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散りゆく桜の真実、ぼくは未来で口づけを  作者: 陽野 幸人


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17/63

吉田稔麿 1

 逃げ場のない蒸し暑さが着物を湿らせる。


 京の夏は相変わらずだ。


 志士たちが暗躍する世の中でも、昼間の町中は多くの人で賑わっている。


 しかし、独特の緊張感のようなものが人々の間から滲んでいた。


 耳に入る喧騒。目に映る乾笑。肌で感じる直感。


 ねっとりとした風が吹く。

その風には刃同士が触れ合う鉄の匂いが、微かに混じっている気がした。


 近頃の京は、肌を刺す感覚が特に増えている。


「ねえ、次はどこに行くの?」


 僕は野菜の入った竹籠の持ち手を握り直してから、クオンに問いかけた。


「鱧切り包丁を借りにいきます」


「専用の包丁? 普通の包丁じゃできないの?」


 彼女は少し口元を上げた。


「できません。

京の名物、鱧(はも)を捌くためには、専用包丁が必要です」


「名物……か。この時代の保存技術だと難しいよね、今は夏だし。

川魚じゃないよね、鱧って」


「はい、海に生息します。

鱧は皮膚から酸素を取り込むことが可能で、一定時間であれば生きていられます。

生命力が強く、京まで運んでも鮮度が落ちにくいのです」


 その話に感心して頷くと、前から数人の男の浪士が歩いてきた。


 睨みを利かし、肩で風を切る様は、血の気が多いことを見せつけている。


 唾を飲み込む。


 クオンは一切気にせず話を続ける。


「鱧は小骨が多いので、骨切りが必要です。

ですから、刃の長さ、重さ、厚みがある鱧切り包丁を使います」


 彼女は睨んでくる浪士たちの顔を見て言った。


 なぜ、そのようなことを。


 始まる。絡んでくる。身を引き締める。


 けれど……。


「オイも今夜は鱧にするたい。鱧は、たいぎゃうまかね」


 浪士の一人が笑みを浮かべ、クオンに言った。


「ええ。ぜひ、おいしい鱧を食べてください」


 クオンが微笑み返すと相手側も笑う。


 何事もなく、僕たちはすれ違った。


「やめなよ、クオン」


「気さくな人たちでした」


「まあ、そうだけど。でも、そっか……鱧か……まだ食べたことないや」


「ミナト様は食べたことがありますよ。お店で出されたものですけど。

鱧は栄養豊富で脂が乗り、味が濃いです。

一口食べておいしいと言っていましたが、残りは篠原さんに取られていました」


「あー、あの白身の魚か。でもさ、借りにいくって、どこに?

山南さんに借りに行くの?」


 新選組の屯所に顔を出せば、総長である山南さんが料理を教えてくれることもあった。

知識だけではなく、当時の調理法を目の前で見ることができて、クオンは嬉しいようだ。

平助ちゃんと四苦八苦しながら菓子作りする姿を見て、僕も笑顔になることが多い。


「お借りするというのは、お金を払い、お店から借りるという意味です」


「ああ、そういうところがあるんだ」


「はい。損料屋です。いろいろな物を貸してくれますよ。

この時代は火災が多いので、高価な生活用品は所有せず、必要に応じて借りるのです。

私たちは近所の人たちと貸し借りすることが多いので、損料屋には行きませんけど」


「貸してくれる物って、なにがあるの?」


「生活用品、家具などです。寝具、棚、調理器具、食器。

その他にも布団や着物もありますし、下着もあります。

男性でいうところの、ふんどしです」


「ふ、ふんどしも借りる人がいるの?」


「はい。熱による殺菌などはしません。手洗いして天日干しです」


「ええ……なんか汚いな。人と下着を共有するなんて嫌だよ」


「そうですね。私もミナト様がおじさんと下着を共有することは嫌です。嫌悪します。

おじさんの脂の臭いが、ミナト様に染みついたら大変です。

皮膚を剥がすしかないです。それでも臭うかもしれません。

科学的根拠は一切ありませんが、手拭いを共有したらハゲてしまうかもしれません」


――クオン……おじさんに偏見があるよな……。


 大通りから路地の奥へ進んでいくと、彼女の足が止まった。


 褪せた藍色の暖簾に「損料」という白文字が風に揺れている。

店先の隣には布団や座布団が日光を浴び、ふんどしなどが物干し竿に掛けられていた。


 店内に入ると、埃のような汗のような臭いが鼻を突く。


 着物、提灯、お椀、鉄鍋、さまざまな物が箱の中に並ぶ。

竹や葦(あし)で作られた日除けは、壁を隠すように立てかけてある。


 帳場には白髪頭の老人がいた。

灰になった無数の線香を突き刺したような髪型で、口元には無精髭が生えている。


 彼は口を曲げ、目を丸くして僕たちを見つめている。


 小さく頭を下げるクオンが店主に問いかけた。


「旦那さん、鱧切り包丁はございますか?」


「ええ? 包丁?」


「はい。鱧切り用の包丁をお借り――」


「お貸ししたいんは山々なんどすけどな。

うちみたいな小まい店には、異国のお人に合うような上等な刃物はおまへんのやわ。

どうか……堪忍しておくれやすう」


 謝ったときの語尾が長い。

申し訳なさそうに眉を下げる店主だが、瞳はどこか見下すような感じが見て取れた。


 クオンは店主の背後にある棚を指差す。

そこには黄ばんだ紙に包まれた品が数多く並んでいる。


「あります。そこに包丁が置かれています。

形状からするに鱧切り包丁もあります」


 その一言で、日本刀を振り上げたような緊張感が店内に張り詰める。


「へえ……まあ、包丁はあるかもしれまへんな。うちは貸し借りする店さかい」


「鱧切り包丁をお貸しください」


「いやあ……なんや困りましたなあ。異人はんには言葉が通じひんさかい。

うちは異人はんとは商売してまへんのや。お引き取りおくれやすう」


 粘り気のある言い方だ。店主は傍らに置いてあるキセルを手に取った。

ゆっくりとした動きで火を移し、葉の燃える香ばしい匂いが店の中に広がっていく。


「旦那さん、後ろに目を向けてください」


「ほんまに……難儀なおなごやなあ。鱧切り包丁なんておまへんのやわ。

その赤い、赤い、お目々はなにを見たんどすか?」


「…………。商売に必要な目が見えなくなってしまったら、懐が寒くなりますね」


 店主は目を見開いて、すぐに細目に戻る。


「クオン……やめなよ」


 僕が様子を窺いながら言うと、彼女は淡々と返してきた。


「大丈夫です。私は鱧切り包丁を借りたいだけなのです」


 キセルの煙をゆっくりと吐き出した店主が、うすら笑いを浮かべる。


「その髪のお色……歳もいってへんのに、よう真っ白になりはって、ねえ。

お目々もウサギみたいに赤うて……可哀想になあ。

せやけど、そんななりの異人はんには、よう貸せまへんわ」


 クオンの銀髪と紅い瞳は、異人であると言われることが多い。

僕たちが交友している人たちは特に言わないけれど。

攘夷を掲げる者も、関わった後であれば「異人」とは口にしない。


 しかし、町を歩けば刀を差した血の気の多い者に睨まれることもある。


 突っかかってくる者も少なからずいた。

そのようなとき、彼女は必ず言う。真っ直ぐ相手の目を見て言う。今も変わらずに。


「私は日本人です。生まれも育ちも日の本です。血も日本人です」


 空気が重い。息をすれば喉に引っかかる。


 幕末の京都人と未来から来たクオン。


 時を越える争いが始まった。


「私の血は日本人です。異国の血は一滴も入っていません」


「信じられるかいな。異人は異人や。メリケンかエゲレスか知らんけどな」


 顔を突き出した店主は、こぼれそうなほど目を開けた。


「異人に刃物なんか貸しよったら、お上や長州の連中に目をつけられるう。

厄介ごとは、まっぴらごめんどす。異人はん、堪忍しておくれやすう」


「歳を重ねると腰が抜けて、前が見えなくなるのでしょうね。

大きな者に尻尾を振り、小さな者には唾を飛ばす……これも一興ですね」


 店主は口の端だけを吊り上げ、低く笑う。


 その目の奥には、どろどろと粘った憎悪が見えるような気がした。


「ふっ……これは、えらい気性のおなごやなあ」


「はい。日本のおなごです」


「そうどすか。その髪のお色……きれいどすなあ。

いや、初めは京の冬景色かと思うたが、近くで見れば老婆の色と同じや」


――こ、こいつ……。


 前に出ようとした瞬間、クオンの細腕が僕の身体を押さえた。


「その濁った目でも色がわかるのですね。

ですが……私のことを老婆と口にするようでは、目利きができていない証です」


 店主の頬の肉が不気味なほど動く。まるで、生き物が内側にいるかのように。

何度か痰の絡んだ咳を繰り返し、彼はクオンのことをじっと見た。


「その透き通るような赤いお目々。世の中がきれいに見えてはるんでっしゃろなあ。

けど……赤い目に赤色っちゅうんは、見えないと違いますか?

そりゃ、おなごとしての自覚もないんやろなあ」


「赤といえば、今の京は血の匂いがしますね。

荒れる時勢の中で優雅に泳げず、まな板の上にすら乗れぬ鯉もいるでしょう。

泥を溜め込む鯉とは、酷く卑しいものです」


「な、なんやとお……」


 余裕を見せていた店主の態度は崩れ、片膝をついて凄む。


 歯の隙間から、じゅるっと音を立てる彼の目は鋭い。


「近頃は京の風に鉄の錆びた臭いが混じりますのや。

原因はあんたはんちゃいますか?」


 キセルを吸うと、ぷっと音が出る。店主は自身の膝を手のひらで一発叩いた。


「わてらからしたら迷惑な話や。異人に京の都は歩けはしまへん。

異人がおったらねえ……わらべも怯えて通りゃしませんわ」


 クオンの鼻から息が抜ける微かな音がした。


「三つ子の魂百まで、とはよく言ったものです。

硬い頭皮に黒蜜をかければ、心太(ところてん)のように柔らかくなるのでしょうか」


「な、なんやと……。ええ加減にさらせよ、この異人が」


 痰が絡む咳をして、店主は睨んだ。


 気にする素振りもなく、クオンは手に持っていた橙色の風呂敷を上がり框に置く。

そして、黒の帯に挟んだ桜色の巾着を取り出す。


 銅貨の穴に通した紐を解いて、その内の三十枚ほどを上がり框の上に積み重ねる。


 およそ千円といったところか。

この時代の貨幣価値は大きく変動するから、正確にはわからない。


「貸さへん、貸さへん。異人には貸さん。それに、そないな銭で元が取れるかいな」


 無言のままのクオンが銅貨を足していく。およそ六十文だ。


「へっ、銭の問題やない」


 クオンは銅貨を桜色の巾着へ戻す。


――諦めた……か。もう帰ろうよ……。


 そう思った僕の心を突き放すように、彼女は別の硬貨を取り出した。


 七千円ほどの価値がある一朱銀を一枚、上がり框にそっと置く。


 店主の視線は泳いで、板の上と店の入口を交互に見る。


「ちっ……異人は銭を見せびらかすのが好きやな。都と違って心がないわ、心が」


 口元が歪み、鼻の穴を広げ、目だけは銀貨をしっかりと見つめている。


 その時だ。クオンは素早い手の動きで一朱銀を回収し、金と銀の硬貨を並べた。


 二分金と一分銀。


 店主の反応を見ることなく、一分銀を残し、二分金を引っ込める。

一分銀は、およそ三万円。二分金は、およそ六万円。


 店主は身を翻すと、刃物置き場から大きめの包丁を取り出し、一分銀の横に並べた。


 前のめりで正座する店主の口元は緩む。


 それを見たクオンは、先程のように一分銀を巾着に戻す。

黄金色に輝く数枚の小判を巾着の口から、わざとらしく出して見せる。


 店主が目を剥く。クオンは三十文……いや、五十文ほどを置いた。


「私は金子を並べただけです。今はこの通り、通常の値段よりも色を付けました」


 目を見開いたままの店主が、クオンのことを黙って見つめる。


「物を貸せないほど私は異端でしょうか。私に貸すのは嫌ですか?

私は……汚いのでしょうか。私が触ったら使えなくなると思われているのでしょうか。

そのようなこと……私はとても悲しいです」


 クオンは両の手で顔を隠し、首を垂らした。


 その横顔。


 彼女の頬は少しだけ上がったように見える。


 ごほごほと咳き込む店主は、クオンのことをじっと見つめる。


「そないな大金を持って……あんたはん、ただもんやないな」


 クオンは息も絶え絶えに鼻水を啜る。


「後ろに……誰がおるんや」


 嗚咽が店内に響く。


 店主は歯を剥き出して、額の汗を手で何度も拭う。


 しばらくすると、深い溜め息をついた。


「負けや、負け。下手な泣き真似や。大金を見せよって」


 顔から手を離したクオンは半笑いだ。


「なんや、笑いよって。あんたはんには敵いまへんわ。

藪の中を突いて蛇がでできたら、かないまへん」


「ええ、よくご存知で。世の中とは危ういものです」


「笑うなや。なんや、その顔は。

泥水ん中を一番賢う泳ぐんは、あんたはんみたいな鯉や。底意地のわるーい鯉や」


「泥水の中を泳ぐのはあなたです、旦那さん。

私はきれいな清流を泳ぎます。これは雅です」


 表情が固まった店主は、鼻を鳴らす。


「ほんま……えげつないおなごやで。

お上や長州の前でも……言いそうや。まだまだ、この世もおもしろくなりそうやな。

ほら、持っていきな、底意地の悪い異人はん」


「ありがとうございます。底意地が悪いのは、あなたですけどね」


「どこがや」


 鱧切り包丁をクオンの前に差し出す。


 彼女は油紙に包まれた鱧切り包丁を受け取り、小さく頷き、口元を上げた。


 眉を下げる店主は苦笑し、クオンに問いかける。


「あんさん……名は」


「クオンです」


「クオンはんか。珍しい……ええ名やな」


 手に持つ橙色の風呂敷に、クオンは包丁を入れた。


 僕が暖簾を手で除けると、後ろにいる彼女は立ち止まり、店主へ別れの挨拶をした。


「また来ますね、老いぼれ。腕を磨いて待っていてください」


 その微笑みは一種の愛に満ちていた。




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