芹沢鴨 5
*
枕を高くして眠る。どのようなときも変わらない。
己の苦悩も葛藤も生きていることの証なのだから。
外からは雨が泣き喚く。泥水が生まれていく。私の子守唄にはちょうどいい。
湿った香りは猛る心を包み込むわけもなく、嘲笑うように抑えつけてくる。
近くの寝床からは怪しげな物音がした。
聞こえるか、聞こえないか、くぐもった声がする。
耳を澄ませば、廊下から微かな人の気配がした。それは必然だ。
――待っていたよ。
数刻前に島原の角屋で酒をたらふく飲んだ。
料理も酒も格別な場所だというのに近藤、山南の顔というのは酷く重苦しかった。
千両役者とは言わないが、もう少し真面目に演じてくれないと、こちらも張り合いがない。
――物音の方向からして平山は……やられたか。
雨は地面と瓦を激しく叩く。足裏と板が張りついては離れる音がする。
布団の上で寝転び、瞼は閉じたまま。私の呼吸は寝息より小さい。
隣に置いていた徳利を手探りで探し、酒を口に流し込む。
すうっと障子が音を立てた。気配は二人。どうやら最少の人数で会いに来たようだ。
「遅いねえ……」
私の声で侵入者たちの足は止まる。閉じていた瞼を開き、暗闇の中で相手を探す。
素早く身を翻すと同時に、私を喰らうつもりだった二刀が布団と畳を突き刺す。
刺客は引き抜いた刀を正眼に構え直した。
「さあ、誰が来たんだい」
よもや雑魚ということはないだろう。そればっかりは御免だ。
「ほら、答えな」
そう問いかけると、人の叫び声と駆け回る足音が聞こえてきた。
「ひい……! ぎい! な、なんなんだ……!」
隣の襖をぶち破り、私の寝床に突っ込んできた女は抜刀している。
別の座敷で寝ていた平間だ。次いで新たな二人が勢いよく駆け込んでくる。
平間は刀を構えたまま、声を震わせ叫ぶ。
「芹沢先生! ご無事ですか!? し、刺客です! 平山は!?」
「さっきやられたよ」
「そ、そんな……!」
四人の刺客は正面に移動する。私と平間も並んで、相手と向かい合う。
うっすらと顔が見える。知りたかった。誰が来たのか。
確かめるために声を出そうとした瞬間だ。
青白い稲妻が走り、刺客の顔が浮かび上がる。
それは私の感情を強く刺激する者たちだった。
「ああ……そうか。いいねえ……余計なのが一人いるけど」
四人は声を出さない。ひたすらに息を殺し、こちらの様子を窺っている。
刃は動かず、踏み込んでこない。何を悩む必要があるというのか。
「あんたら。密命をしっかり果たさないと後ろ盾が無くなるよ」
時だけが進み、雨の香りが寝床を満たし、一つの動きもない。
左手に携えていた刀を強く握る。溜め息を吐き出し、鼻から大きく息を吸いこむ。
「武士なら戦う前に名乗りな、この恥知らずが。
百姓のままでいいのかい。戦うときは己の名を背負え」
「せ、芹沢先生。百姓って……も、もしかして、この刺客……」
平間は言い淀み、鋒を跳ね上げる。
向かい側で刀を構える者たちから、ずずっと畳を擦る音がした。
「壬生浪士組、副長。土方歳三」
「壬生浪士組、副長助勤。沖田総司です」
「副長助勤の原田左之助だ……!」
野茨のように鋭い声。穏やかに鞠をつくような声。
荒削りな木刀で雑に打ち合うような声。
どれも馴染みのある声で口元が緩む。
「お、お前ら……! な、仲間を裏切るのか!」
叫ぶ平間を私は制し、最後の一人の声を待つ。
「あっ……み、壬生浪士組! え、えっと――」
血の匂いには相応しくない、緊張感に欠ける声だ。
いつも屯所内で大声で話すものだから、すっかり耳に貼り付いている。
昼間聞いたバカ騒ぎを思い出してしまう。
「ふ、副長助勤! 藤堂平助です……!」
「はあ……平助なんて連れてくるなよ。まだ私とやるには早い」
悪態をついた私に、副長の土方が返事をする。
「最適な人選だ」
「はっ……そうかねえ。斎藤、永倉、山南も連れてくれば、もっと愉しめたのに」
「さすがですね、芹沢さん。私がいるというのに」
これから起こる斬り合いの場とは相反する、総司の笑い声がした。
「せ、芹沢先生!」
私の名を何度も呼ぶ平間の声も変わっていない。
昔からどこに行くにしても付いてくる。
詰め腹を切った新見や先に襲われた平山もそうだった。
外から入り込んでくる少し冷たい風は、良い匂いを届けてくれる。
平間が威嚇のために刀で宙を切り裂くと、端にいた平助が飛び込んでくる。
私は手に持っていた酒を落とし、納刀したまま平助の刃を鍔元で受け止める。
すぐに切り返した鞘の先を鳩尾に叩き込む。
終わりだと思った。
しかし……。
平助の刃が死角から振り抜かれ、頬の肉を抉り取った。
間髪いれず引き戻された刃で、首元の皮までも斬られる。
――いいねえ……。
鋭い突きを鞘で落とす。
身体を捻じり、平助の腹めがけて蹴りを入れる。
小さく細い身体は障子を突き破り、庭へ転がった。
悶絶する声が屋敷の中にも聞こえてくる。奇しくも昼間と同じだ。
鼻には血の匂いが入る。濡れた頬に指を当てると、ぬるりとする感触が伝わった。
私は隣にいる平間に言う。
「あんたは逃げな」
「そ、そのようなこと……!」
会話の間に斬撃を繰り出したのは土方だった。
その荒い斬撃は相手を斬るというより、叩き割るかのようだ。
鞘で受太刀すると、次は左之助が斬りかかってきた。
半身で避ける。
土方の刀を上に押し上げ、すかさず左之助の膝を鞘で思いきり打ちつける。
二人は怒声と共にすぐに離れる。左之助の動きは今の一撃で潰せただろう。
私は愛刀の柄に手を掛け、ゆっくりと引き抜く。
「平間、私に付き合う必要はない。さっさと行きな」
「し、しかし……!」
「足手まといだって言ってんのさ。あんたのことも斬ってしまうかもねえ」
「芹沢……先生……」
いつも笑顔で後を付いてくる平間だ。今はどのような表情をしているのか。
「行きな、平間」
「芹沢先生……!」
彼女は暗闇の中で身を落とし、左右に身体を振って転がる。
待ち伏せている者がいるかもしれない雨の中へ飛び出す。
ぬかるみを駆けていく音と共に、鋼の打ち合う音が一度だけした。
しばらく動けぬはずの平助が、何とか一刀を浴びせようとしたのだろう。
「左之助! 追え……!」
「はいよ……!」
土方の指示で左之助が雨の中に消えていく。
目の前には荒ぶる剣を振るう土方歳三。
誰もが見惚れるような技を持つ沖田総司。
これ以上の相手はいないだろう。
己の及ばぬこと。己が選んだこと。己が探したこと。
それを託すには……申し分ない。
空気をゆっくりと横一文字に切り裂く。
二人は動かない。互いの呼吸が重なっていく。
私は鼻から息を吸い上げる。
「尽忠報国の士。壬生浪士組、筆頭局長……芹沢鴨」
土方が声を上げる。
「やっ!」
突きが喉元に迫った。斬撃をいなすと、総司も刃を繰り出す。
限界まで身を反らすと、鋭い突きが顎先を掠める。
土方の脇腹を蹴飛ばし、総司の肩に柄頭を打ち込み、突き飛ばす。
再び間合いが離れる。私は宙に息をぶつけた。
「それでいいのかい」
「なにがだ」
「剣に迷いがあるねえ」
私が言うと、土方の少し低い声がした。
「芹沢……なにがあったんだ」
「会津から聞いてないのかい」
「あんたの所業に目を瞑ることはできない。
即刻、壬生浪士組から芹沢一派を消せ……とだけ」
「所業ねえ……」
「あんたを暗殺できないなら……会津藩は手を引く、と」
「脅されたもんだから怖くなったんだろ、松平容保公は」
「どういうことだ」
「怖気づいて成すべきことを成さない、飾りだけのやつら。
見せかけだけ。口先だけ。座るだけ。
そんなやつらは、いつでも寝首を掻くと言ってやったのさ」
「やりすぎだ……芹沢」
「どこが。力のある者こそ、やるべきことがある。
まあ……結局、私の思ったように動いた会津は、田舎もんのタヌキだねえ」
返事はない。足裏の少し浮く音がする。
「いちいち迷うな。前に教えただろ。
立ちはだかる者が親だとしても、友だとしても斬れ。迷いこそ無礼と知れ」
左一文字で斬りつけると、土方は受太刀し、私の後方へ総司が抜けた。
鍔迫り合い。背後から鋭い突きが迫る。
身を翻し避け、離れ際に土方の顔を殴りつけると、総司の斬撃が首に迫った。
皮一枚……裂かれる。
攻めては受けられ、受けては攻めた。
一人に斬りかかれば、必ず一人の斬撃がくる。
言葉なく、無我夢中で斬り合う。
私に致命傷こそ無いが皮膚は裂かれ、肉は削がれる。
戦いの愉悦を繰り返している、その時だった。
屏風が足に引っ掛かる。
平間が来た方向とは反対の襖を突き破ってしまう。
倒れ込んだ先に、八木家の男の子がいた。酷く怯えた目をしていることがわかる。
背後から刃の気配が迫った。
――ちっ……。
刀が己の腰辺りに刺さった瞬間、身を横に逸らす。
私の身体から抜いた刃を総司が構え直す。
血の付いた手で、私は男の子の黒髪を撫でる。
「母上のところに……行っていなさい」
小さく頷いた男の子は、先の見えぬ闇夜に消えていく。
振り返った瞬間に土方の斬撃が足の肉を抉った。
私は刀を振り回し、飛び跳ねて離れた二人の方向へ足を引きずっていく。
対面する二人の表情は窺えない。
「総司……そのままでいい。これからも美しい刃を振るいな」
「気づくのが遅れて……申し訳ありません」
「どうして謝るのさ。総司の突きは相変わらず鋭いねえ」
「あなたらしい……ですね」
「はっ……人のことをわかったふうに語るな」
「私はあなたのことを見てきましたから。
壬生浪士組を作って、私たちを率いてくれました。
その背中……出会った頃から今まで、忘れていませんよ」
「作った……か。そうだ、松平容保公に伝えておいた。
筆頭局長の私が消えれば……壬生浪士組は名を改めることになる。
――これからは新しい名で戦いな」
腹の辺りが重く、少し熱い。
肉から出ていく血は着流しを濡らし、足を伝い、畳へ染み込んでいく。
「土方、あんたは……戦い方が野蛮なんだよ。
斬り方が美しくない、雑だ。まあ、それも悪くはないけどねえ。
最後に……これからのために言っとくか」
「なんだ」
「副長として頭を支えてあげな。
近藤ちゃんは人が良すぎるし、上のもんの顔色を気にしすぎる。
キツネやタヌキから無理やり毒を飲まされるようなら、あんたが盃を蹴飛ばしてやれ」
「ああ……わかってる」
伝えないといけないことがある。それは山のようにあるけれど、時は無い。
しかし、一つだけ。たった一つだけ。
不穏な風が吹くことを伝えねばならない。
京の都で蠢く妖しげな女。暗い路地に身を潜める女。
私に近づき、いらぬことを吹聴する下卑た者のことを伝えねばならない。
「闇に潜む……ボロボロの物乞いには気をつけな。
あれは……ただもんじゃない。
毒花だ。壬生浪士組の根を腐らせにくるぞ」
「物乞い……か。誰だ、そいつは」
土方はこういう話に敏感だ。
伝えるには誰よりも適任だが、念には念を入れて、数日前、山南にも話しておいた。
「さあね、詳しくはわからない。ただ……名乗らないから、私が名付けておいたよ」
「なんという名だ」
「黒き物乞い」
「黒き……物乞い」
「本当は私が始末しておくべき相手だったけど……あんたらに任せるよ」
呼吸は荒い。額に汗が滲む。言葉を出すことも苦しい。
愛刀を畳に突き刺し、柄を握る手には力が入らない。
「土方、総司。天下に……その名を轟かせろ。
人からの声で歩みを止めるな。己の決めた道から目を背けるな。
いいかい……逃げるなよ。
どんなことになろうと……己の血が尽きるまで戦いな」
流れる血が多すぎた。目眩がして畳に刺した刀に身を預ける。
瞼は戦いの前の静けさに近づいていく。
「芹沢筆頭局長。すまない。あんたのしてきたことは……わかってる」
「芹沢さん……いえ、芹沢筆頭局長。
あなたが壬生浪士組の筆頭局長でよかったです」
――相変わらず……ね。多摩のバカども……は。
同じ組織に身を置いて、同じ釜の飯を食った。
けれど……。
互いに譲れないものがあった。
相容れないものがあった。
しかし、憎かったわけではない。
決して……憎かったわけではない。
最後の力を振り絞り、畳に転がる徳利を拾う。
身体を曲げれば、唸り声が自然と出てしまう。
僅かに残った数滴の酒で口を潤し、畳から刀を抜いて前に突き出す。
鋒は揺れている。
――さあ、最期まで愉しませな。
踏み込もうとした瞬間だ。闇夜の中を駆けてくる音がした。
低い姿勢から泥水を跳ね飛ばし、雨に濡れた刃がぎらりと光った。
――昼間とは違うようだねえ。
火箸で皮を削ぎ取るような感覚が胸に走る。
すぐに熱くなった。何かが身体の中で弾け、じんわりと広がっていく。
胸元には鍔と柄が見える。その下にあるのは細い腕だ。
私を貫いてくれたのは……平助の刃だった。
喉奥から込み上げてくる鉄の味。
口から少し漏れた血を飲み込み、平助の頭に手を置く。
「平助は……少し落ち着いて暮らしな。
ケンカばっかりしてると……また蹴り飛ばすからねえ」
「せ、芹沢さん……」
「さあ……新しい道を見つけな。遠慮なく……かかってこい。
――壬生浪士組、筆頭局長の芹沢鴨が相手を……してやる」
もはや、何も見えない。
正面に向けて、最後の白刃を振り上げる。
胸から刀が引き抜かれた。
鋭さを欠く私の刃が宙を切った、その刹那。
三本の刃が私を突き刺す。
身体に溜まっていた想いが外へ吹き出す。
何度も振るってきた己の刃は畳の上に落ちる。
――ああ……少し、少しだけ。仲間のためになれたのかな。
――みんなで……進んで行きな。




