芹沢鴨 4
*
「ミナト様、寒くはありませんか?」
僕の右隣に座るクオンが言った。
「うん、大丈夫だよ。クオンは?」
「私も大丈夫です」
薬を売りに来た八木邸で煎茶と羊羹を貰い、クオンと共に縁側で食す。
壬生浪士組は八木家を屯所にしている。
京の治安維持を任され、後に佐幕派でもっとも有名になる新選組。
その前身の組織だ。
芹沢さんに出会ってから、僕とクオンは幹部の人たちとも懇意にしていた。
「雅ですね、ミナト様」
「え、なにが?」
「漆器の美しい朱色に羊羹が乗る。
そして黒文字の爽やかで甘い香り……雅です」
「黒文字って、なに?」
「ミナト様が持つ楊枝の名称です。クスノキ科の植物です」
桃色の着物を纏うクオンは微笑み、羊羹の甘さを堪能していく。
改良を重ねた物が美味しいとは限らない。僕たちは身をもって実感している。
その時代にある食材、調理器具、食器、火加減、作り手、食べる場所。
さまざまな要素が重なり合い、美味しい物へと昇華させている。
羊羹を口に含むクオンは、瞼を閉じた。
意識を味覚と嗅覚に集中していることが横顔から見て取れる。
僕は口元を緩め、その様子を見た。
すると、右手にある廊下の板を踏みつける音が響く。
さらに硝子細工を割るような声が縁側に轟いた。
「ひょひょーい! いただきい……!」
軽い身のこなしの女の子が、転がるようにクオンの前を駆け抜ける。
僕の前も通過して、浅緑の袖と灰色の袴の裾が揺れた。
真ん中で分けられた黒髪は、頬の辺りで揃えられている。
壬生浪士組 副長助勤。
後の新選組 八番組 組長。
藤堂平助
幼さを顔に残し、悪戯な笑みを浮かべている。
どこか気品があるようにも見受けられるが、行動自体は子どものそれと同じだった。
指先にはクオンの漆器から奪い取った羊羹を挟んでいる。
「平助ちゃん。返してください。それは私の――」
クオンが言いかけると、平助ちゃんは二、三切れの羊羹をすべて口に放り込んだ。
「おいしー! あまーい! 甘いよー!」
彼女は頬に手を当て、ばたばたと木の板を足裏で踏みつける。
「…………。その羊羹は私のものです。今すぐ返してください」
「もうないよー! クオンが早く食べないのが悪いんだよー! ほら、ほらー!」
「返してください……!」
「ひゃっほ! 取れるもんなら取ってみなよー!」
大口を開けた平助ちゃんは、腹の辺りをぱんぱんと叩く。
「羊羹……私の羊羹……」
クオンは胸の前で握りこぶしを震わせ、顔を伏せた。
この二人は菓子の件で喧嘩することが多い。
また始まるのかと思った僕は息を抜いて、クオンに羊羹を向けた。
「これあげるから、そんなに――」
「ミナトくん! ありがとっ! もっと食べたかったのー!」
平助ちゃんは僕の漆器から羊羹を摘み上げると、口へ放り込み雑に咀嚼した。
それを見たクオンが固まる。まるで、大切なものを失ったかのように。
「平助ちゃん。あなたの行いは万死に値します」
鉄の香りが鼻に入った気がする。ただの言葉だけだというのに。
黒文字の爽やかな香りも、和菓子の濃い甘さも彼方へ消えていく。
「やめなよ、クオン。平助ちゃんはふざけているだけで――」
「壬生浪士組、副長助勤の藤堂平助。
屯所内の隊士が駆けつけるまでに制圧します」
独り言のように呟く。彼女の白い頬は紅くなっているように見えた。
「やめなって。そんなに怒らなくてもいいじゃん」
「ダメです! 私にも貫かねばいけないことがあります!」
クオンは立ち上がって、平助ちゃんを睨んだ。
僕も立ち上がり、二人の間に入る。
「待って、ダメだって。新しいの買ってくるから」
「そういう問題ではありません……!
私は八木家のみなさんから、おもてなしとして羊羹をいただいたのです!
それにミナト様が私に分けてくれようとした羊羹も食べられてしまいました……!
許せません……! 人の道から外れてはいけません!」
――お、大げさだな……。
「クオンちゃーん! いいねー! 私とやるの?
よーし! 恨みっこなしのケンカをしよう!」
腰を落とし、鯉口を切る平助ちゃんは、にやりとした。
「あなたには私の羊羹に謝ってもらいます! どこからでもかかってきなさい!」
「わー、こわーい! クーオン! クーオン!
クオン……! あばずれー! うつけものー!」
クオンの動きは止まった。
胸の辺りにあった腕は静かに下りて、指先も動いていない。
「その腐った心を……ここで断ち切ります!」
「返り討ちにしてやるよっ!」
止められない。二人とも止まらなかった。
平助ちゃんが抜刀する。
クオンは彼女から目を離さずに、懐に手を入れた。
白い手拭いを取り出し、金子の入った赤い巾着袋を包む。
それをくるくると回しながら、腰を落として戦闘態勢に入る。
じりじりとした威圧感。互いの視線に一分の隙もない。
この場を収められる人……土方さん、山南さん。
もしくは幹部の誰かを呼びに行かなくては。
二人は睨み合い、間合いを測る。
僕が平助ちゃんの背後に視線を移すと、いつの間にか廊下に人影があった。
一切の音もなく、ゆっくりと迫ってくる。
いた。止められる人が。誰よりも適した人がいる。
けれど……。
急に身が震えた。息が止まる。廊下が威圧感で支配された。
平助ちゃんも殺気に気づき、振り返って刀を構えた瞬間だった。
「どけ……」
皮膚が裂けるような音の後に、打撃が加わる鈍い音がした。
平助ちゃんは縁側から八木邸の中庭に吹き飛ぶ。
身を捩らせた拍子に低木へ激突してもなお、頭と脇腹を押さえて転げ回る。
「平助ちゃん……!」
叫んだクオンが悶絶している彼女の元へ素足のまま駆け寄り、背中をさする。
平助ちゃんもクオンに身を預け、肩の辺りの着物に皺が寄るほど、強く掴んだ。
「こんなところで刀を抜くな」
そう言ったのは、平助ちゃんの頭を鉄扇で叩き、脇腹を蹴飛ばした芹沢さんだ。
今日は普段と違って、黒い紋付きの羽織に、綺麗な折り目の灰色の袴を穿いている。
「ミナトさん、薬は売れたかい?」
「えっと……はい。壬生浪士組の方も、近所の方もたくさん買ってくれました」
「へえ、そうかい。それなら私も分け前がほしいねえ」
上目遣いでこちらを少し睨む。僕は身を反らす。
今日は虫の居所が悪いのだろうか。
正装をしているところを見ると、会津藩の陣屋に出向いた帰りなのかもしれない。
「ねえ、ミナトさん。少し分けてくれてもいいんじゃない」
「今は……手持ちが……」
芹沢さんは僕の曖昧な返答に背を向け、障子を勢いよく横に動かす。
畳を踏みしめ、進んだ先にある襖を開けて中に入った。
中からは衣擦れの音が微かに聞こえる。
しばらくすると、深紅の着流し姿の芹沢さんが現れた。帯はだらしなく緩んでいる。
乱雑な足運びで畳に摩擦を与え、どかっと座った。
右手の鉄扇で肩を叩き、左手には酒屋の名が入る通い徳利を持っている。
徳利を傾け、喉を鳴らし、僕のことを半目で見た。
「ねえ、ミナトさん。薬を売りに来て手持ちがないなんて道理はないよねえ」
――やっぱり怒ってる……いつもより怒ってる!
「路銀のこともあるので……他にも使い道が――」
「冗談だよ、冗談。ミナトさんから巻き上げるなんて真似はしないさ」
笑みを浮かべる口元からは酒が滴る。
崩れた衿元から胸の谷間が覗き、乱れた裾からは白い素足が露わになっていた。
しかし……僕は知っている。彼女は乱れた着物で常にいるわけではない。
公の場へ出向くときは誰よりも綺麗な正装で、所作をとても大切にしている。
気品ある女性であり、粗雑な女性だ。
荒れているときは怖いけれど、理不尽に何かをすることは決してない。
酒を飲むことも味が好きで飲んでいるわけではないと、僕は勝手に思っている。
「いきなり平助ちゃんを蹴るとは、どういうおつもりですか」
クオンが平助ちゃんを縁側に寝かせて、芹沢さんに詰め寄った。
「あー、クオンさん。元気かい?」
「元気です。お答えください。どういうおつもりですか」
――やめなよ……クオン。今日の芹沢さん、すごく怒ってるよ。
視線による心の声はクオンに届かない。
芹沢さんが真新しい畳を鉄扇で叩き、拍子を刻んだ。
「ここは八木家に借りている屯所さ。
家の中で刀を抜くな、無礼だろ。稽古するなら庭でやりな」
――それは、そのとおりだ。
菓子による争いから一転し、八木邸には新たな火種が燻っていた。
いや……すでに開戦の狼煙は上がっている。
「芹沢さんのおっしゃるとおりです。私たちが軽率でした。申し訳ございません。
ですが、それは口で言えば済む話です」
「はっ……いちいち、これはダメ、あれはダメなんて教えるのかい。
言われないとわからないの?」
「一度は言ったほうがよいです」
「言ったこともあるし、言わないときもある。今日の私はやってみせたんだよ。
上のもんとして、下のもんに分別をわからせたのさ。
組織は上がいて成り立つ。下のもんが上のもんの邪魔をするなんてことはよくないねえ」
「上も下も必要です。組織というものは全ての人によって作られるものです。
下を蔑ろにすれば、土台から崩れます。そのような考えでは組織は崩壊します」
「あるんだよ、クオンさん。組織には替えのきかないものが、さ。
それに下には下の在り方があって、上には上の示し方があるんだ」
「ご自身のことを言っておられるのですか。それは傲慢というものです」
「さらに上は腐っていたりもするさ。
それに……傲慢であるからこそ欺瞞を見破ることもできるけどねえ」
顎先まで垂れる真っ黒な髪をかき上げて笑う。
彼女が膝を立てると、筋肉が程よく付いた白い太ももが露わになる。
僕はぎょっとして目を逸らした。
「あ、ミナトさん。見たね?」
心の臓の音が高まり、顔は瞬時に熱を帯びる。
それとは対照的な冷たい声が廊下に響く。
「ミナト様、見ないでください。
芹沢さん、あなたは下品です。肌襦袢も腰巻きも付けずに屯所内を歩くなど」
「水戸にいた頃は重ねろと言われていたけどねえ。
クオンさんの純粋さを見ると……少し壊したくなるよ」
「今の酒に酔った状態で私を斬り殺せるのは六分です。とても高いとは言えません」
――あ、煽らないで……よ。
「強気だねえ……枕席でもそんな感じなの?」
「そ、その発言も下品です!」
「動揺してるねえ。
あ、そうだ。二人から貰った月の物の薬……ほら、なんだっけ」
芹沢さんは僕に向けて小首を傾げた。
「紅月破獄丹です」
「そうだ、それ。あれはいいよ。あっという間に効くし、痛みも薄れる。
おなごから人気があるのも頷けるねえ」
「今日も多くの人が買ってくれました」
「そうかい。あ……滋養の薬もよかった。
あれを塗ると身体が熱くなって、よく効いてねえ」
それを聞いたクオンが一歩前に踏み出す。
「滋養の薬は塗るものではありません。飲み薬です」
「立派な器に漆塗り、黙する小さき口に紅を挿し、濡れてしまえば宵に吹く。
私のような工芸品には塗り物が必要だよねえ」
くすくすと笑う。
崩れた着流しから見える鎖骨を指で掻き、首を前に垂らす。
荒れているようで、どこか沈んでいるような雰囲気もある。
僕は気になっていた。
先程の行動も普段と違っている。
身内に対し、横暴なことをするのは見たことがない。
やはり何かあったのだろうか。
笑いながら酒を飲む芹沢さんに、眉間に皺を寄せたクオンが返す。
「それは雅に見せかけた、ただの下品な言葉です。
よく人前でそのようなことが言えたものです」
「あー、酒が入るとさ溶けていくの。止まらなくなるんだよねえ。
クオンさんは、どうしようもなく熱くなることはないのかい」
「あ、ありません……よ!」
「なに……その反応。あ、もしかして……まだ男を知らないの?」
「な、なんなんですか……! そ、そんなこと芹沢さんに関係ありません!」
畳に足を擦りつけ、一歩前に出る。
酒を煽った芹沢さんは、ごほごほと何度もむせた。
「そんなに……怒るもんじゃないよ。相変わらず、かわいい娘さんだねえ」
小さく、小さく、首を振るクオンが返す。
「あなたは水戸藩士として水戸学を学んだ。
ですが、勤王の士である人の振る舞いには見えません」
「勤王の士……かあ。クオンさんに……なにがわかるの?」
「理不尽な暴力に身勝手な金策。とても武士であるとは思えません」
鉄扇を開いた芹沢さんは、酒で火照った身体を冷やすように周囲の風を乱す。
「不逞な者たちに金を流す者がいるなら叩くまで。
それに……金も必要。二兎を追った先に二兎が倒れていただけさ」
「確固たる証拠があったのですか」
「もちろんさ」
芹沢さんは大きく息を吐く。
「金が無いんじゃ人は生きていけない。
組織に人も集まらない。組織を強くするには金が必要だ。
会津は金を出し渋る。なら、集めるしかないね。
そして……壬生浪士組はもっと大きくなるんだよ」
「賢明な行いとは思えません。
押し入り金を奪う、恨まれるだけではありませんか」
「そうだよ。いいの、いいの。恨まれてこそだ。
恨まれた分だけ……それが養分となるのさ。
木は森になる。森は山となる。そして……海へと繋がる」
芹沢さんは紅潮した頬を指先で撫でて、ゆっくりと立ち上がった。
僕の目の前に立つと、少し首を傾げ、舌先を唇に滑らせる。
大人の女性が発する強い色気に見惚れていると、急に強く抱きしめられた。
「な、なにをしているんですか!」
クオンが怒鳴った。
それとは対極の肌の温もりと、着物越しに柔らかい感触が伝わってくる。
「少し抱きしめただけだろ、騒ぐなよ。いいねえ……ミナトさん」
身体は離れ、目の前にあるのは艷やかな表情だ。
首に腕を回され、再び互いの肉体が触れ合う。
酒の匂いと甘い香りが鼻に入る。首に触れる体温と脈動は猛っていた。
「は、離れてください……! ミナト様も……!
ダメです! それはダメです!」
「うるさい、うるさい。クオンさんは雛人形だねえ、情欲の味を知らぬ。
踏み出して溺れることも、時には大事さ。
きれいな飾りでいたいなら……ミナトさんから離れたほうがいいんじゃない」
「あなたが離れてください! 早く……!」
クオンの手は僕たちの間に入ろうとするが、同時に芹沢さんの力も強くなった。
首筋に大きな吸気が伝わり、彼女の顔が埋まる。
「ミナトさん。初めて会ったときから不思議な感じがしたんだよねえ。
なにかを秘めている人だ、ってね。だから、興味があった。
その胸の中にあるもの……いつか出せたらいいねえ」
温かみのある声だった。
甘い香り。肌の熱。柔らかい感触。
激しく流れる血と、ゆっくりと流れる血が混ざり合う。
なぜか……目の辺りがじんわりと熱を帯びた。
あふれ出しそうな涙を抑え込む。歯を食いしばり、目を瞑る。
今もなお止めるクオンに、芹沢さんは声を向ける。
「クオンさんは……桜をどう感じる?」
「ミナト様から離れてください。桜は美しい日本の花であると思います」
「よくないねえ。ありふれた言葉だ」
「早く離れてください。なにが言いたいのですか」
「私はさ……桜という花に憧れがあるのかもねえ」
彼女の深い溜め息は、着物の衿元から背中を這う。ぞくぞくと身体が震える。
「桜は散るから美しい。散らぬことを知らぬ桜は醜い。
散り際を知らぬ、腐った桜など見るに堪えない」
芹沢さんは明瞭な口調に変わっていた。
「人とは己で咲くものだ。他人に生かされる者は、ただの穀潰し。
己で考えもしない者は生きているとは言えない。
したり顔で生きているつもりなど、傍ら痛い。
人の生き死に。その道を見出さないと……ね」
首筋に柔らかい唇が触れる。僕の耳たぶを喰むような声が聞こえた。
「お二人とも、末永く……佳き時を」
僕から離れた芹沢さんは、縁側で横たわる平助ちゃんの腰辺りを足先で突っつく。
「悪かったね、平助。あとで好きなもん買ってやるから、それで許して」
脇腹を押さえた平助ちゃんは涙目だ。
「お団子……十本は食べたいです。ぜんざいも饅頭も同じくらい。
あっ……! 天ぷらのうどんも食べたいですっ!」
「好きにしなよ。明日は無理だから、行くなら今からにしな」
芹沢さんは縁側から顔を出し、頭上に広がる灰色の空を見つめた。
「今宵……雨の中の交わりは愉しみねえ」
そう言って、鉄扇が音を立てて開く。
そこには芹沢さんの六文字の信念が刻まれている。
尽忠報国之士。
急に黒くなってきた空。
大地を潤す雨がぽつぽつと降り、湿った土の匂いが僕たちの元へ届く。
芹沢さんは首を回し、その横顔が微かに見えた。
口元は緩やかに上がっている。
白い指先でゆっくり、ゆっくりと頬と首を撫でていた。




