吉田稔麿 1
逃げ場のない蒸し暑さが着物を湿らせる。
京の夏は相変わらずだ。
志士たちが暗躍する世の中でも、昼間の町中は多くの人で賑わっている。
しかし、独特の緊張感のようなものが人々の間から滲んでいた。
耳に入る喧騒。目に映る乾笑。肌で感じる直感。
ねっとりとした風が吹く。
その風には刃同士が触れ合う鉄の匂いが、微かに混じっている気がした。
近頃の京は、肌を刺す感覚が特に増えている。
「ねえ、次はどこに行くの?」
僕は野菜の入った竹籠の持ち手を握り直してから、クオンに問いかけた。
「鱧切り包丁を借りにいきます」
「専用の包丁? 普通の包丁じゃできないの?」
彼女は少し口元を上げた。
「できません。
京の名物、鱧を捌くためには、専用包丁が必要です」
「名物……か。この時代の保存技術だと難しいよね、今は夏だし。
川魚じゃないよね、鱧って」
「はい、海に生息します。
鱧は皮膚から酸素を取り込むことが可能で、一定時間であれば生きていられます。
生命力が強く、京まで運んでも鮮度が落ちにくいのです」
その話に感心して頷くと、前から数人の男の浪士が歩いてきた。
睨みを利かし、肩で風を切る様は、血の気が多いことを見せつけている。
唾を飲み込む。
クオンは一切気にせず話を続ける。
「鱧は小骨が多いので、骨切りが必要です。
ですから、刃の長さ、重さ、厚みがある鱧切り包丁を使います」
彼女は睨んでくる浪士たちの顔を見て言った。
なぜ、そのようなことを。
始まる。絡んでくる。身を引き締める。
けれど……。
「オイも今夜は鱧にするたい。鱧は、たいぎゃうまかね」
浪士の一人が笑みを浮かべ、クオンに言った。
「ええ。ぜひ、おいしい鱧を食べてください」
クオンが微笑み返すと相手側も笑う。
何事もなく、僕たちはすれ違った。
「やめなよ、クオン」
「気さくな人たちでした」
「まあ、そうだけど。でも、そっか……鱧か……まだ食べたことないや」
「ミナト様は食べたことがありますよ。お店で出されたものですけど。
鱧は栄養豊富で脂が乗り、味が濃いです。
一口食べておいしいと言っていましたが、残りは篠原さんに取られていました」
「あー、あの白身の魚か。でもさ、借りにいくって、どこに?
山南さんに借りに行くの?」
新選組の屯所に顔を出せば、総長である山南さんが料理を教えてくれることもあった。
知識だけではなく、当時の調理法を目の前で見ることができて、クオンは嬉しいようだ。
平助ちゃんと四苦八苦しながら菓子作りする姿を見て、僕も笑顔になることが多い。
「お借りするというのは、お金を払い、お店から借りるという意味です」
「ああ、そういうところがあるんだ」
「はい。損料屋です。いろいろな物を貸してくれますよ。
この時代は火災が多いので、高価な生活用品は所有せず、必要に応じて借りるのです。
私たちは近所の人たちと貸し借りすることが多いので、損料屋には行きませんけど」
「貸してくれる物って、なにがあるの?」
「生活用品、家具などです。寝具、棚、調理器具、食器。
その他にも布団や着物もありますし、下着もあります。
男性でいうところの、ふんどしです」
「ふ、ふんどしも借りる人がいるの?」
「はい。熱による殺菌などはしません。手洗いして天日干しです」
「ええ……なんか汚いな。人と下着を共有するなんて嫌だよ」
「そうですね。私もミナト様がおじさんと下着を共有することは嫌です。嫌悪します。
おじさんの脂の臭いが、ミナト様に染みついたら大変です。
皮膚を剥がすしかないです。それでも臭うかもしれません。
科学的根拠は一切ありませんが、手拭いを共有したらハゲてしまうかもしれません」
――クオン……おじさんに偏見があるよな……。
大通りから路地の奥へ進んでいくと、彼女の足が止まった。
褪せた藍色の暖簾に「損料」という白文字が風に揺れている。
店先の隣には布団や座布団が日光を浴び、ふんどしなどが物干し竿に掛けられていた。
店内に入ると、埃のような汗のような臭いが鼻を突く。
着物、提灯、お椀、鉄鍋、さまざまな物が箱の中に並ぶ。
竹や葦で作られた日除けは、壁を隠すように立てかけてある。
帳場には白髪頭の老人がいた。
灰になった無数の線香を突き刺したような髪型で、口元には無精髭が生えている。
彼は口を曲げ、目を丸くして僕たちを見つめている。
小さく頭を下げるクオンが店主に問いかけた。
「旦那さん、鱧切り包丁はございますか?」
「ええ? 包丁?」
「はい。鱧切り用の包丁をお借り――」
「お貸ししたいんは山々なんどすけどな。
うちみたいな小まい店には、異国のお人に合うような上等な刃物はおまへんのやわ。
どうか……堪忍しておくれやすう」
謝ったときの語尾が長い。
申し訳なさそうに眉を下げる店主だが、瞳はどこか見下すような感じが見て取れた。
クオンは店主の背後にある棚を指差す。
そこには黄ばんだ紙に包まれた品が数多く並んでいる。
「あります。そこに包丁が置かれています。
形状からするに鱧切り包丁もあります」
その一言で、日本刀を振り上げたような緊張感が店内に張り詰める。
「へえ……まあ、包丁はあるかもしれまへんな。うちは貸し借りする店さかい」
「鱧切り包丁をお貸しください」
「いやあ……なんや困りましたなあ。異人はんには言葉が通じひんさかい。
うちは異人はんとは商売してまへんのや。お引き取りおくれやすう」
粘り気のある言い方だ。店主は傍らに置いてあるキセルを手に取った。
ゆっくりとした動きで火を移し、葉の燃える香ばしい匂いが店の中に広がっていく。
「旦那さん、後ろに目を向けてください」
「ほんまに……難儀なおなごやなあ。鱧切り包丁なんておまへんのやわ。
その赤い、赤い、お目々はなにを見たんどすか?」
「…………。商売に必要な目が見えなくなってしまったら、懐が寒くなりますね」
店主は目を見開いて、すぐに細目に戻る。
「クオン……やめなよ」
僕が様子を窺いながら言うと、彼女は淡々と返してきた。
「大丈夫です。私は鱧切り包丁を借りたいだけなのです」
キセルの煙をゆっくりと吐き出した店主が、うすら笑いを浮かべる。
「その髪のお色……歳もいってへんのに、よう真っ白になりはって、ねえ。
お目々もウサギみたいに赤うて……可哀想になあ。
せやけど、そんななりの異人はんには、よう貸せまへんわ」
クオンの銀髪と紅い瞳は、異人であると言われることが多い。
僕たちが交友している人たちは特に言わないけれど。
攘夷を掲げる者も、関わった後であれば「異人」とは口にしない。
しかし、町を歩けば刀を差した血の気の多い者に睨まれることもある。
突っかかってくる者も少なからずいた。
そのようなとき、彼女は必ず言う。真っ直ぐ相手の目を見て言う。今も変わらずに。
「私は日本人です。生まれも育ちも日の本です。血も日本人です」
空気が重い。息をすれば喉に引っかかる。
幕末の京都人と未来から来たクオン。
時を越える争いが始まった。
「私の血は日本人です。異国の血は一滴も入っていません」
「信じられるかいな。異人は異人や。メリケンかエゲレスか知らんけどな」
顔を突き出した店主は、こぼれそうなほど目を開けた。
「異人に刃物なんか貸しよったら、お上や長州の連中に目をつけられるう。
厄介ごとは、まっぴらごめんどす。異人はん、堪忍しておくれやすう」
「歳を重ねると腰が抜けて、前が見えなくなるのでしょうね。
大きな者に尻尾を振り、小さな者には唾を飛ばす……これも一興ですね」
店主は口の端だけを吊り上げ、低く笑う。
その目の奥には、どろどろと粘った憎悪が見えるような気がした。
「ふっ……これは、えらい気性のおなごやなあ」
「はい。日本のおなごです」
「そうどすか。その髪のお色……きれいどすなあ。
いや、初めは京の冬景色かと思うたが、近くで見れば老婆の色と同じや」
――こ、こいつ……。
前に出ようとした瞬間、クオンの細腕が僕の身体を押さえた。
「その濁った目でも色がわかるのですね。
ですが……私のことを老婆と口にするようでは、目利きができていない証です」
店主の頬の肉が不気味なほど動く。まるで、生き物が内側にいるかのように。
何度か痰の絡んだ咳を繰り返し、彼はクオンのことをじっと見た。
「その透き通るような赤いお目々。世の中がきれいに見えてはるんでっしゃろなあ。
けど……赤い目に赤色っちゅうんは、見えないと違いますか?
そりゃ、おなごとしての自覚もないんやろなあ」
「赤といえば、今の京は血の匂いがしますね。
荒れる時勢の中で優雅に泳げず、まな板の上にすら乗れぬ鯉もいるでしょう。
泥を溜め込む鯉とは、酷く卑しいものです」
「な、なんやとお……」
余裕を見せていた店主の態度は崩れ、片膝をついて凄む。
歯の隙間から、じゅるっと音を立てる彼の目は鋭い。
「近頃は京の風に鉄の錆びた臭いが混じりますのや。
原因はあんたはんちゃいますか?」
キセルを吸うと、ぷっと音が出る。店主は自身の膝を手のひらで一発叩いた。
「わてらからしたら迷惑な話や。異人に京の都は歩けはしまへん。
異人がおったらねえ……わらべも怯えて通りゃしませんわ」
クオンの鼻から息が抜ける微かな音がした。
「三つ子の魂百まで、とはよく言ったものです。
硬い頭皮に黒蜜をかければ、心太のように柔らかくなるのでしょうか」
「な、なんやと……。ええ加減にさらせよ、この異人が」
痰が絡む咳をして、店主は睨んだ。
気にする素振りもなく、クオンは手に持っていた橙色の風呂敷を上がり框に置く。
そして、黒の帯に挟んだ桜色の巾着を取り出す。
銅貨の穴に通した紐を解いて、その内の三十枚ほどを上がり框の上に積み重ねる。
およそ千円といったところか。
この時代の貨幣価値は大きく変動するから、正確にはわからない。
「貸さへん、貸さへん。異人には貸さん。それに、そないな銭で元が取れるかいな」
無言のままのクオンが銅貨を足していく。およそ六十文だ。
「へっ、銭の問題やない」
クオンは銅貨を桜色の巾着へ戻す。
――諦めた……か。もう帰ろうよ……。
そう思った僕の心を突き放すように、彼女は別の硬貨を取り出した。
七千円ほどの価値がある一朱銀を一枚、上がり框にそっと置く。
店主の視線は泳いで、板の上と店の入口を交互に見る。
「ちっ……異人は銭を見せびらかすのが好きやな。都と違って心がないわ、心が」
口元が歪み、鼻の穴を広げ、目だけは銀貨をしっかりと見つめている。
その時だ。クオンは素早い手の動きで一朱銀を回収し、金と銀の硬貨を並べた。
二分金と一分銀。
店主の反応を見ることなく、一分銀を残し、二分金を引っ込める。
一分銀は、およそ三万円。二分金は、およそ六万円。
店主は身を翻すと、刃物置き場から大きめの包丁を取り出し、一分銀の横に並べた。
前のめりで正座する店主の口元は緩む。
それを見たクオンは、先程のように一分銀を巾着に戻す。
黄金色に輝く数枚の小判を巾着の口から、わざとらしく出して見せる。
店主が目を剥く。クオンは三十文……いや、五十文ほどを置いた。
「私は金子を並べただけです。今はこの通り、通常の値段よりも色を付けました」
目を見開いたままの店主が、クオンのことを黙って見つめる。
「物を貸せないほど私は異端でしょうか。私に貸すのは嫌ですか?
私は……汚いのでしょうか。私が触ったら使えなくなると思われているのでしょうか。
そのようなこと……私はとても悲しいです」
クオンは両の手で顔を隠し、首を垂らした。
その横顔。
彼女の頬は少しだけ上がったように見える。
ごほごほと咳き込む店主は、クオンのことをじっと見つめる。
「そないな大金を持って……あんたはん、ただもんやないな」
クオンは息も絶え絶えに鼻水を啜る。
「後ろに……誰がおるんや」
嗚咽が店内に響く。
店主は歯を剥き出して、額の汗を手で何度も拭う。
しばらくすると、深い溜め息をついた。
「負けや、負け。下手な泣き真似や。大金を見せよって」
顔から手を離したクオンは半笑いだ。
「なんや、笑いよって。あんたはんには敵いまへんわ。
藪の中を突いて蛇がでできたら、かないまへん」
「ええ、よくご存知で。世の中とは危ういものです」
「笑うなや。なんや、その顔は。
泥水ん中を一番賢う泳ぐんは、あんたはんみたいな鯉や。底意地のわるーい鯉や」
「泥水の中を泳ぐのはあなたです、旦那さん。
私はきれいな清流を泳ぎます。これは雅です」
表情が固まった店主は、鼻を鳴らす。
「ほんま……えげつないおなごやで。
お上や長州の前でも……言いそうや。まだまだ、この世もおもしろくなりそうやな。
ほら、持っていきな、底意地の悪い異人はん」
「ありがとうございます。底意地が悪いのは、あなたですけどね」
「どこがや」
鱧切り包丁をクオンの前に差し出す。
彼女は油紙に包まれた鱧切り包丁を受け取り、小さく頷き、口元を上げた。
眉を下げる店主は苦笑し、クオンに問いかける。
「あんさん……名は」
「クオンです」
「クオンはんか。珍しい……ええ名やな」
手に持つ橙色の風呂敷に、クオンは包丁を入れた。
僕が暖簾を手で除けると、後ろにいる彼女は立ち止まり、店主へ別れの挨拶をした。
「また来ますね、老いぼれ。腕を磨いて待っていてください」
その微笑みは一種の愛に満ちていた。




