長州藩士、吉田稔麿です。すぐにお取次ぎを!」
声を張ると、若い門番は藩邸の中へ消えていく。
もう一人の垂れ目の門番は槍を構えたままだ。
杉山さんに簡易的な止血をしたけれど、上役たちは一向に顔を出さない。
仰向けに横たわる彼女は、苦悶の表情を浮かべている。
汗が吹き出る杉山さんの額に手拭いを押し当てるが、悠長なことはしていられない。
早く。早くしなければ。
杉山さんのことも、池田屋のことも。
篝火の爆ぜる音と夏の蒸し暑さが共に増していく。
すると、若い門番が足音を立てて、小走りで戻ってきた。
「お引き取りを、とのことです」
「なぜですか……! 池田屋で仲間が襲われていると伝えたのですか!」
「あ、はい。言いましたが……とにかく帰らせろと」
私は門番を押しのけ、藩邸内に入ろうとした。
「あっ! 待って! は、入らないでください!」
「呼んで来ないのであれば、貴方たちを斬り伏せてでも中へ入ります!
どうか、お取次ぎを!」
垂れ目の門番が舌打ちをする。若い門番は再び藩邸内へ向かう。
しばらくすると、恰幅の良い中年の上役が首を回し、肩を揉みながら現れた。
「夜分に騒がしい女め。無礼ではないか」
「池田屋で同志が襲われています! すぐに援軍のご用意を!」
「はああ? 援軍? なにを言っておるのだ」
耳の中に小指を入れる上役があざ笑った。
「向こうは会合場所を探すために人員を散らしていたはずです!
ですが、場所が特定された今、続々と新選組が集まってきていると思われます!
さらに会津藩なども駆けつけるでしょう! 援軍のご用意を……!」
上役は酷く憐れんだ目で私を見下ろし、ふっと鼻を鳴らす。
「我が藩は関与しないぞ」
夏の夜に冷水を浴びるような言葉だった。
「な、なぜですか……」
「これ以上、幕府側と揉めたら長州の壊滅は必至。戦が起こるぞ。
昨年の折、我が長州藩が酷い目にあったことを忘れたか?
たかが藩士のために動けるか、馬鹿者」
地を踏みしめる足が崩れるように震えた。
「日本のために……動いている者たちです」
「聞こえの良い言葉で言うでない馬鹿者が。日本のために動いているわけではない。
まして、藩のためでもない。ただ好き勝手にやっているだけだ。
そのような輩を匿うほど、長州藩は愚かではない」
上役は曖気を漏らし、口を曲げ、続けた。
「政治がわからん女はこれだから困る。
猿のように喚き立てれば物事が通ると思っておる。
のう、お前ら。このような器量だけの女など、股を開くしか能がないのう」
上役が下卑た笑いを背後へ向けると、垂れ目の門番も追従し、にやにやと笑う。
「お前の無礼な振る舞いは目に余る。それほど喚くなら、わしの寝床でしてみせよ。
たっぷりと鳴かせてやろう、毎日な。男を知らぬのなら、なおよいぞ。
わしを知ったら、生きていけんようになるでのう」
――これが……私たちの……。
「女武士だからと刀を振り回し、偉そうに論ずるな、愚か者め。
鞘は油で塗れた刃を受け入れておればよい」
息が浅くなる。
「吉田稔麿。お前のことは知っておるぞ。
お前の師である吉田松陰、あの者もただの気狂いではないか」
呼吸も思考も一瞬止まった。
「松陰先生のことを……語らないでください。
先生は私たちに生き様を見せてくれた誠の士です。
最期まで……私たちに道を見せてくれた御方です」
「はああ? どこがだ? 勝手な行動で、藩に迷惑をかけた愚か者ではないか」
「松陰先生は――」
「脱藩、密航、悪しき思想、老中暗殺計画、どれも危うく、どれも隙だらけの馬鹿者よ。
だが、あやつも器量だけはよかった。
狂った女がどれほど鳴くのか、たっぷりと味わってみたかったのう。
乱れに乱れ、色欲に溺れる、その様を……のう」
頬の内側の肉を歯で捕らえ、噛みちぎる。
「それに吉田稔麿。お前も脱藩しているそうではないか。
そのような者の言うことを受け入れると思うのか、馬鹿者め」
「脱藩の咎はすでに受けています」
「ふん、わしは知らん。お前など、わしを楽しませればよいのだ。
お前のような女が好き勝手に論じ、刀を振り回し、長州はいい迷惑だ。
わきまえよ。何も持たず、男より前に出ることしか考えぬ女が」
上役の顔は蛙のように横に広がっている。鼻息は荒く、醜い笑いを止めない。
「それに援軍……か。援軍なら、あの世に行って吉田松陰に頼んでみたらどうだ?
先生、先生、と泣いて助けを請うてみたらどうだ。
助けてくれるかのう。どうかのう。先生は助けてくれるのか……のう?」
口の中は血の味で満たされる。
ここまで……腐敗しているのか。
進むことを恐れ、進む者の足を掴み、背後から蹴飛ばす。
松陰先生が描いた先の世を……その歩みを止めるのは、他ならぬ身内ではないか。
どうしようもなく震える腕を掴まれた。
「と、稔麿……」
口から鮮血を垂らす杉山さんは、首を左右に振った。
私を見つめて、血を拭った口を結んでいる。
そして……微笑み、目尻から滴を垂らした。
私は若い門番に目を向ける。
「杉山さんを……頼みます」
「稔麿……行くな……」
杉山さんの肩にそっと触れてから、私は再び闇夜の中を駆け出す。
懐紙に包まれた品が、腹の辺りで微かな音を立てる。
少し走って振り返れば、篝火は風によって踊っていた。
闇夜の中で、静かに、確かに灯る。
一文字三つ星は黙って、私を見つめていた。




