吉田稔麿 2
損料屋から出て大通りへ戻ると、人々の足は止まっていた。
「何事やろ」
「不逞浪士や。土佐の連中やないか?」
僕の前にいる二人の会話の後で、人混みの中から怒声が聞こえた。
「今、なんちゅーた!」
さらに続けて聞こえる。
「なんじゃ、おまんは!」
立ち止まった人々は半月を描く。
その間から見えるのは、不潔感のある三人の男と顔立ちの整った娘だ。
茶屋の前で紺色の前掛けをしているから、娘は店の者だろう。
四人は鮮やかな色の緋毛氈が敷かれた床几の前で言い争っている。
「小娘! ええ度胸じゃ! 泣いて詫びても許さんぞ!」
無精髭を伸ばした男が叫ぶ。
「ほうじゃ……!
わしらが国のために血を流しゆうがに、おまんは股の一つも開けんとか!
こんの不埒もんが! あばずれが……!」
娘の袖口から露わになった白い細腕を浅黒く無骨な手が掴む。
僕とクオンは人混みを掻き分け、進んでいく。
「いやっ……! おやめやす! 離しておくれやす!」
「だまらっしゃい! わしらの相手をできるがじゃ、光栄に思いや!
ここで晒してもよかぞ! ひいひい言わしちゃるきに!」
醜悪な笑みを浮かべている。
僕たちは人を押し退けて進む。周囲からは彼らを軽蔑する声が聞こえた。
それに対し、一人の男が辺りを睨みつけて声を荒らげる。
「見るな! わしらは帝の盾じゃ……!
おまんらも邪魔するがやったら天誅を喰らわすきに!
わしら土佐の勤王を舐めたら……たたっ斬るがぜよ!」
男が刀の柄に手を掛けて周囲を威嚇すると、人々から非難の声が上がった。
ようやく人混みを抜け、僕は背後にいるクオンに告げる。
「僕が助けるから、ここで待っていて」
「私もいきます」
クオンを諭すために現場から背を向けると、争いに割り込む声がした。
「やめなさい!」
すぐに振り返ると、群衆の中から飛び出してくる人物がいた。
男たちの行動を止めたのは、女の子だ。
後ろで纏められた艷やかな黒髪が揺れる。
麻で作られた濃紺の羽織は、蝉の羽のように薄い。
皺が一つもない灰色の袴を穿いて、その後ろ姿は品がある。
彼女は臆することなく男たちの前に進む。
「なんじゃ! おまんも交わりたいがか!?」
「ええぞ! ええ女じゃ! すましとる女に限って喘ぐもんじゃ!
たまらんぞ! たっぷり鳴かせちゃるき!」
「黙りなさい! 力の弱き者にしか向かえないことを恥と思いなさい!」
強く、張りのある声だ。
「な、なんじゃち! わしらは尊皇攘夷じゃ! わしらが皇国を守っとるんじゃ!」
「ほうじゃ! 尊皇の志じゃ!」
いきり立つ男たちの顔が歪む。
なぜか鳴ってもいない鈴の音が、女の子の背から聞こえた気がする。
その場の空気が急に冷えていくようだ。蒸し暑い夏の京であるというのに。
濃紺の羽織の女の子が冷静な口調で言う。
「その言葉を次に口にすれば……ただでは済みませんよ」
「はっ! わしらは尊皇攘夷じゃき!」
一人の男が彼女に対し、怒声を浴びせる。
掴んでいた茶屋の娘の腕をぐいっと持ち上げ、血走った目を開く。
僕が駆け出そうと足に力を込めた、その時だ。
濃紺の羽織の女の子が身を沈め、前に飛び出した。
相手が刀の柄に手を掛ける間もなく、先に柄頭を押さえ込む。
同時に右手の掌底が男の顎を的確に打ち抜いた。
男の口から唾が飛び散る。
彼女は男と共に倒れそうになった茶屋の娘の腕を掴む。
間髪いれず、隣にいた男の鳩尾に蹴りを入れ、片方の足で払って地面に転がす。
「ぎえっ……」
それを見た最後の一人の男が刀を抜こうとした。
女の子はすぐに踏み込んで、間合いを潰す。
肩を掴んで引き崩し、足をかけて、相手を地面へと叩きつけた。
土と白い手に挟まれた男の顔は、酷く歪む。
一人の女の子によって、あっという間に三人の男が制圧された。
女の子は地面に叩きつけた男の左手を足裏で押さえつけ、右手を捻り上げる。
その時、彼女の横顔が見えた。
僕は一瞬息を止めて、少し固まった。
近頃は会うことが少ない。
僕とクオンがよく知っている女の子だ。
「貴方たちのような者が、気安く尊皇攘夷を口にしないでください」
「は、離さんか……! こんの腐れアマが!
わしらは土佐の勤王じゃ! 尊皇じゃ……! は、離さんか!」
「尊皇と勤王は違います。適当なことを言わないでください」
女の子は乾いた地面に草履を擦りつけた。
「口先だけの貴方たちが、私たちの想いを汚さないでください」
「わしらは尊皇攘夷じゃ! おまん……!
ただで済むと思うな! たたっ斬っちゃるがぜよ!」
取り押さえられた男の顔面に、女の子の掌底がめり込む。
だらしなく口を開け、鼻から血を滴らせる。
軽やかに立ち上がった女の子は、袴に付いた砂埃を丁寧に手で払い始めた。
「稔麿ちゃん!」
僕が足を踏み出し声をかけると、彼女は目を丸くした。
「ミナトさん。クオンさんも。お久しぶりですね」
長州藩士 吉田稔麿
松陰先生が主宰する松下村塾で共に過ごした志士だ。
松陰先生は稔麿ちゃんのことを高く評価していた。
松下村塾の門下生である高杉晋作さんや久坂玄瑞さんのことを支えてくれる、と。
彼女がいれば熱き想いは暴走することなく、道を真っ直ぐに歩ける、と。
「稔麿ちゃん、相変わらず強いね」
僕が言うと、彼女は苦笑した。
「いえ……お見苦しいところをお見せ――」
「も、もう、ころ……殺すぜよ……」
鳩尾を蹴られた男が抜刀し、宙を切って威嚇した。
それを見て、誰よりも早く飛び込んだのはクオンだ。
夏の太陽が映る白刃が振り下ろされる。
クオンは相手の刃を見切り、前に踏み込んで避ける。
男の手首を手刀で叩く。
いつの間にか風呂敷から取り出していた鱧切り包丁を男の首に押し当てる。
鱧切り包丁は油紙で包まれたままだ。
「あひっ……」
「このまま突き刺せば、あなたは死にます。
油紙を外せば、あなたの肉を鱧のように咲かせることもできます。
――どちらをお選びになりますか」
引き攣った顔の男からは、ぽたぽたと汗が滴り、地面の色を斑点模様に変えていく。
クオンは無表情だ。
両の手の埃を払う稔麿ちゃんが男たちに告げた。
「尊皇攘夷の志があると、二度と口にしないでください。
貴方たちは京にいるべきではありません。
志がないのであれば土佐に帰って、人の役に立つことをなさってください」
男たちは痛めた身体を寄せ合う。
先程の威勢がかろうじて残っているのか、声を震わせる。
「こがいなことしてタダで済むと思うとるがか!
おまんらが先に手を出しよったがぜよ!」
「黙りなさい。先に手を出したのはどちらか、考えなくともわかることです。
己を省みず、愚かな言葉を吐かないでください」
稔麿ちゃんは表情を変えず、睨みつける。
「日本で乱暴狼藉をするのであれば、私が容赦なく貴方たちの首を飛ばします。
――私たちの志を汚さないでください」
周囲の者たちから、わっと声が上がる。
「ええぞ、ええぞ! お姉ちゃん!」
「はよ帰れ! 田舎もんが! 土佐で手慰みしとったらええ!」
「花の都に泥臭いもんは要らんのやわ! 土佐に帰ってカツオでも食うとき!」
「勤王、勤王言う前に、あんたらの殿さんや!
ちゃーんと許しを得てから都へ来いや!」
絶え間ない罵詈雑言が飛び交う。
男たちは舌打ちし、目を剥いて稔麿ちゃんを睨みつける。
まだ続けるのか。眉間に皺を寄せる僕は唾を飲み込む。
けれど、憂いはすぐに解消された。彼らは互いに目を見合わせ、去っていく。
捨て台詞を吐き、足を引きずりながら。
「おケガはありませんか、ミナト様」
「うん。なにもしてないし」
茶屋の娘に何度もお礼を言われている稔麿ちゃんを横目に、クオンが僕に言う。
「あのような不逞浪士たちは偽りの「義」を盾に弱者を蹂躙します。
ここでいう弱者とは、物理的な腕力の弱さと社会的な立場の弱さのことです」
僕は小さく頷く。
クオンの言うとおりだ。悪意とは、いつでも平穏に過ごす人を壊す。
自分の欲望のためであれば、人を傷つけることを一切躊躇わない者たちがいる。
蝉の鳴き声が耳に入り込み、ちりちりとした痛みが胸の中で蠢く。
稔麿ちゃんがこちらを見て微笑み、僕たちは茶屋の店先にある横長の床几に座った。
二人に挟まれる。稔麿ちゃんが右隣で、クオンは左隣だ。
動き出した人々は、稔麿ちゃんとクオンに称賛する言葉をかけてきた。
しばらくすると、茶屋の娘がお礼として品物を床几に並べてくれた。
心太と麦湯だ。関西地方では心太に黒蜜をかける。
僕は幕末に来てから初めて心太を食べた。
全国的には酢醤油で食べることが主流であると、クオンが教えてくれた。
彼女は黒蜜で食べる京の文化が好きで、顔を綻ばせることも多い。
「クオン、おいしい?」
「はい。夏の暑さの中で喉を流れる黒蜜の心太は雅です、風流です」
「私も同感です」
そう言って、僕の右隣で麦湯を飲む稔麿ちゃんは、静かに続けた。
「萩では酢醤油ですが、京の甘い黒蜜が好きです。
これを食べたら酢醤油では食べられません」
「私も稔麿ちゃんの意見に賛成です。黒蜜こそが正義です」
この二人は昔から同じ意見になることがとても多い。
松下村塾にいた頃は、日本神話を延々と語っていた。
どの神が好きか、強いか、真剣に話していることも少なくない。
稔麿ちゃんは尊皇攘夷を掲げている。
天皇を敬い、外敵を打ち払う、という思想。
僕は幕末に来てから、肌で感じている。
一つの言葉に一つの意味があるわけではない、と。
尊皇攘夷の中には、外敵と戦うための力を取り入れる「開国派」もいる。
徳川幕府を支持する佐幕派にあっても、尊皇攘夷の考え方は当然あった。
つまり、日本全土、日本の民に存在する思想だ。
討幕派、佐幕派、開国派、勤王などの単純な構造ではなく、多くの考え方が混ざっている。
けれど、志士たちが使う尊皇攘夷という言葉は少し違う。
幕府を潰し、新たな政権を作るための標語として使っているように感じた。
僕が稔麿ちゃんに目を向けると、彼女は心太を食べる手を止め、右手で前髪を押さえた。
目を伏せた後で、こちらの様子を何度も窺う。
「なに? どうしたの?」
白い頬が少し紅くなり、返事はない上に目を合わせてくれない。
「夏の湿気と汗で前髪が乱れているのです」
そう答えたのは、心太を啜るクオンだ。
「前髪? なんにもなってなかったと思うけど」
僕は二人を交互に見る。
やや黒ずんだ心太を啜るクオンが答えてくれた。
「前髪の形を気にしているのです」
稔麿ちゃんは前髪を真っ直ぐに切り揃えている。
それが真面目な雰囲気を強調していた。
彼女を堅物と言う人もいたけれど、僕は一つも感じない。真面目で優しい女の子だ。
前髪の下にある綺麗な瞳は、昔と一つも変わっていない。
「前髪……きれいな形だったけど」
「僅かな乱れでも気になるものです。
女性とは髪型一つで、その日の調子や気分が左右されることもあるのです。
ミナト様、そういうところもしっかりと学んでください」
「そう……なんだ」
陽光によって光る心太の一本がクオンの口に吸い込まれ、桃色の唇は黒く艶を帯びる。
僕は麦湯を飲み込み、思案した。
久しぶりに会った友に、喜んでもらえることがあるかもしれない。
「ねえ、二人とも。良いことを思いついたよ」
僕たちは帰りに鱧を買ってから、京の住まいに向かった。




