吉田稔麿 5
松下村塾の門下生たちは、何人かの組に分かれて山を探索することになった。
私と共にいるのは、ミナトさんとクオンさんだ。
「本当にいたら……どうしよう」
ミナトさんがぽつりと言った。
「物の怪が昼間に出るというのは聞きません。
仮に出てきたとしても、ミナト様が襲われる前に私が成敗します」
クオンさんは落ちていた枝木を拾い、前に踏み込んで振る。
ひゅっと音を立て、宙を切り裂く。
二人とも帯刀はしていない。
しかし、みんなと共に剣術の稽古をすれば、多くの者が敵わない。
ミナトさんは議論に参加するけれど、座学は知っているからと出ないことが多い。
庭先で必死に木刀を振るうことも珍しくなかった。
私は学問をしながら、その様子を目で追ってしまう。
しばらく山の中を進むと、目の前に長い急斜面が姿を現した。
崖のような斜面を三人で上がっていく。
先頭にはミナトさん。次いでクオンさん。その後を私が追う。
ミナトさんは崖を上りきり、クオンさんの手を掴んで引き上げた。
二人の仲であれば当然だ。そのような場面も多く見かける。
私は姿勢を低くし、地べたを這うように進む。
顔のすぐ下にある草の匂いが鼻を突く。
土に指先を食い込ませて足に力を込めるが、身体は後ろに滑っていきそうだ。
目の前に手のひらが見えた。
ミナトさんの手だった。
「稔麿ちゃん、掴んで」
「あ……いえ、私は……大丈夫です」
下を向いてしまう。瞬きの数が多くなる。
「嫌かもしれないけどさ、滑ったら危ないから」
「嫌なんて……そんな……そのようなことはありません」
「じゃあ、はい、掴んで」
彼の手を見つめる。男の人の手だ。無骨というより、少し細いような気もする。
そっと手を伸ばすと、ミナトさんはしっかりと掴んでくれた。
その手は毎日木刀を握っているからか、タコができているところもあって硬い。
何かが動く。温かい。両の手で胸の中を開けられるかのようだ。
彼は強く手を握り、引き上げてくれる。背中にも優しく手を添えてくれた。
少し身体が震え、全身が急に熱くなり、顔に血が集まってしまう。
気づかれないようにしないと。
二人に気づかれてはいけない。
そう思ったときだ。
「うわっ……!」
ミナトさんの足元の土が崩れた。
私の視界の先から、藍色の着流しを纏う彼があっという間に斜面の下へと消えていく。
「ミ、ミナト様……!」
クオンさんは樹木の幹に手を押し当て、根本に足を掛けて下りていく。
私も滑りそうな足場を何とか下りて、すぐに追いかける。
勢いよく草木の上を滑り落ちていったミナトさんは、ぴくりとも動かない。
「ミナト様……!」
「ミナトさん……!」
私とクオンさんが声を上げて駆け寄ると、彼は伏せたまま手だけを軽く上げた。
「大丈夫、大丈夫。恥ずかしいから顔を上げてないだけ」
「おケガはありませんか、ミナト様」
「うん。骨が折れたりとかはしてないよ」
クオンさんがミナトさんを抱き起こす。
私は背を丸めて、謝ることしかできない。
「ごめんなさい。私を引き上げたせいで」
「違うよ、土に足をとられただけだよ。稔麿ちゃんは大丈夫? ケガとかはない?」
「私は……なにも……」
彼は笑顔を向けてくれる。そこには何一つ偽りがない。
身体の緊張がほどけて、再度、声を出そうと息を吸い込んだときだ。
「いいいぎゃー! あいっひいいいい……!」
山の中に絶叫が響く。耳を塞ぎたくなるような得体の知れぬ声だ。
夏だというのに背筋が寒くなる。自然と奥歯を噛みしめた。
「あいひゃ! あいひゃ! いいいぎゃー! いげ! いげえ!」
遠くない。決して遠くないところから聞こえる。
「ミナト様、立てますか」
「う、うん。この声……割と近くから聞こえるね」
「出たようですね、化け物。こちらに近づいてきています」
クオンさんは落ちていた太めの枝木を素早く拾い、風を切った後で正眼に構える。
私も鯉口を切り、刀を抜いて構えた。
ざざあ……ざざあ……。
風で揺れる葉の音にさえ、敏感に反応してしまう。刀を握る手は微かに震えた。
目と首を忙しなく動かし、周囲を警戒していると、ミナトさんが私に言った。
「稔麿ちゃん、脇差を貸してくれないかな」
「え……はい、どうぞ」
私の脇差は普通のものより長い。
握った感覚を濁らせないように、打刀と見紛う長さにあつらえている。
腰から外した脇差をミナトさんに手渡す。
「ありがとう。ごめんね、人に貸すものじゃないのに」
彼は礼を言うと、私の前に静かに立ち、刀を構える。
逞しい背中だ。男の人の背は、これほど広いものなのか。
それは肉体的なものだけではなく、何かを守るための強い意志が滲んでいる気がした。
周囲から聞こえる絶叫よりも、ミナトさんに意識を向けてしまう。
危険な場にいるというのに。命を奪われるかもしれないというのに。
目を離せない。
「ミナト様。この広い戦場において、その陣形は危険です。
互いに背を合わせ、全方位からの襲撃に備えましょう」
「うん……。それにしても、この声……怖いな。不気味な声だよ」
クオンさんの提案通りに私たちは背を預け合い、近づいてきている敵に備えた。
「いげえっ……! いげえいっ……! いぎゃあらああ!」
ミナトさんが言うとおり……不気味な声だ。
甲高い声に地鳴りのような音も混じっている。
一度も聞いたことのない、肌を叩くような声だ。
刀を握りしめる手には汗が滲む。額からの滴が頬を伝い、首筋に流れていく。
すうっと息を吸い込む。
ざざざ、と音がした。すぐ近くに来ている。背丈ほどの木々が揺れた。
いる。声の主がいる。
私たちの周りを円を描くように駆け回っている。
満足に息ができない。誰も声を出さない。
「いぎぃ! あらあがっ……!」
木々の間から、黒い塊が転がるように飛び出してきた。
ミナトさんの正面だ。
彼は刀を脇に構え、前に走り出す。
ぎらりと光った刃をあえて逆に構えている。
「ミナト様……! ダメです!」
クオンさんの声と同時に、ミナトさんは刀を振り上げた。
しかし……。
脇差の峰は相手を叩くことも、宙を切り裂くこともなかった。
「え……い、伊藤ちゃん?」
ミナトさんは刃の代わりに相手へ言葉をかけた。
私とクオンさんもすぐに駆け寄る。
そこには目を見開いて、腰を抜かしている一人の女の子の姿があった。
顔は黒く汚れ、黒い袴も泥だらけ。
朽葉色の小袖には蔓の残骸が付いている。
私たちが知っている子だ。
一瞬、同一人物であるか疑ってしまった。けれど、私は幼い頃から知っている。
丸い額と垂れた目が特徴的な子であるから、彼女に間違いない。
松下村塾 伊藤俊輔
「な、なんで刀を振り上げるのお!」
じっとりと濡れた手を前に突き出した俊輔ちゃんは、大声をミナトさんに浴びせる。
「なんでって……それはこっちが聞きたいよ。
あんなに叫んで走っているなんて……怖すぎるよ」
「私の勝手でしょー! 早く刀を納めてよお!」
彼女は今日、松下村塾に顔を出していない。山に向かうときもいなかった。
激怒している俊輔ちゃんに対し、私たちは今までの経緯をすべて話す。
「ふへへい、そうだったんだあ!
でもお、私に刀を向けたことは忘れないよお!」
彼女は汗で光る広い額を手で撫でた。
「化け物は捕まえます」
そう告げたクオンさんは、背負っている小麦色の大きな風呂敷を下ろす。
中から取り出した白い手拭いの端を持ち、見せつけるように張る。
彼女は俊敏な動きで俊輔ちゃんの背後に回り、腕を絡め取って、素早く拘束した。
「ああっ! な、なにするのお! やめてよお!」
「山の中を走り回る化け物め! 村人を不安に陥れた罪は重いですよ!」
「ちょっとお……! 話を聞いてよお!」
「少しだけなら聞いてあげます! まずは、姿勢を正してください!」
後ろで手首を縛られた俊輔ちゃんは正座し、肩を竦め、静かに話し始めた。
「いろいろムカつくから……山の中を大声を出して走り回ってたのお」
「それは毎日ですか?」
クオンさんが俊輔ちゃんを見下ろす。
「うん……ほとんど毎日」
「聞いたところによると、声の発生は夜だったそうです。
近頃は昼から叫び声がする。これはどういうことでしょうか」
「うん……始めた頃は見つかったらまずいから……夜にやってた。
夜なら見つかっても……逃げられるしい」
「なぜ、昼にもやるようになったのですか」
下唇を前に突き出し、俊輔ちゃんは答える。
「昼間のほうが人に見つかりやすいから……やってみたくなったのお。
そういう怖さみたいなもので……。それから、どんどん……止まらなくなってえ」
「それは異常者です。先程の話に戻します。
どのようなことに不満を感じているのですか」
クオンさんは腹の前で手を重ね、静かに言った。
すぐに答えない俊輔ちゃんの瞬きの数が増える。
「お答えください、山の化け物よ」
「みんなが……優秀だからあ。高杉さんも久坂さんも稔麿ちゃんも。
クオンちゃんだってそうじゃん。すごーく優秀なんだもん」
「他の者が優秀だと山の中で叫ぶのですか」
首を横に倒す俊輔ちゃんの唇は、さらに尖った。
「だってえ……ムカつくんだもん」
「教えてください」
「これから、みんなは……いっぱい稼ぐんだよお。
家禄以外にも給金をたっぷり藩から貰えるようになるよお、きっと。
そんなの嫌だもん。どうせ私に……金子を見せびらかすんだよお」
「御三方は見せびらかす真似などしません。
あなたは自身も稼げるようになろうとは思わないのですか」
木々の間を風が吹き抜ける。顔に浮かぶ汗が少しだけ冷えた。




