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散りゆく桜の真実、ぼくは未来で口づけを  作者: 陽野 幸人


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19/63

吉田稔麿 3

             *




 買ってきた品物を上がり框に並べていると、稔麿ちゃんが声をかけてきた。


「ミナトさん。先程のお話ですけど……なにをするんですか?」


 彼女は前髪を手で撫でたり、押さえたりする。


「髪が気になるなら、きれいにしてあげるよ」


 僕は台所に立つクオンに目を向けた。


 油紙をほどいた鱧切り包丁を品定めするように見ている。

その彼女に近づき、稔麿ちゃんに聞こえないように耳打ちをした。

しばらく沈黙し、肯定する言葉と同時に銀髪が揺れる。


 外に向かった僕は、軒先に置いた七輪に炭を入れ、火をつけた。


 温度が上がってきたところで、ぱちぱちと鳴る炭火の中に火箸を入れる。


 しばらく経ってから引き抜き、熱せられて少し赤黒くなった鉄をクオンに見せる。

手を翳し、僕に大体の温度を教えてくれた。

クオンは五感を研ぎ澄ませる訓練なども、施設にいた頃に受けているらしい。


 僕たちは同じ作業を何度か繰り返す。炭火の熱と夏の暑さで額に汗が浮かぶ。


「現在の温度、およそ二百度です。使用時には冷めてくるので適温であると思います」


 稔麿ちゃんは黙って僕たちのやりとりを見ていた。

男たちを撃退したときと表情が違い、眉を下げている。


 そのような彼女を促し、僕たちは家の中に戻った。


 濡れ手拭いを用意し、上がり框に座らせた稔麿ちゃんの前髪を包む。


「なにを……するんですか?」


 問いかけに反応せず、僕は火箸に付いた炭火の汚れをボロ布で拭き取る。


「な、なにをするんですか、ミナトさん」


 眉間に皺を寄せた稔麿ちゃんは、二度目の問いかけで声を大きくした。


「前髪が跳ねて気になるなら、これで真っ直ぐになるよ」


「な、なるわけありません! なにをするんですか! やめてください!」


 再び声が大きくなる。


 クオンは素早い動きで稔麿ちゃんの背後に回り、腕を拘束した。


「は、離してください! クオンさん!」


「私もミナト様の言い分に賛成です。

稔麿ちゃん、観念してください。美しいおなごになるためです」


「そ、そんなこと! 離してください!」


 身を捩る稔麿ちゃんに僕は告げる。


「大丈夫だよ。着物も皺を伸ばすでしょ。

えーと……なんて言うんだっけ、柄杓のような物に炭を入れた――」


「火熨斗(ひのし)です」


 クオンが被せて答えた。


「あ、そうそう。あれと同じだよ」


「着物と私の髪を同じにしないでください!」


「大丈夫だよ」


 彼女は目を見開いた。


「いけん……いけん……! やめてつかあさい!」


 稔麿ちゃんは潤んだ目で僕を見た。動揺のせいか、出身地の訛りが出ている。


「大丈夫、大丈夫」


「怖い! 嫌です……! 燃えてしまいます!」


 そう言って逃げ出そうとする。


 クオンは瞬時に横向きに体勢を変え、彼女の太ももに足を乗せて押さえ込む。


 僕は軽い口調で稔麿ちゃんに告げる。


「危ないから額と目に手拭いを巻くね」


「嫌です!」


 僕は稔麿ちゃんの額と目に、手拭いを重ねて巻く。


 そして、前髪を覆った濡れ手拭いを指先で伸ばし、根元近くから火箸で挟み込む。


「あっ……や、やめて! やめてください!」


「動くと危ないから!」


「どうして! どうして、ミナトさんが怒るんですか……!」


 手首と指先に力を込める。


 じゅっ……と水分の飛ぶ音がした。濡れ手拭いが少し焼ける匂いもする。


 ゆっくりと毛先のほうへ引っ張っていく。


「やめて……! 燃えてしまいます! こ、焦げ臭い!」


「濡れ手拭いが熱くなった匂いだから大丈夫だよ」


「そんなこと……!」


「大丈夫だよ!」


「どうしてミナトさんが大声を出すんですか!」


「怖くないから!」


「やめて! もうやだ! 怖い! やだ……!」


 同じ動きを二度、三度繰り返す。


 作業を終え、火箸を土間に片付ける。


 上がり框へ戻ると、クオンの拘束から解放された稔麿ちゃんは力無く座り込んでいた。


 呆然と地面を見つめて、目に涙を浮かべている。彼女の背中をクオンは撫でていた。


 僕は座敷に上がり、持ち手のある和鏡(わきょう)を彼女の前に差し出す。


 幕末に来てから驚いた。

銅に鉛や錫を混ぜた和鏡は、しっかり磨き上げると綺麗に映る。


 稔麿ちゃんは一言も声を出さず、こちらを見ることなく、和鏡の柄を持つ。


 呆然としていた目が和鏡の中で輝いた。


「わあ……」


「ね、きれいに真っ直ぐになったでしょ」


 稔麿ちゃんは僕に向けて、うんうんと頷く。


 常日頃から入念に髪を整えているに違いない。

もっとも、跳ねていたのは前髪の数本だけだ。


 和鏡を見つめる稔麿ちゃんは前髪を撫でた。

きゅっと唇を結び、顔の角度を変えている。

そこには志士としてではなく、一人の女の子の姿があった。


 クオンは稔麿ちゃんの背後から、和鏡越しに声をかけた。


「稔麿ちゃん。今日の夕げは鱧です。食べていってください」


「ご一緒してもよろしいのですか?」


「もちろんです。昔のように一緒に食べましょう。

今日は鱧の落とし、鱧の葛たたきをお作りします。

ミナト様が七輪を出してくれたので、鱧の蒲焼きもできます」


「おいしそうですね。それでは……私は炭火の加減を一度見てきますね」


 外に出ていく稔麿ちゃんの手には、しっかりと和鏡が握られていた。


 しばらくの段取りの後、僕は台所に立ち、クオンが捌いた鱧に串を打っていく。


 口元を緩めた稔麿ちゃんが土間に戻ってきて、蒲焼き用のタレを作る。

彼女と外に出て、タレをくぐらせた二匹の鱧を網の上に乗せる。


 甘辛く香ばしい匂いが、一気に辺りに広がった。


 僕は鼻から吸い上げて言う。


「はー、良い香りだね」


「はい。夏に鱧の蒲焼きは精がつきますね」


 彼女は僕に目を向けた後で、手に持つ和鏡を再び見る。


「前髪……喜んでくれた?」


 稔麿ちゃんはこちらに目を向け、にこりと笑う。

そして頭を下げる。西日に照らされる頬は、少し紅みを帯びていた。


「とても、とても嬉しいです。ミナトさん……ありがとうございます」


「また調子がよくなかったら言ってよ。いつでもできるからさ」


「はい……ありがとうございます」


 蒸し暑くも柔らかい風が吹く。


 稔麿ちゃんは焼きを見つめて微笑んだ。


「クオンさん……すごいですね」


「え? なにが?」


「鱧切りには熟練の技術が必要と聞いたことがあります。

皮一枚残し、身を壊さず、狭い間隔で何十回の包丁を入れるそうです」


「へー、そうなんだ」


 鱧の脂が炭火の上に落ちて、音を立てる。


「あと二匹くらい蒲焼きにするみたいだから取ってくるね」


 シャリ、シャリ。シャリ、シャリ。


 土間に響くのは、魚の骨と包丁が擦れる音だ。


 うっすら光る白い身に、鈍い色の刃が食い込む。


 クオンが店主から勝ち取った鱧切り包丁は、静かに活躍している。


「稔麿ちゃんから聞いたよ。鱧切りって難しいんだってね」


「料理のための鍛錬は常に怠らないので」


「でも、鱧切りは初めてでしょ?」


「すべては応用なのです。

多くのことを積むと、さまざまなことが可能になります」


 包丁を握り、背を丸め、顔には汗が滲んでいる。


 僕は外に目を向けた。

引き戸の枠に収まるかのように、稔麿ちゃんが鱧の焼き加減と和鏡を交互に見ている。


「稔麿ちゃん……喜んでくれたみたいでよかったよ」


「女性ですから。髪型が決まれば嬉しいんです。お化粧も同様です」


「そうだね。ああやって……たまには心が和らいでくれたら僕も嬉しいよ。

国を変える志士も一人の女の子なんだよ」


 シャリ、シャリ。シャリ、シャリ、シャリ。


「私の髪のことは気にしてくれませんね」


 クオンの声が低くなった。


「雨の日などに悩んでいることがあっても、声をかけてくれません。

櫛(くし)で梳かすときも、手伝ってくれたことがありません」


「それは……。でもさ、普通はそんなことやらないよ。

櫛で梳かすのは自分がやるものでしょ」


 シャリ、シャリ、シャリ。シャリ。


「私の髪のことはどうでもよいのですね」


「そんなこと……ないよ」


「私が銀髪だからですか。やはり黒髪がお好きなのですね。

黒髪は……純粋な子の象徴ですか」


 鈍い音を立て、鱧切り包丁がまな板に突き刺さった。


「ダメです……これはダメです! ああ! もう! これはダメです!」


「お、落ち着いてよ」


「私の髪はどうでもよいのですね!?」


「そんなこと……言ってないよ」


「もうダメです……!」


 まな板に刺さった包丁は引き抜かれ、彼女の鱧切りする手の動きは速くなった。


 異常なほど速い。いかなる職人も及ばぬくらいに。


 僕はクオンの鬼気迫る動きを見つめた。


 すると、外からも少し大きい声が土間の中に入り込んでくる。


「何者ですか! 無礼な振る舞いはやめてください!」


 稔麿ちゃんの声だ。

すぐに外に目を向けたが、彼女の姿はなく、見えるのは煙が上がる七輪と鱧の蒲焼きだ。


 引き戸から離れ、僕の見えぬ死角にいるのか。


 クオンの鱧切りの音は止まっている。


 次いで聞こえてきたのは、馴染みがありつつも、あまり耳に入れたくない声だった。


「黙りな! 小娘! いったん、いったんね! 一つくらい寄越しな!」


「あまりに不躾でしょう!」


「どこがだい! 良い匂いを出しやがって! あんたらのほうが不躾だろ!

あっ! おい! こっちだ! 手を貸しな!」


 その声の後だ。


 大きな衝突音と共に、住まいの壁が軋んだ。


 僕は駆け出す。一瞬、太い腕だけが七輪の上で動いて、串に打たれた鱧が浮かぶ。


「うらしゃあ!」


 その声が耳を突く。


 外に出ると、木桶などが置かれた場所に稔麿ちゃんが倒れていた。


「稔麿ちゃん、大丈夫!?」


「はい……大丈夫です。ですが……」


 クオンも外へ出てくる。

僕は稔麿ちゃんの肩を支えながら、彼女が目を細めて見る先を追う。


 そこには太い身体に似合わない、もの凄い速さで駆けている人の姿があった。

錦鯉のような色合いの着物は、どんどんと遠ざかっていく。


「あの者に……蒲焼きを奪われました」


――また……あの人か……。


「それは気にしなくていいよ。

でも……稔麿ちゃんほどの手練れから、どうやって?」


「浅い罠に嵌められました。

私の背後に仲間がいるような動きを見せたので、振り返った瞬間に」


「稔麿ちゃんと真っ向からやり合うのは、きびしいと考えたのか……」


「私の失態です。必ず捕らえてきます」


 彼女は倒れた反動で突き出た刀を腰に戻す。


「あ、いいよ。追わなくて大丈夫。

それよりもケガは? 本当に大丈夫? どこも痛くない?」


「はい、ケガはありません。

ですが……相手は盗人です。見逃すわけにはいきません」


「うん……まあ、あの人は……そういう人だから」


「お知り合いの方ですか?」


「いや……うん、まあ……」


 ひぐらしの鳴き声に混ざる自身の言葉は、歯切れが悪い。


「あの人は……篠原泰之進さんだよ。松陰先生と初めて会ったときにいた人なんだ」


 目を丸くした稔麿ちゃんは、篠原さんが消えていった方向を見つめる。


「篠原……さん。もしかして……葡萄酒のお話に出てくる方ですか?」


「あ、そうそう。あの時の葡萄酒は、篠原さんが黒船から盗んだ物だよ」


 それをきっかけに、僕たちは昔の出来事を語り合った。


 少しだけ暑さが和らいだ夕方の風が頬を撫でる。


 乾いた土の匂い。近くの民家から漂う打ち水の匂い。新たに焼き始めた蒲焼きの匂い。


 どこか懐かしい感じがして、胸の辺りが温かくなっていった。


 いつまでも……この日々が続いてほしいと願ってしまう。




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