吉田稔麿 4
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私は七輪の前でかがんだ。鱧に焼き目がつく。香ばしさが鼻をくすぐる。
うちわで扇げば、煙と共に良い匂いが遠くまで飛んでいく。
ミナトさんとクオンさんは、別の鱧料理をこしらえている。
ちらりと土間を見れば、二人は笑顔で肩を並べていた。
昔から変わっていない。松下村塾で共に過ごしていたときから。
二人は……いつも一緒にいた。
小さな溜め息をつく。誰にも聞こえないように。
そして、懐かしい日々を思い返す。
私が萩の松下村塾で学んでいた頃。
今の京のような血の臭いを一切感じなかった頃。
松陰先生が生きていて、共に笑っていた頃。
毎日のように友と語り合っていた頃。
大切な思い出があふれてくる。
木々の間から漏れる陽の光。濃淡のある色味は心を落ち着かせた。
蝉が鳴き、葉が揺れる。緑の爽やかな香りが身体を満たす。
松下村塾に顔を出した私と他の門下生たちは、山の中を歩いている。
松陰先生が主宰する松下村塾の門は、いつでも開いていた。
早朝であろうが夜中であろうが、先生は快く出迎えてくれる。
私たちは学問の一つとして山に入ることもあれば、息抜きとして入ることもあった。
松陰先生は家に幽閉されている身であるから、門下生たちだけで坂道を上っていく。
男女合わせ、総勢で十五名ほどだ。
とりとめのない話をしている者もいれば、議論を熱く交わす者もいる。
「ねえ、知ってる? あの噂のこと」
先頭を歩く高杉さんは振り返り、後ろに続く私たちに問いかけた。
短く整えられた高杉さんの黒髪がさらりと揺れる。
彼女が纏う真っ赤な着流しは、腰からお尻にかけて綺麗な曲線を描いている。
「曖昧な発言で興味を惹こうというのは無駄よ。
物事というのは端的に言わねばならない。人に伝えることの重さを知れ」
強い口調で返したのは、藍鼠の小袖を纏い、黒い袴を穿いた久坂さんだ。
「話ってのは入口が肝だ。興味を持たせるために、順序を立てることが大切なんだよ。
ああ、そうか……柿も食えぬ医者にはわからないのか」
「黙れ、高杉。それで……噂というのは?」
「気になってるね、お医者様」
高杉晋作
久坂玄瑞
松下村塾が誇る者たちであるけれど、二人が言い争いをすることも珍しくない。
学問をしているときも。剣術の稽古をしているときも。遊びに興じるときも。
それが二人にとって深い心の交流であると、私は勝手に思っている。
「この山に……出るらしいよ」
高杉さんの足がぴたりと止まった。
「なにが出るというの」
緑を喰む風が吹き、私たちの身体を撫でる。
「化け物さ」
そう言った高杉さんは、にやりと笑う。
警戒する人の懐にさえ、すんなりと入っていけるような綺麗な顔だ。
行動することを恐れない姿勢。物事を成すための実行力。懸命に歩むための心意気。
そして、言い表すことのできない、人を惹きつける魅力を彼女は持っている。
「そのようなことに気を取られるなど愚かだ」
常に背筋を伸ばしている久坂さんが返した。
前髪を切り揃えた私と違い、すべての髪を後ろまで流し、一つに纏めている。
彼女は少し強い物言いをすることがある。
そういうところと容姿が相まって、年頃の男の子たちから密かに恋心を抱かれていた。
理知的であり情熱的。論理的であり理想的。内省的であり外向的。
こういった二極を併せ持つ久坂さんだからこそ、多くの者が慕うのだろう。
普段から熱のある視線を意に介さない彼女は、笑みを見せることが少ない。
今の高杉さんの発言にも、眉間に皺を寄せている。
「それで……化け物がいるなら見た者はいるのか」
やはり、久坂さんは気になるようだ。
高杉さんが鼻を鳴らし、答える。
「麓の村の連中が騒いでいたよ」
「なにをですか?」
高杉さんの言葉にすぐ返したのは、私の隣にいるミナトさんだ。
彼の隣には、桃色の着物を纏う美しいクオンさんがいる。
「夕暮れ時から夜にかけて、山の中で怪しげな叫び声がする。
近頃は昼間でも聞こえるようになったらしい。得体の知れぬ……絶叫がね」
胸の前で腕を組み、小さな溜め息をついた久坂さんが言う。
「それが化け物か。くだらない。
考えられるのは、盗賊などが騒いでいるか、人攫いにあった者の叫びか。
しかし、このような山に両者がいるとは考えにくい。声の正体は獣の類だろう」
「相変わらずの鏡餅頭だ。村の者たちは昔から住んでいる。
つまり、得体の知れぬ『なにか』が現れたということだろ」
「その『なにか』を化け物と解釈していることがおかしい。
どこかの山から獣が移ってきたとも考えられる」
「それって、どういう叫び声なんですかね。
久坂さんの言うように獣かもしれません。
高杉さんが言うように、得体の知れぬ者かもしれませんし」
ミナトさんが問いかけると、高杉さんは腰に差している刀の柄頭に手を乗せた。
「それを今日、見つけようと思ってね」
そう言い、額を指先で二度ほど掻く。
彼女は共に来ていた門下生の全員を集めて、今の話を改めて伝えた。
「よし、いいね。今から化け物を探すよ」
「くだらない。そのようなことは無駄足になるだけよ」
久坂さんの苦言を高杉さんは目を閉じて聞き流す。
「見つけた者には一分金を与えるよ」
高杉さんの一言で、男女問わず、みんなが色めき立つ。
松下村塾に通う者は貧しい家も多いから当然だ。
高杉さんは代々続く名家の出身で、私たちとは生まれからして違う。
しかし、そのことで心の触れ合いに軋轢が生じることはない。
身分を問わず、共に学び合える場が私たちの松下村塾だ。
「一分金だってさ。すごいね、高杉さんは」
ミナトさんが私に向かって眉を下げる。
「書物がたくさん買えますね」
「この前も買ってなかったっけ」
「はい。すぐに読み終わってしまうんです。
ミナトさんは……ミナトさんは、なにか買いたい物はありますか?」
「あー、うーん、どうだろうな……」
彼は首を傾げ、目を瞑った後で再び答える。
「みんなでおいしい物を食べたいかな。どこかに出かけて食べるとかさ」
ミナトさんは優しい。いつも周りのことを考えてくれる。
先程の高杉さんたちの会話にしてもそうだ。二人の間に意図的に割って入ってくれた。
あのまま高杉さんと久坂さんを止めなければ、喧嘩になっていたはずだ。
私は彼のそういうところを知っている。
そして……おそらくクオンさんも、そのことに気づいている。
「私もミナト様に賛成です。食材さえ手に入れば私が料理します」
綺麗な銀髪だ。紅い瞳、白い肌。クオンさんは、いつもミナトさんの隣にいる。
私は木漏れ日が色を変える地面に視線を落とす。
胸の痛みを抑えつけていると、高杉さんの言葉が耳に入る。
「近頃は昼間も出るらしいから。見つけたら必ず捕まえろ。
生け捕りが好ましいけど、場合によっては……殺しても構わない」
物騒な発言の後で、両の腕を広げた。
「さあ、松下村塾の者たち! その名にかけて化け物を捕まえるよ……!」
みんなが呼応し、腕を上げた。山に大声が轟く。
また突然の行楽が始まった、と私の口元は自然と上がる。




