吉田稔麿 3
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買ってきた品物を上がり框に並べていると、稔麿ちゃんが声をかけてきた。
「ミナトさん。先程のお話ですけど……なにをするんですか?」
彼女は前髪を手で撫でたり、押さえたりする。
「髪が気になるなら、きれいにしてあげるよ」
僕は台所に立つクオンに目を向けた。
油紙をほどいた鱧切り包丁を品定めするように見ている。
その彼女に近づき、稔麿ちゃんに聞こえないように耳打ちをした。
しばらく沈黙し、肯定する言葉と同時に銀髪が揺れる。
外に向かった僕は、軒先に置いた七輪に炭を入れ、火をつけた。
温度が上がってきたところで、ぱちぱちと鳴る炭火の中に火箸を入れる。
しばらく経ってから引き抜き、熱せられて少し赤黒くなった鉄をクオンに見せる。
手を翳し、僕に大体の温度を教えてくれた。
クオンは五感を研ぎ澄ませる訓練なども、施設にいた頃に受けているらしい。
僕たちは同じ作業を何度か繰り返す。炭火の熱と夏の暑さで額に汗が浮かぶ。
「現在の温度、およそ二百度です。使用時には冷めてくるので適温であると思います」
稔麿ちゃんは黙って僕たちのやりとりを見ていた。
男たちを撃退したときと表情が違い、眉を下げている。
そのような彼女を促し、僕たちは家の中に戻った。
濡れ手拭いを用意し、上がり框に座らせた稔麿ちゃんの前髪を包む。
「なにを……するんですか?」
問いかけに反応せず、僕は火箸に付いた炭火の汚れをボロ布で拭き取る。
「な、なにをするんですか、ミナトさん」
眉間に皺を寄せた稔麿ちゃんは、二度目の問いかけで声を大きくした。
「前髪が跳ねて気になるなら、これで真っ直ぐになるよ」
「な、なるわけありません! なにをするんですか! やめてください!」
再び声が大きくなる。
クオンは素早い動きで稔麿ちゃんの背後に回り、腕を拘束した。
「は、離してください! クオンさん!」
「私もミナト様の言い分に賛成です。
稔麿ちゃん、観念してください。美しいおなごになるためです」
「そ、そんなこと! 離してください!」
身を捩る稔麿ちゃんに僕は告げる。
「大丈夫だよ。着物も皺を伸ばすでしょ。
えーと……なんて言うんだっけ、柄杓のような物に炭を入れた――」
「火熨斗です」
クオンが被せて答えた。
「あ、そうそう。あれと同じだよ」
「着物と私の髪を同じにしないでください!」
「大丈夫だよ」
彼女は目を見開いた。
「いけん……いけん……! やめてつかあさい!」
稔麿ちゃんは潤んだ目で僕を見た。動揺のせいか、出身地の訛りが出ている。
「大丈夫、大丈夫」
「怖い! 嫌です……! 燃えてしまいます!」
そう言って逃げ出そうとする。
クオンは瞬時に横向きに体勢を変え、彼女の太ももに足を乗せて押さえ込む。
僕は軽い口調で稔麿ちゃんに告げる。
「危ないから額と目に手拭いを巻くね」
「嫌です!」
僕は稔麿ちゃんの額と目に、手拭いを重ねて巻く。
そして、前髪を覆った濡れ手拭いを指先で伸ばし、根元近くから火箸で挟み込む。
「あっ……や、やめて! やめてください!」
「動くと危ないから!」
「どうして! どうして、ミナトさんが怒るんですか……!」
手首と指先に力を込める。
じゅっ……と水分の飛ぶ音がした。濡れ手拭いが少し焼ける匂いもする。
ゆっくりと毛先のほうへ引っ張っていく。
「やめて……! 燃えてしまいます! こ、焦げ臭い!」
「濡れ手拭いが熱くなった匂いだから大丈夫だよ」
「そんなこと……!」
「大丈夫だよ!」
「どうしてミナトさんが大声を出すんですか!」
「怖くないから!」
「やめて! もうやだ! 怖い! やだ……!」
同じ動きを二度、三度繰り返す。
作業を終え、火箸を土間に片付ける。
上がり框へ戻ると、クオンの拘束から解放された稔麿ちゃんは力無く座り込んでいた。
呆然と地面を見つめて、目に涙を浮かべている。彼女の背中をクオンは撫でていた。
僕は座敷に上がり、持ち手のある和鏡を彼女の前に差し出す。
幕末に来てから驚いた。
銅に鉛や錫を混ぜた和鏡は、しっかり磨き上げると綺麗に映る。
稔麿ちゃんは一言も声を出さず、こちらを見ることなく、和鏡の柄を持つ。
呆然としていた目が和鏡の中で輝いた。
「わあ……」
「ね、きれいに真っ直ぐになったでしょ」
稔麿ちゃんは僕に向けて、うんうんと頷く。
常日頃から入念に髪を整えているに違いない。
もっとも、跳ねていたのは前髪の数本だけだ。
和鏡を見つめる稔麿ちゃんは前髪を撫でた。
きゅっと唇を結び、顔の角度を変えている。
そこには志士としてではなく、一人の女の子の姿があった。
クオンは稔麿ちゃんの背後から、和鏡越しに声をかけた。
「稔麿ちゃん。今日の夕げは鱧です。食べていってください」
「ご一緒してもよろしいのですか?」
「もちろんです。昔のように一緒に食べましょう。
今日は鱧の落とし、鱧の葛たたきをお作りします。
ミナト様が七輪を出してくれたので、鱧の蒲焼きもできます」
「おいしそうですね。それでは……私は炭火の加減を一度見てきますね」
外に出ていく稔麿ちゃんの手には、しっかりと和鏡が握られていた。
しばらくの段取りの後、僕は台所に立ち、クオンが捌いた鱧に串を打っていく。
口元を緩めた稔麿ちゃんが土間に戻ってきて、蒲焼き用のタレを作る。
彼女と外に出て、タレをくぐらせた二匹の鱧を網の上に乗せる。
甘辛く香ばしい匂いが、一気に辺りに広がった。
僕は鼻から吸い上げて言う。
「はー、良い香りだね」
「はい。夏に鱧の蒲焼きは精がつきますね」
彼女は僕に目を向けた後で、手に持つ和鏡を再び見る。
「前髪……喜んでくれた?」
稔麿ちゃんはこちらに目を向け、にこりと笑う。
そして頭を下げる。西日に照らされる頬は、少し紅みを帯びていた。
「とても、とても嬉しいです。ミナトさん……ありがとうございます」
「また調子がよくなかったら言ってよ。いつでもできるからさ」
「はい……ありがとうございます」
蒸し暑くも柔らかい風が吹く。
稔麿ちゃんは焼きを見つめて微笑んだ。
「クオンさん……すごいですね」
「え? なにが?」
「鱧切りには熟練の技術が必要と聞いたことがあります。
皮一枚残し、身を壊さず、狭い間隔で何十回の包丁を入れるそうです」
「へー、そうなんだ」
鱧の脂が炭火の上に落ちて、音を立てる。
「あと二匹くらい蒲焼きにするみたいだから取ってくるね」
シャリ、シャリ。シャリ、シャリ。
土間に響くのは、魚の骨と包丁が擦れる音だ。
うっすら光る白い身に、鈍い色の刃が食い込む。
クオンが店主から勝ち取った鱧切り包丁は、静かに活躍している。
「稔麿ちゃんから聞いたよ。鱧切りって難しいんだってね」
「料理のための鍛錬は常に怠らないので」
「でも、鱧切りは初めてでしょ?」
「すべては応用なのです。
多くのことを積むと、さまざまなことが可能になります」
包丁を握り、背を丸め、顔には汗が滲んでいる。
僕は外に目を向けた。
引き戸の枠に収まるかのように、稔麿ちゃんが鱧の焼き加減と和鏡を交互に見ている。
「稔麿ちゃん……喜んでくれたみたいでよかったよ」
「女性ですから。髪型が決まれば嬉しいんです。お化粧も同様です」
「そうだね。ああやって……たまには心が和らいでくれたら僕も嬉しいよ。
国を変える志士も一人の女の子なんだよ」
シャリ、シャリ。シャリ、シャリ、シャリ。
「私の髪のことは気にしてくれませんね」
クオンの声が低くなった。
「雨の日などに悩んでいることがあっても、声をかけてくれません。
櫛で梳かすときも、手伝ってくれたことがありません」
「それは……。でもさ、普通はそんなことやらないよ。
櫛で梳かすのは自分がやるものでしょ」
シャリ、シャリ、シャリ。シャリ。
「私の髪のことはどうでもよいのですね」
「そんなこと……ないよ」
「私が銀髪だからですか。やはり黒髪がお好きなのですね。
黒髪は……純粋な子の象徴ですか」
鈍い音を立て、鱧切り包丁がまな板に突き刺さった。
「ダメです……これはダメです! ああ! もう! これはダメです!」
「お、落ち着いてよ」
「私の髪はどうでもよいのですね!?」
「そんなこと……言ってないよ」
「もうダメです……!」
まな板に刺さった包丁は引き抜かれ、彼女の鱧切りする手の動きは速くなった。
異常なほど速い。いかなる職人も及ばぬくらいに。
僕はクオンの鬼気迫る動きを見つめた。
すると、外からも少し大きい声が土間の中に入り込んでくる。
「何者ですか! 無礼な振る舞いはやめてください!」
稔麿ちゃんの声だ。
すぐに外に目を向けたが、彼女の姿はなく、見えるのは煙が上がる七輪と鱧の蒲焼きだ。
引き戸から離れ、僕の見えぬ死角にいるのか。
クオンの鱧切りの音は止まっている。
次いで聞こえてきたのは、馴染みがありつつも、あまり耳に入れたくない声だった。
「黙りな! 小娘! いったん、いったんね! 一つくらい寄越しな!」
「あまりに不躾でしょう!」
「どこがだい! 良い匂いを出しやがって! あんたらのほうが不躾だろ!
あっ! おい! こっちだ! 手を貸しな!」
その声の後だ。
大きな衝突音と共に、住まいの壁が軋んだ。
僕は駆け出す。一瞬、太い腕だけが七輪の上で動いて、串に打たれた鱧が浮かぶ。
「うらしゃあ!」
その声が耳を突く。
外に出ると、木桶などが置かれた場所に稔麿ちゃんが倒れていた。
「稔麿ちゃん、大丈夫!?」
「はい……大丈夫です。ですが……」
クオンも外へ出てくる。
僕は稔麿ちゃんの肩を支えながら、彼女が目を細めて見る先を追う。
そこには太い身体に似合わない、もの凄い速さで駆けている人の姿があった。
錦鯉のような色合いの着物は、どんどんと遠ざかっていく。
「あの者に……蒲焼きを奪われました」
――また……あの人か……。
「それは気にしなくていいよ。
でも……稔麿ちゃんほどの手練れから、どうやって?」
「浅い罠に嵌められました。
私の背後に仲間がいるような動きを見せたので、振り返った瞬間に」
「稔麿ちゃんと真っ向からやり合うのは、きびしいと考えたのか……」
「私の失態です。必ず捕らえてきます」
彼女は倒れた反動で突き出た刀を腰に戻す。
「あ、いいよ。追わなくて大丈夫。
それよりもケガは? 本当に大丈夫? どこも痛くない?」
「はい、ケガはありません。
ですが……相手は盗人です。見逃すわけにはいきません」
「うん……まあ、あの人は……そういう人だから」
「お知り合いの方ですか?」
「いや……うん、まあ……」
ひぐらしの鳴き声に混ざる自身の言葉は、歯切れが悪い。
「あの人は……篠原泰之進さんだよ。松陰先生と初めて会ったときにいた人なんだ」
目を丸くした稔麿ちゃんは、篠原さんが消えていった方向を見つめる。
「篠原……さん。もしかして……葡萄酒のお話に出てくる方ですか?」
「あ、そうそう。あの時の葡萄酒は、篠原さんが黒船から盗んだ物だよ」
それをきっかけに、僕たちは昔の出来事を語り合った。
少しだけ暑さが和らいだ夕方の風が頬を撫でる。
乾いた土の匂い。近くの民家から漂う打ち水の匂い。新たに焼き始めた蒲焼きの匂い。
どこか懐かしい感じがして、胸の辺りが温かくなっていった。
いつまでも……この日々が続いてほしいと願ってしまう。




