芹沢鴨 3
*
頼りない灯りの提灯を手にして、湿り気を帯びた夜道をクオンと駆けていく。
「クオン、大丈夫? 少し休む?」
「大丈夫です。急ぎましょう」
虫の声を遮る甲高い音が空気を突き破っていく。
カンカン! カンカン!
火災を知らせる等間隔の半鐘だ。
それを塗り潰すように、前方の櫓からは新たな音が次々と押し寄せてくる。
カンカンカン! カンカンカン!
現場に近くなればなるほど音の間隔は短くなった。
町人に危険を知らせようと、番人が手を休めずに乱打しているのだろう。
夏の夜風に焦げた匂いが交わる。
息をのむ。足の指には草履が食い込む。
僕たちが現場に到着すると、そこには暗闇とは対極の燃え盛る炎が空を焦がしていた。
夕方に見た、大和屋が燃えている。
近くには塀を背にする見物人が多くいた。
逃げ惑う素振りはなく、どこか嬉々としているようにも見える。
枝木を折るような火が爆ぜる音。膨れる餅のように煙が上がり、夜空を隠している。
息を整えていると、炎に照らされた地面に座る者が僕に声をかけてきた。
「おーい、ミナトさん」
芹沢鴨さんだ。
彼女の前方、少し離れたところに小袖に袴姿の数人の男性が立っている。
おそらく壬生浪士組の者たちだろう。
対面には三人の男がいる。
壬生浪士組の面々が腰に差した刀をすっと抜く。
向かい側に立つ三人の男たちも、真似するように抜刀する。
その三人の男たちの後ろに、身を小さくする男性がいた。
はっきりとは見えないけれど、初老男性……大和屋の主人のようだ。
僕は息を吐き出し、クオンと共に芹沢さんに向かって小走りで近づく。
「芹沢さん」
僕が隣に立つと、彼女はうなだれた。
「ああー、ミナトさん、遅いねえ。まあ……まだ、おもしろいところだから」
通い徳利の酒を喉に流す芹沢さんは立ち上がり、足元はふらつく。
彼女の味方である壬生浪士組の面々は、向かいにいる者たちと今も睨み合っていた。
大和屋の主人の護衛だろうか。彼らがじりっと草履を鳴らす。
壬生浪士組の男たちは、その動きを見逃さず、隊士の一人が芹沢さんに声をかけた。
「芹沢先生、お下がりください」
そう告げられた彼女は肩を震わせて笑う。
「私がやりにきたんだ。でしゃばるなよ」
「いや……しかし……」
「いいから。あんたらも中に入って、土蔵から金子と生糸を取り返してこい。
徹底的に壊して……もっと、もっと火をつけろ」
「しかし――」
「いいから、早く行け」
男たちは背筋を伸ばした。
前にいる敵を睨みつつ、燃え盛る大和屋に向かって走り出す。
それを止めようとした大和屋の主人は、隊士の一人の袖口を掴む。
けれど、剣術で鍛えたであろう屈強な腕によって、いとも簡単に突き飛ばされてしまう。
芹沢さんの前には三人の抜刀した男たちが残る。
彼らが隊士たちを止めなかったのは、芹沢さんが睨みを利かしていたからだろう。
芹沢さんは薄ら笑いを浮かべる。
「先に言っておくよ。
私に刀を向けておいて……命乞いなんて真似はするなよ、冷めるから」
「な、なんだ、おらあ……! 食らわすぞ!」
一人の男が唾を飛ばし、叫んだ。
「はあ……。いいのかい、大和屋。
あんたが雇っている雑魚なんて、私の肴にもならないけど」
「せ、芹沢様! 芹沢様……! 堪忍しておくれやす!」
大和屋主人の懇願を無視する彼女は、ふらふらと揺れて僕の身体にもたれかかる。
「だ、大丈夫ですか?」
「ああ、悪いねえ。少し……飲みすぎてねえ」
芹沢さんの大きな目は半分ほどしか開いていない。
僕の首と肩の間に頭を預けて、息を吐きながら瞼を閉じる。
その瞬間だった。
男の雄叫びと共に、振り上げられた刃に炎が映り込む。
「うらあ!」
こちらに向けて駆け出す姿に全身の毛穴が開く。
芹沢さんの首が小さく動いた。
迫ってくる刀を一瞥すらしない。
左足で大きく踏み込み、上段から斬りかかってくる相手の鳩尾に左肘をめり込ませた。
「ぐっええ……」
男は苦悶の表情で身体を折る。
芹沢さんは相手の右手首を捻り、刀の棟を蹴飛ばして地面へ落とす。
左手に持っていた通い徳利を宙に投げる。それは僕の腕の中にすっぽりと収まった。
彼女は男の荒れた総髪を鷲掴みにして、顔を上げさせた。
首の皮膚が伸びる。無精髭が生える肌は、炎と汗で光った。
芹沢さんが総髪から手を離した、その刹那。
彼女は左手で鯉口を切り、逆手で抜かれた刀が男の首を斬り裂く。
いとも簡単に。一つも躊躇することなく。豆腐を切るかのように。
ぱっくりと肉が割れる。あふれ出す血は彼の着物に染み込んでいく。
「お、おらあ……!」
それを見た男の一人が刀を振り上げ、突っ込んでくる。
芹沢さんは刀から手を離し、空中で持ち替える。
男の斬撃を半身で躱し、地面に鋒が刺さった。
芹沢さんの血に濡れた刃は、男の左肩口から腹まで真っ直ぐに斬り裂く。
さらに相手を蹴飛ばして、正眼で構えていた最後の男へ近づいていく。
「ほら、きなよ。抜いたからには最後までやれ」
男は口を尖らせ、鋒を震わせている。何度も、何度も、しきりに刀の柄を握り直す。
僕は息をのむ。瞬きは多く、呼吸は浅い。全身の血が不規則に走り回るかのようだ。
目を逸らすことはできない。
先程の芹沢さんは酩酊しているとは思えないほどの動きを見せていた。
しかし、一度、間が空けば、酒に酔っているせいで足元がおぼつかない。
「ほら。こないのかい? それなら――」
大きく踏み込む。彼女の刀は相手の物打ちの辺りを絡め取る。
ずっ、という音がした。
後ろに体勢を崩した男の首に刃が貫通する。ウナギを捌くときの目打ちのように。
血が鍔元まで伝って、ぽたぽたと地面に落ちていく。
地面には血溜まりと三人の亡骸がある。
僕は唾を飲み込み、佇むことしかできない。今までも人の死は見たことがある。
人によっては、それだけで強い恐怖を感じるかもしれない。
しかし、僕の内側からあふれる恐れというのは、おそらく別のものだ。
大和屋の主人は、眼球がこぼれ落ちそうなほど目を剥く。
声を殺し、腰を抜かし、手を突き出し、あれほど大事だと言っていた着物は地面を擦る。
芹沢さんは三人の亡骸を品定めするかのように見た。
一人の袖口を掴み、刀に付いた生温かいであろう血を滑らせるように拭う。
綺麗な所作で納刀し、ゆっくりとした足取りで僕に近づいてきた。
無言で左手を向けられて、僕は腕に抱えていた通い徳利を震える手で渡す。
「なにか……言いたそうだねえ」
彼女は重そうに瞼を開けたり閉じたりして、口元を上げた。
「いえ……」
「いいよ、言ってみな。薬売りのミナトさんのことを……斬ったりはしないさ」
息を吸い込むと、クオンが僕と芹沢さんの間に入った。
「ミナト様に近づかないでください」
「近寄ったっていいだろ」
大和屋の火の勢いは風に煽られ増している。
夏の蒸し暑さに加えて、炎が燃え盛る。身体からは汗がどんどんと流れていく。
急に多くの足音がした。十人。数十人。
横に目を向ければ、半纏を着て、頭巾を被る多くの者たちが駆けてきた。
半纏に水を吸わせているのだろう。動く度に雫が垂れる。
手には斧や長い棒の先に鉤が付いた得物を持っている。
頭領らしき初老の男が背後の者たちへ采配を振るい、大声で火を消す段取りを指示した。
その様子を見た大和屋の主人は、膝が抜けているような歪な動きで駆け出す。
両の手を合わせて叫んだ。
「はよ! はよしてえな……!」
「わかっとる! 邪魔や! 下がっとれ!」
「金……! 金ならなんぼでも払いますさかいに!」
必死に頼んでいるその姿を嘲笑う者がいた。
「おーい、火消しども。大和屋には手を出すなよ」
芹沢さんの口元からは酒が滴り、乱暴に袖口で拭う。
「ワシらは火消しや。火を消すんがワシらの務めや」
頭領は三人の亡骸に目を向けると、眉根を寄せて口を引き結ぶ。
芹沢さんが通い徳利の飲み口を彼に向ける。
「いいかい。あんたらの仕事は、この火を外に出さぬこと。
大和屋は広いし、隣とも太めの道を挟んでいる。
今の段階なら周りに水をかけて、ここを壊せば広がらないだろ」
「お見受けしたとこ……あんさん、壬生浪士組の芹沢鴨はんやな。
おたくはんの若い衆に……火の場へ急ぐ道を塞がれましてな。
いったい、どういうおつもりですのやろ」
「そのままだよ、邪魔したんだ。だから、よく燃えてるだろ」
「あんさん――」
「私の言うとおりにしろ。
逆らうなら、あんたらもそこに転がっているやつらみたいになるよ」
火消しの者たちの草鞋がずずっと鳴る。それは前にではなく後ろへ。
「大和屋はすべて燃やす。決して……他の家は巻き添えにするなよ、火消しども」
炎によって木が崩れる轟音が門の奥からした。
頭領は地面に視線を落とし、首を横に振る。
「どのみち……この火の勢いや。大和屋は燃やし尽くすしかおまへん」
「そ、そない殺生な! ワ、ワシの店を――」
大和屋の主人の声は無視された。
火消しの者たちは各自配置について、延焼させないための破壊活動を始める。
家屋の屋根に上った頭領は、悲壮な顔つきで采配を振るう。
焼けていく屋敷を呆然と見ることしかできない、大和屋の主人。
芹沢さんは屋敷から運び出される無数の箱を見つめ、愉快そうに笑っていた。
「で、ミナトさん。なにか言いたいことはあるかい」
木の焦げる臭いと生々しい微かな血の臭いが、鼻から肺の奥まで入ってくる。
「火をつけた本当の経緯は知りませんけど……。
近所にまで燃え移ったら大変なことになりますよ」
「大丈夫さ、ここの敷地は広い。土蔵を先に壊してから燃やし始めたしね」
「それでも……ここまでやるのは」
通い徳利を傾けた芹沢さんは咳き込む。
「あいつは舐めてかかってきたからねえ。そういうやつは、どんどんとつけ上がる。
相手が大人しくしていると、いくらでもやっていいと調子に乗るバカはどこにでもいる。
そんなら徹底的にやるまでよ。勘違いしたバカどもに思い知らせる必要があるのさ。
ミナトさんもそうは思わないかい?」
「そういう人は……確かにいます」
「そんならやらないといけないねえ。
心をへし折ってやるか、しっかり殺すかの二つじゃないかい」
「二つに一つではない……かと」
「いや、早いほうがいい。迷わずに、すぐに戦えばいい。
歩みを止めれば……笑いも止まってしまうのさ。
それにさ、この大和屋があったら、ろくなことにならない」
「どういうことですか?」
「ここの蔵には日本の生糸が大量に眠っているんだよ」
芹沢さんは気怠そうに頭を垂らす。
「農民から安く買い叩いて、どこの誰とも知らない相手に売る。
異国の連中は、日本の生糸を高く買うらしいからねえ」
僕は門に目を向ける。
壬生浪士組の隊士たちは箱を二人組で運び、次々と荷車に積み込む。
「そんなことをやられたら、日本はどうなると思う?」
「国内で出回らないから、日本人が必要とする生糸は高くなります」
「御名答。日本の民が殺されるのは、こういう薄汚いやつらのせいでもあるのさ」
彼女の口調は、酒に酔っているとは思えないほど明瞭になっていた。
炎で光る彼女の瞳を見て、僕は問いかける。
「そうは言っても……異国との勝手な貿易は死罪になりますよね」
「しっかり手を回してんのさ。役人に金を渡して咎められないように。
商人と役人がつるんで民を苦しめている。国を売っているのさ、こいつらは」
屋敷が炭になっていく。膝をつく大和屋の主人は、それをただ見つめる。
その後ろ姿を眺めて、芹沢さんは酒を飲む。
「私はクズかもしれないけど、外道ではないと思うんだよねえ」
額に滲む汗を手で拭えば、黒い灰が点々と付いた。
「ミナトさん。あの後、子どもに団子を買ってあげたんじゃないか?」
「え? はい……買いました……けど」
「ここに来る途中、あの子が路地に転がってたよ」
急激に汗が引くような感じがした。鼻から吸い込む空気は薄い。
燃えたぎる火のせいなのか、事実を身体が拒んでいるのか。
「大方、大和屋がこいつらを使ったんだろうねえ」
彼女は地面に伏せる三人の亡骸を一瞥した。
「それは……本当なんですか? だって、着物が……着物が汚れただけですよ」
「着物は商売のための飾り。
それを汚された、己の面子を潰された、ってところだろ。外道の商人がやりがちなことだ。
商人ごときであっても気に食わなければ、相手を殺すのさ。
人を使って殺し、露見しそうなら役人に金を忍ばせる」
大和屋の主人は相変わらず屋敷の方を見ている。
「刺客らしきやつは私にも一人付いてきた。
途中で斬ってやろうかと思ったけど……偶然、うちの近藤ちゃんが来てしまってねえ。
あの人がいたら、やりづらいのよ。
ミナトさんのところにも付いてきたんじゃないか?」
何もなかった。そう言い切れるほど簡単ではない。
隣にいるクオンに目を向けると、彼女は小さく頷き答えた。
「誰かが後を付けているのはわかったので……人混みを利用して撒きました。
私のことを異人と思い、付いてきている者だと思ったので……」
「ほらねえ。大和屋は私らのこともやるつもりだったのさ」
「あの……男の子は、どうなったんですか」
「死んだよ」
夏の夜に燃え盛る炎とは対照的な冷たい言葉だった。
「ただ……まあ、私の言ったことを少しは理解していたのかねえ。
あの子、手に棒切れを握っていたよ。刀相手に一人で戦ったんじゃないか。
大事そうに団子を抱えてねえ」
頭を掴まれて、地面に叩きつけられるかのようだ。
あの後、僕たちは男の子の妹のために出来合いの薬を渡した。
クオンは妹の身体を診ることを約束し、適切な薬を作る段取りもしていた。
そして、僕は茶屋に彼を連れて行った。
『好きな物を選んでいいよ。家族の分も買っていってあげて』
彼の涙は止まり、別れ際、僕に満面の笑みを向けてくれた。
『おおきに! にいやん! おハルもえろう喜びます!
このつぎ、きっとお礼しますさかい!』
家族と食べる団子と饅頭を嬉しそうに腕の中に抱え、彼は夕暮れの中に走り出す。
『人にぶつからないように、ゆっくりね』
『うん!』
兄として妹のために駆けていた。
あの男の子の笑顔は……もう二度と見られない。
斜め前の塀が火消しの数人によって、激しい音を立てて引き剥がされていく。
「そんなやつらは多くいるのさ。
誰も役に立たない。誰も止めない。誰もが見て見ぬ振り。
話し合いなんてのは意味がない。そんならやることは一つだ」
僕は一つの言葉も返せない。
「殺せばいい。壊して、燃やして、消してやればいい。
その時には力を持つ組織が必要だ。
誰もが平伏す力。それさえあれば……壊すことができる」
芹沢さんは、おぼつかない足取りで前に進んでいく。
いまだ狼狽えている大和屋の主人の背を強く蹴り飛ばした。
「だから……私は壬生浪士組を作ったのさ」
振り返った顔。燃え盛る炎が彼女のことを鮮やかに照らしている。
深紅の着流しが一層の深みを増しているように見えた。
息を止めていたことに……僕は後で気がついた。




