吉田稔麿 6
「私がみんなみたいになれる……そういうことお?」
「そのとおりです」
「高杉さん、久坂さん、稔麿ちゃんみたいな人たちに勝てるわけないじゃん!
誰も敵わないよ……! きっと他の門下生だって同じこと思ってるよお!」
俊輔ちゃんは急に声を荒らげた。クオンさんも負けじと声を張り上げる。
「やってみないとわからないでしょう!」
「へっ! そんなことは気休めだねえ! どれだけやっても勝てないことがあるんだ!
私はそれを知っているんだよお! 何度叫んでも勝てなかった!」
「山の中で叫んでも勝てるわけがないでしょう!」
「クオンちゃんみたいに優秀な人にはわからないよお!
見下ろすなっ……! 私のことお!」
「勝手に比べ、勝手に負けて、ヘソを曲げる! まるで癇癪を起こす幼子です!
そうやって卑屈な姿勢でいるから、身も心も育たないのです!」
「う、うるさい! うるさい! 大きな声やだあ! 黙ってよお!
才人たちに、私の気持ちなんてわかるわけない!」
睨み合う二人は目を見開く。クオンさんも最初は冗談で始めたというのに。
二人の間に入るために息を吸い込むと、先に一歩前に出たのはミナトさんだ。
「クオンは最初から優秀だったわけじゃないよ。
松下村塾に入る前から……さまざまな研鑽を積んできたんだ。
それは僕が想像できないくらいに。
つらいことも苦しいこともたくさんあったと思う」
ミナトさんとクオンさん。いつから共に過ごしているのだろう。
昔から聞きたかったけれど、私は今も言えずにいる。
「なーにそれえ! そんなの知らないよお!
私だってやってきたもん! 私だってえ……!」
ミナトさんを上目遣いで睨む彼女は、さらに声を荒らげた。
「みんなは今も伸びてる青い竹なんだよお!
私は切られて、その辺に捨てられた竹なんだもん!
どんなにがんばっても、無理なんだよお!」
目には涙が浮かんでいる。
「そんなことないよ。伊藤ちゃんは……いつでも学問に熱心だよね。
講義に遅れて顔を出せば、外で書き取りをしていること……僕は知ってるよ」
「それがどうしたの! そんなの才人になることと関係ないんだよお!
そんなことしたって、意味ないでしょっ!」
「あるよ。嫌な人のことを僕は才人と呼ばないし、思わない。
だって、尊敬できない相手を良いふうには言わないでしょ」
「…………。へっ! わざと言うことだってあるでしょ! 嫌味とかでさ!」
「伊藤ちゃんが人に配慮ができるところ、僕は素敵だと思っているよ。
それと……自分がつらいときでも、みんなを笑わせてくれるところも」
視線をゆっくりと落とす俊輔ちゃんに、ミナトさんは穏やかな口調で続ける。
「学問って勝ち負けじゃなくて、どう使うかだと思うんだ。
学んだことを持っているだけでは、何一つ価値がない。
伊藤ちゃんが学んだこと、伊藤ちゃんがみんなと交わした意見。
それを使う日が来れば、他の人よりも秀でることに繋がると思うよ」
頭を垂らす俊輔ちゃんから返事はない。
「伊藤ちゃんは、この先どうなりたいの?」
その問いかけに、彼女の鬱屈としていた表情は一変する。
「いつかね! いつかね! この国の頭になってやるんだあ!
幕府も大名も関係ない、新しい時代を作りたい!
私がこの国の一番になるの……!」
情緒が壊れてしまった、そのような不安が巡るほど笑っている。
嵐が過ぎ去った空のようにも見えて、青々とすっきりしつつ、目尻には滴があった。
「それでね! それでねえ!
千両箱をいっぱい持って、みんなが平伏すような人になりたいの!
その時にね! 松下村塾のみんなに自慢してやるんだあ! 私が一番だってえ!」
不純な動機だ。このような考えを私は好まない。
すべて己のためという心持ち。
誰かが傷ついても構わないという思考に、いずれ向かっていくのではないか。
幼馴染みの俊輔ちゃんがそうなると断定はしない。友として思いたくもない。
けれど、私の胸の中でぐるぐると不安が巡る。
彼女の考えをすべて否定することも、愚かな考えの一つであるとわかっている。
ミナトさんとクオンさんの反応を窺うために目を向けると、二人は顔を綻ばせていた。
――どうして……笑っていられるんだろう。
「あっちのほうじゃないか!」
それほど遠くないところから声がした。
先程の俊輔ちゃんの絶叫を聞いた門下生たちが、周辺を探っているのだろう。
クオンさんは俊輔ちゃんの背後に回り、彼女の手首を縛っていた手拭いを外す。
「さあ、山にお帰り。名も無き化け物よ。
もう二度と村人を不安にさせないでください」
眉を下げる俊輔ちゃんの腹から、ぐうっと音がした。
首を傾げ、少し笑みを浮かべるクオンさんは彼女に言う。
「今日は弁当に握り飯を持ってきています。
人数分より少し多く持ってきたので、よかったら食べますか?」
問いかけられた俊輔ちゃんが何度も頷く。
クオンさんは小麦色の風呂敷の中から、竹皮に包まれた二個の握り飯を取り出す。
身体を前後に揺らす俊輔ちゃんは、礼を言って受け取った。
その瞬間。
「わわっ! な、なにあれえ……!」
俊輔ちゃんが指差した方向に、私たち三人は目を向けた。
風によって葉が揺れている。それくらいしか判断できない。
しばらくして、私は隣に視線を戻す。
そこには広げられた風呂敷と、多くの握り飯だけが残されていた。
朽葉色の小袖の背中は、すでに遠くにある。
彼女は再び木々の中に突っ込み、そして消えた。
「伊藤ちゃん……」
ミナトさんが呟く。
すると、多くの人が草木を踏みしめて現れた。
門下生たちから、山を駆けていた俊輔ちゃんの絶叫のことを聞かれる。
化け物は見なかったか。怪しい者はいなかったか。
しかし、私たちは知らぬ存ぜぬを貫いた。
後に到着した高杉さんと久坂さんだけは、私たちの言葉と態度を疑っていた。
みんなで山頂に向かい、クオンさんと他の子が持ってきてくれた握り飯が配られる。
二個の握り飯を受け取った私は、切り株に腰を下ろして、竹筒の水で喉を潤す。
ミナトさんが笑みを浮かべて、隣に来てくれた。
「さっきさ、伊藤ちゃんが僕たちの視線を逸らさせた理由がわかったよ」
「理由があったんですか? 確かに不自然ではありましたけど」
「うん。クオンたちは握り飯を人数分と、さらに二個多く持ってきていたんだって。
まあ、二個で一組だから、四個は多く持ってきていたみたい」
「つまり……あの隙に何個か盗んだということですか」
「うーん、おそらくだけど、ね」
そう言った彼の手には握り飯がない。
「あの……よかったら、これ食べてください」
「あ、大丈夫だよ。稔麿ちゃんが食べて」
「どうぞ、食べてください」
私が二個の内一つの握り飯を手渡すと、彼は礼と共に微笑んでくれた。
周囲に目を向ける。
松下村塾の門下生がそれぞれ座って、握り飯を食べ始めていた。
高杉さんと久坂さんは、私たちから遠く離れた斜め向かいに座っている。
言い争いをする二人だけれど、この光景は珍しくない。
彼女たちの周りに、男の子たちが群がることも日常だ。
わざとらしい揉み手で、ちょろちょろとしている。
名家の生まれである高杉さんに、藩医の家系である久坂さん。
どちらかと夫婦になりたいと強く願うのは当然だろう。
とはいえ、この国で婿養子の座を勝ち取ったとしても、一生安泰かは妻の寿命次第だ。
つい先日も、妻に先立たれた近所の婿養子が、用済みとして実家に送り返された。
名家乗っ取りの暗殺を防ぐ掟とはいえ、その後ろ姿には悲壮感が滲んでいた。
嫡子が元服していなければ、後見人として居座る道もあったはずだ。
けれど、妻が亡くなり、最終的に追い出されることには変わりはない。
それでも次男坊、三男坊などは婿養子になることを切に望む。
一時だけでも幸せを手にし、あわよくば財産を掠め取っておくために。
婿の座を争う者同士で目を血走らせ、声に出さぬ駆け引きを繰り返す。
もっとも、選ぶ権利のある当の本人たちは、まったく相手にしていない。
ミナトさんに視線を戻すと、耳の下辺りが泥で汚れていた。
先程、山の中で滑り落ちたときの名残だろうか。
「泥が付いていますよ」
「え、どこに?」
クオンさんは隣にいない。
今だけは……私が泥を拭ってあげてもいいのかもしれない。
紺色の小袖の袂に手を入れて、手拭いを引き抜いた瞬間、思わず歯を食いしばった。
慌てて胸元へ腕を引っ込め、覆い隠すように手拭いを握りしめる。
ちらりとミナトさんの様子を窺う。彼は目を丸くしていた。
その瞳から逃げるように下を向く。
「ごめんなさい……」
私が取り出したのは、白い花があしらわれた桜色の手拭いだった。
「なんで謝るの? あ……桜の花がってこと?」
その言葉に小さく頷く。
「僕は気にする必要ないと思うけど。
桜は散る、それが御家を絶やすという理由で、好ましくないってことでしょ?」
「はい……武士としては、桜のように潔く散るべきときもあります。
ですが……成すべきことがあるなら、本懐を果たす前に散るわけにはいきません。
だから、桜は避けるべきだと私は考えています」
「そっか。でも、あまり気にしなくてもいいと思うけど」
「桜を避けるべきと言いながら……私は、このような手拭いを持っています。
筋が通りません。おかしい……ですよね」
「ううん、おかしくないよ」
彼に目を向けると、優しく笑っていた。
「きれいな桜色、稔麿ちゃんに似合ってるよ」
その言葉に胸が優しく、優しく潰される。
そこから滲み出す想いを隠し、小さく息を吸い込む。
「そんなこと……ありません」
「好きならさ、隠す必要なんてないんじゃないかな」
隠さなくていい。桜のことはそうかもしれない。
しかし、すべてがそうではない。
私は……私の想いを秘めることしかできない。
大切な友を裏切るような真似は、決してできないのだから。
いつもミナトさんの隣にいるクオンさんは、高杉さんに肩を組まれて笑っている。
一本一本が光沢のある銀髪。紅い花のような美しい瞳。
クオンさんは、私のかけがえのない大切な友だ。
視線を落とし、唇を一度噛み、小さい声で告げる。
「私は……桜が好きです」
「うん、それでいいと思う」
息を止めて、目を伏せる。
同じ言葉を繰り返してくれたら、と淡い願いが胸の中を巡った。
私に向けられる言葉ではないとしても。
彼の口から少しだけでも聞きたかった。
「桜ってさ、咲いているときも、散るときも……きれいだよね」
「そうです……ね」
顔は火照り、唇を結び、腹に力を込めた。
話したいことがある。言いたいことがある。伝えたいことがある。
心を巡るのは一つの言葉だ。
でも……。
口にすれば、すべてが壊れてしまう。
「武士と……桜かー。稔麿ちゃんは武士になるとき、すぐに決めたの?」
「いえ、すぐにというわけではありません。
父上も母上も、おなごとして生きる道を選んでほしいと思っていたんです。
ですから……元服のときは悩んで、悩んで決めました」
「そっか……確かに親なら、そう思ってしまうよね」
「はい。私の家は貧しいですが、元服のときには立派なお祝いをしてくれました。
父上は……泣きそうな顔をしていましたけど」
あの時の父の顔を思い出し、胸が痛む。
「それでも武士の道を選んだんだね」
「はい。荒れる時勢の中にあって、私も武士として生きたいと思ったんです。
メリケンのペリーが来た頃だったので。
私にも……なにかできるはずだと思いました。まだ、できていませんけど」
「大丈夫だよ。これからきっとできるよ」
彼は笑みを浮かべたまま、頷いてくれた。
「もちろん……おなごが武士として生きられるように切り拓いてくれた方々。
『葉桜の四刃』への憧れもあります」
「二百年前の女傑たち……か」
「はい。あの方々のように、私も成すべきことをしようと思っています」
「すごいね、稔麿ちゃんは。自分の道を切り拓いてきたんだね」
「そんなことは……ありません」
「あのさ、元服のときに武士の名に変えたんだよね?
おなごとして生きていく場合の名って、なんだったの?」
私は地面に目を逸らし、小さく返した。
「それは……ごめんなさい。お教えできません。
武士になるときに燃やして、天に返してしまったので、誰にも言えないんです」
「あっ、そうだった……ごめんね」
「いえ、教えてくれる人もいますよね。
私も聞きたいです。ミナトさんは……どうして薬売りの道を選んだんですか?」
そっと視線を戻すと、彼は私を見ていなかった。
私の肩を飛び越えて、その先を静かに捉えている。
「また……品川さんがケンカしてる」
彼の視線を追いかけた。
みんなが座る端の方で、数人の門下生が言い争いをしている。
私は独り言のように呟く。
「ユリちゃん、ムギちゃん……熊吉さんまで」
「伊藤ちゃんがいなくてよかったね」
「そうですね」
俊輔ちゃんと品川さんの二人が揃うと、必ず食べ物の奪い合いが始まる。
そこにユリちゃんたちが加わり、さらに激化することもあった。
争いを止めることが多い私は、どうにか良くならないかと日々思案していた。
「あ……ちょっと、シオちゃんのところに行ってくるよ」
彼は立ち上がり、木が生い茂るほうへ歩いて行ってしまう。
向かった先には、門下生の女の子が座っている。
松下村塾の古株であるシオちゃんだ。
シオちゃんはクオンさんと同様に、握り飯を作り、ここまで持ってきてくれた。
彼女の前にかがんだミナトさんが、何かを話しかけている。
そして、手にしていた握り飯を向けた。
受け取ったシオちゃんは握り飯を二つに分けて、彼に渡す。
どうやら、俊輔ちゃんはシオちゃんの分も盗んでいったようだ。
深く頭を下げるシオちゃんに向けて、ミナトさんは手を出して何かを言っている。
彼は微笑みながら、私の元へ戻ってきた。
「やっぱり伊藤ちゃんは何個か盗んだみたいだね。
シオちゃん、みんなが食べられたらいいって黙っていたみたい」
そう言って、みんなを見渡した。
「あの……半分になってしまいましたね。よかったら、こちらを食べてください」
自らが持っていた握り飯を彼に向ける。
「ううん、大丈夫。そう何度も貰えないよ。
それにさ、この握り飯って元々が大きいし」
「ですが……ミナトさんは男の人で、身体も――」
「ありがとう。さ、食べようよ。
今日の具は……大根、なにかの葉っぱ、わかめ、か」
彼は握り飯を一口齧り、私を見て微笑んだ。
「うん、おいしい。稔麿ちゃんも食べなよ」
私は促されるまま握り飯を口にする。
穀物の入った適度な食感に、わかめが生み出す磯の香り。
大根の甘さと漬物の塩気が効いている。
緑が香る風を受けて、私は彼に問いかけた。
「ミナトさんは……これからどうするんですか?
萩から……いつか出て行ってしまうんですか?」
彼が俊輔ちゃんに問いかけたことだ。続きは私が知りたかったこと。
ミナトさんは腰に下げていた竹筒を外し、水を飲み込む。
「うーん、そうだね……」
その瞳は遠くを見ている。
「もっと他の土地にも行ってみたいかな。
薬売りとして人の手助けもしたい。少しだとしても……できることはしてみたい」
「ミナトさんらしいですね」
私は手で掴んだままの握り飯を見つめ、言葉を続けた。
「私は……どうしたらいいか、まだ決まっていません」
己は何をするべきであるか。己はどこへ向かうべきか。
私はわかっていない。明確な答えを持っていない。
普段から松陰先生の講義を受け、みんなと議論を交わしている。
それでも、どこに進むべきか、何を求めるべきか、私は見出せずにいた。
少し俯いた私に、明るい声が向けられる。
「稔麿ちゃんは大丈夫だよ。
進んだ先で見つかることもあるし、今決まっていなくても大丈夫だよ。
それにさ、もう……あると思うよ」
「どういう意味ですか?」
「明確な言葉がないだけで、稔麿ちゃんがやろうとしていることはあると思う。
心の真ん中にあると……僕は思うよ」
彼は微笑んでくれた。
胸の辺りから重さが抜け、その代わりに鼓動が大きくなっていく。
外にまで聞こえてしまわないか不安になる。
「いつかさ、その答えがわかったら教えてよ。進むべき道が見つかったらさ」
「はい。お伝えしますね。一番に……お伝えします」
二人きりで話すことは二度目だった。
大雨が降った日、高杉さんの提案で増水した川を見に行ったことがある。
あろうことか、高杉さんは俊輔ちゃんを蹴飛ばし、濁流の中に落とした。
私はすぐに飛び込んで、彼女を助けたけれど、力尽きてそのまま流されてしまう。
その時に助けてくれたのが、ミナトさんだ。
ずいぶんと流され、命からがら対岸に渡り、山の中の洞窟で一夜を共にした。
命の恩人であるミナトさんに、いつか報いたい。
あの日は黒い空から雨粒が落ちていた。
今、頭上に広がる夏の空は青い。今まで見てきた、どこの空よりも青い。
いつか私の道が決まったとき。
彼に話せるとしたら、私は笑うのだろうか。
この胸にある想い。この胸にある痛み。この胸にある確かな熱さ。
共に手渡すことがあるのだろうか。
絶え間ない蝉時雨が耳を突いて、私は心の中で何度も同じ言葉を繰り返した。




