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散りゆく桜の真実、ぼくは未来で口づけを  作者: 陽野 幸人


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芹沢鴨 2

             *




 ひぐらしの鳴き声に混じって聞こえたのは、男性の大声だった。


 夏の京は蒸し暑い。

夕暮れとはいえ、日中の熱をいまだ帯びている。


 僕とクオンが角を曲がると、町中(まちなか)にしては珍しい、大きな屋敷があった。


 その長い門前に大人と子どもが佇む。


 高そうな小豆色の着物を纏う初老男性、斑点模様の茶色い着物を纏う小さい男の子だ。


 親子……そのようには見えない。

初老男性は自身の太もも辺りを指差して、小さい男の子に何かを言っている。


 二人に近づいていく。背中の行商箪笥が音を立てて揺れる。


 不意に土が湿る心地よい香りがした。

彼らが立つ反対側にある店先で、下を向く老婆がのんびりと打ち水をしている。


 初老男性と男の子の会話が聞こえてきた。


「えらいこと……してくれはりましたなあ」


「か、かんにんしておくれやす」


「謝って済むなら首は斬られへんのや。お番所もいらん。

目が後ろに付いとるんかいな。そんなら見世物小屋にでも入りよったらええんちゃうか」


「か、かんにん……かんにんしておくれやす」


「はよ、親のとこ案内せい。ぎょうさん金子を用意させえ。

売れるもんは無さそうやけど、お前はんの家に娘はおるんか?」


 白髪頭の初老男性は顔を歪め、ずいぶんと粘った言い方をする。


 彼の背後には普通の暖簾とは違って、横に長い藍染めの布が張られている。

大和屋、と白く太く抜かれた文字。

他の店とは格式が違うのだということがわかる。


「すみません、どうされたんですか?」


 僕が初老男性に声をかけると、彼は口を曲げて溜め息混じりに言った。


「どうもこうもおまへんわな。ワシの極上の着物に蜜をつけたんや。

こんな汚いもんには、一生かかっても払いきれん値打ちもんどっせ」


 そう言った初老男性の太もも辺りを見れば、少し光沢のある汚れが付いていた。

足元には砂まみれの、みたらし団子が二本転がっている。


「か、かんにん……しておくれやす……」


 小さい男の子は何度も頭を下げる。

おそらく十歳にも満たない……七歳ほどだろうか。


 涙を浮かべて、身を丸めている。


 助けたい。今すぐにでも助けたい。その痛みを持ってあげたかった。


 けれど……。


 僕たちは揉め事の発端を目撃していない。


「お前はん、それが人に詫びる態度かいな。

詫びるんなら、地面に頭を擦りつけて泣いてみい」


 瞼を閉じた初老男性は腕を組む。


「ほんまにえげつない。泣いて詫びるのが筋っちゅうもんや。ほら、泣いてみい。

それから家のもんのとこに行くさかい、まずは泣いてみい。さっさと泣いてみい」


 そう言って、団子を無惨に踏みつける。


「だ、団子……」


 男の子は潰される団子を見て、小さな声を漏らした。


「んん? なんや? 団子がなんや? それがどないしたんや?」


 捩じ切るかのように団子を踏み続ける。


「やめてくださいよ」


 僕が言うと、初老男性は下駄の裏を見て、わざとらしく嘆く。


「ああ……ワシの上等な下駄にも団子が付いたやないか。

ほんまに、どないしてくれはるんや……高うつくで、これは」


 その様子を見たクオンが、冷静かつ丁寧な口調で割って入る。


「下駄が汚れたのは、あなたがしたことです。この子は一つも悪くありません。

何でも人のせいにしないでください」


「なんや、娘はん。そんな言い草は、お天道様が許しまへんで。

元はと言えば、この小僧が悪いんやろ。

全部や。ぜーんぶ、この小僧の仕業や。お天道様がよう見てはります」


 白髪頭をぼりぼりと掻いて、小豆色の着物の肩は白く染まった。


 少しだけ前に出るクオンは無表情だ。


「お天道様ですか。

日本の太陽神である天照大御神様は、あなたの行いを許すのでしょうか」


「なんやと……」


 クオンに詰め寄ろうとした初老男性の前に僕が立つ。


 しばらくの対峙。しばらくの牽制。しばらくの沈黙。


 クオンは男の子に目線を合わせて尋ねる。


「どうしてぶつかってしまったのですか?

本当にあなたが悪いのですか? 怖がらなくて大丈夫ですよ」


 男の子は目を伏せて、言葉が途切れながらも答えた。


「せんりょうやのてつだいしたら駄賃……もろうて。

そんで妹のおハルに団子を……はよう、とどけとうて。

おハル、病でねこんでるさかい。

こうぶつの団子を食べたら、ようなるかなって、それで……」


 団子を包んでもらうことなく、両の手に持ち、妹と一緒に食べようと駆けていたのか。

病の妹が少しでも良くなれば、と。


「そうですか……それで急いでいて、ぶつかってしまったのですか?」


「かけとったら、だんなさんに……ぶつかってしもて。ほんで、お着物を……」


「はっ……なにが団子や。

団子で病がようなるかいな。ほんまに知恵が足らん。

甘いもんで病がようなるんなら医者はいらへんのや。

団子やない、医者や、医者……!」


 どこにでもいる。己が正しいと思い込み、主張を通そうとする者が。

偉そうに言う者ほど恥を知らず、気づかない。


 昔、松下村塾で僕は松陰先生たちに言った。

中身の無い者ほど大きく、よく吠える、と。


 頭の中が釣鐘の空洞と同じだ。


「そないなこともわからへんのかい。

そない浅ましい考えやさかい、妹も早うお迎えが来るんとちゃうか。

小汚いネズミの口が減れば、世の中の米はよう回るんや」


 僕は足の親指に力を込めて、前に踏み出す。


「もうやめてください。

小さい子が落ち度を謝っているのに、そこまで言う必要があるんですか。

それに……あなたもよそ見をしていたんじゃないですか?」


「なんや……あんさん、ワシが悪い言うんかい」


「背後から付けられたわけじゃないなら、僕はそう思います。

正面の太ももに汚れが付いているということが疑問です」


 その言葉に、初老男性は目を見開いた。


「な、なんや! ワシは悪うない! 全部、この小汚い小僧のせいや!」


「この通りの道幅は十分にあります。曲がり角の出合い頭でもない。

もしかして……あなたが、この子の正面に出たんじゃないですか?」


 目を見開いたままの初老男性は、歯を剥き出しにした。


 僕は小さく溜め息をつく。


「睨まないでください」


「なんや、見とるだけや。見とる分にはタダやろ」


 しばらく見合っていると、初老男性の顔から、ふっと力が抜けた。

そして男の子に目を向けて、にやりと笑みを浮かべる。


「よう覚えとき。世の中は恐ろしいもんどす。

ワシを怒らせて、ただで済むと思うたら大間違いや。

お前はんだけやない。その妹も親兄弟も。

みんなまとめて、きっちり借りを返させてもらうさかいにな。

釣りはいらん、楽しみにしとき」


 彼は再び団子を踏みつけた。下駄の裏から砂にまみれた団子が飛び出す。


――こいつ……。


 身体を震わせた男の子の目から、堪えていたであろう涙があふれた。


 もう抑えられない。抑える必要がない。


 病の妹のために買った団子が踏み潰されている。男の子の心を潰したことと同じだ。

先に原因があったとて許される行いではない。


 僕は行商箪笥を地面に下ろす。


「そんなに人のことをいたぶりたいなら、僕とやりましょう」


 彼に詰め寄ろうとした瞬間だ。


 柔らかい感触が首と肩に伝わり、僕はすぐに左隣を見た。

肩を組んできたのは見知らぬ女性だ。甘い香りと……酒の匂いがする。


 そして……身が震えて、唾を飲み込む。


 ただ者ではない。身に纏う雰囲気が一般人とは違う。


 女性は僕に構わず、初老男性に向けて顎をしゃくった。


「よお、大和屋の主人。今の言葉はあんたにも通じるよねえ」


 すっきりとした顎に、鼻筋も綺麗に通っている。身に纏うのは派手な深紅の着流し。

左右に分けた黒い髪の片方は耳に掛かり、もう片方は顎先まで垂れている。


 肩を組んできた女性の腕に体重をかけられて、僕の身体は僅かに揺れた。

視線を下に向ければ、女性の腰には立派な黒い大小が差してある。

左手には麻紐がぐるぐると巻かれ、その先には白い通い徳利があった。


「な、なんの御用でおまっしゃろ……」


 初老男性は目を見開いて、身を引いている。先程の威勢がまったくない。


「ああ? なんの用ってどういうこと?」


「い、いや……」


 彼の瞬きは明らかに多くなっているし、何度も口を開いたり閉じたりする。


「世の中は恐ろしいもんって、さっき言ってたよねえ」


「え、いやあ……どうでっしゃろ」


「それに……きっちり借りを返させてもらう、か」


 女性はゆっくりとした瞬きを繰り返し、通い徳利の飲み口を潤いのある唇に付けた。


 顎を上に向け、徳利を傾ける。粗雑でありながらも、どこか美しさのある所作だ。


 酒を首筋に滴らせる女性は、不敵に笑った。


「あんたがしていることは、世の中の恐ろしさってやつを表しているのかい?」


 萎れた初老男性は愛想笑いを浮かべて、白髪頭を掻くだけで返事をしない。


 涙を流す男の子もクオンも女性を見つめている。


「あんたが……不逞な連中に金を流してんのはわかってんだよ」


「な、なんのお話どすやろか。ワシらは……お上の掟通りにさせてもろてます。

ま、真っ当な商人(あきんど)どすさかい」


 女性の深紅の着流しは衿元が乱れている。

そこから覗く胸元の白い肌を汗がうっすらと濡らしていた。


「へえ、あんたは散々人のことを罵っておいて、己のしている悪さは隠すのか。

そんなやつが人に対して偉そうに言えるのかい」


 彼女が動くたび、身体に人肌の柔らかさが伝わる。

僕が口をすぼめると、クオンはこちらを黙って睨みつけた。

普段であれば女性に触れた瞬間に怒鳴ってくる。

けれど、今は男の子の隣から離れないために黙っているのか。


 どうにも居心地が悪くなって地面を見ると、踏まれた団子には無数の蟻がたかっていた。


 身体を揺らす女性はへらへらと笑うが、一切の穏やかさがない。


 僕たちの場は、言い表せない威圧感に包まれていた。


「不逞浪士に流す金子があるならさ、私にも貸しなよ。

なあに、少しでいい。少しでいいから用立ててよ」


「いやあ……そ、それは……」


「なんで萎れてんのさ。萎れてんのは、あんたの小茄子だけにしなよ。

子ども相手にはずいぶんと威勢がよかったんだから。

さっきのままでいい、そのほうが早く済む」


「そ、そのようなことは……」


「不逞浪士に揉み手するなら、私にできない理由はないよねえ。

私には金を貸せないって、そういうこと?

女だから? 女の武士は舐めてもいいってか?

それとも……私は長州の連中以下ってことかい?」


「め、滅相もおまへん!」


 脂汗をかく初老男性は、胸の前で両の手をすり合わせ始めた。


「おいくらほどの……ご所望でっしゃろか」


「ああ、とりあえず四千両」


――よ、四千両!?


 僕は身体を少し引いて、女性の横顔を見つめる。


 簡単に言ってのける女性は本気なのだろうか。

五億円ほどの大金を口約束で借りようとしている。

この大和屋には、それほどの資金があるのだろうか。


 愛想笑いを続ける初老男性。しかし……頬の肉はびくびくと動いている。


 僕は男性の嘘くさい笑顔の後ろにある暖簾をあらためて見た。


 思考の中に、すとんと何かが落ちる。


 大和屋という店の名。


 もしかして……生糸などの問屋なのか。


 隣の女性は初老男性を大和屋の主人と呼んでいる。


 確信はない。ないけれど……ここが例の大和屋なのだろうか。


「四千て……そ、そないな大金は、どだい――」


「無いとは言わせないよ。

あんたがしていることは、うちの者に調べさせた。

なあに、借りるだけ。借りるだけだから別に問題ないだろ?」


 鼻の穴を広げた初老男性は視線を泳がせて、決して女性の方は見ない。

額にはねっとりとした汗が垂れて、手で何度も拭っている。


「あ……あの実は……倅(せがれ)がえらい大病患うとって。

はよ……はよ、お薬を届けなならんのです」


「あんた、倅いたっけ?」


「いやあ、その……養子を」


「まあ、いいや。行っちゃうのか……それでいいのかい?」


「ええ、そ、そのお話は……また日をあらためて。

後日っちゅうことで、なにとぞ……」


 大和屋の主人は背を向けて、暖簾に手をかけた。


 その背中に向けて女性は声を張る。


「おい、大和屋。てめえで吐いた言葉は飲み込むなよ。

さっきの言葉は、そのまま私が返してやる。世の中は恐ろしいものなんだろ」


 大和屋の主人の肩が上がる。

静かに振り返る彼は眉を下げて、口角を上げて、何とも言えない顔をした。


 隣から続く声は変わらない。


「私が直々に来て頼んだのに断ったんだ。

あんたが言うように、借りは返させてもらうからねえ。

――忘れんなよ、意気地なしの守銭奴が」


 大和屋の主人は鼻水を長く吸い上げ、軽く頭を下げて歩き始めた。


 女性が肩から腕を外したから、僕は暖簾を手で分けて、中の様子を窺う。


 主人は入口付近にいた三人の男性に、何やら話しかけている。

彼らは帯刀していて、その内の一人は僕をじろりと睨む。

どこか怪しげな雰囲気だ。相手から殺気のようなものが滲む。

身体が少し強張ったけれど、背後からの声によって無理やり意識を引き戻された。


「ねえ、これは? なにを売ってるんだい」


 先程の女性は、僕が地面に置いた行商箪笥を見ている。


「あ……薬売りをしています」


「へー。いいのある? 気持ち良くなる薬とか興奮するようなやつ」


「いえ……そういうのは」


「じゃあ、滋養の薬とかあるかい?」


「それならありますよ」


「あ、そうだ。月の物に効く薬ある?

私がいた藩では甲字湯(こうじとう)ってのがあってさ。あれはなかなかに効いたよ」


「はい、ありますよ」


「なんていう薬なの?」


「紅月破獄丹(こうげつはごくたん)です」


 クオンが名付けた薬の名称は、女性の顔を歪ませる。


「それ……効くのかい?」


「はい。すぐに痛みが引くそうです。みなさん、何度も買ってくれますよ」


 行商箪笥から取り出した二つの薬を彼女に渡す。

女性は紙に包まれた薬の裏表を交互に見た後で、僕に問いかけた。


「あんたさ、あのジジイのことやるつもりだったの?」


「え?」


「私が肩を組まなかったら、あいつのこと殺してたのかって。

殺気は出てなかったけど、普通に殺すようにも見えたよ」


「いえ……そんなつもりは。あまりに酷いことを言うので止めようとはしましたけど」


 女性は手で口元を隠して笑った。

その後で通い徳利を傾け、酒をごくごくと喉に流す。


「相手を殺す覚悟がない。殺される覚悟がない。

それなら面倒なことに首を突っ込まないほうがいいねえ」


「殺すって……そこまでしなくても。止めることはできますよ」


「やるなら半殺しか、殺しなよ。舐められたら終わりだよ」


「それは――」


「甘いねえ。そんなんじゃ、なにもできないよ」


 彼女は三歩ほど下がり、僕のことを静かに見た。


 声を出さず、ただ黙って瞳を向けてくる。


 小さく、小さく、二度頷くと、再び近寄ってきた。


「あんた、名は?」


「ミナト……といいます」


「へえ、薬売りのミナトさん、か」


 不意に下駄と地面が擦れる音がした。


 クオンの桃色の袖から出る白い腕が宙を切り、僕と女性の境界を両断する。


「私はクオンです」


「クオンさん。かわいい娘さんだね。どこから来た異人なの?」


「私は日本人です。生まれも育ちも日の本です。血も日本人です」


「へえ、そうなんだ。なんか……娘さんは高級な簪(かんざし)みたいだねえ」


「どういう意味でしょうか」


「血赤珊瑚のような瞳だ。きれいだねえ」


 目尻を垂らし、ふふっと笑う女性は、深紅の着流しの懐から赤い巾着袋を取り出した。


 そこから出されたのは二枚の小判だ。彼女は僕に、すっと差し出す。


「そんなには……いただけませんよ」


「いいから。貰えるもんは貰っておきなよ。

釣りはミナトさんの使いたいように使いな」


 薬売りの一度の売買に相応しくない大金だ。

彼女の指に挟まれた二両を見つめていると、懐に強引に押し込まれた。


 再び酒で喉を潤す女性は、いまだ涙を浮かべる男の子を流し目で見る。


「あんた……情けないねえ」


「ちょっと……」


 彼女は声をかけた僕のことを一つも見ない。そのまま男の子に言う。


「どうして引っ込んだのさ。悪いのは大和屋のジジイだろ」


「え……あの人が悪かったんですか?」


 僕が問いかけると、女性は鼻を鳴らす。

そして、反対側の店先で今も打ち水を続ける老婆を見た。


「あそこにいるババアと大和屋のジジイが話してたんだよ。

話が終わった途端に、ババアは打ち水を始めて。耄碌してんだろ。

で、大和屋が打ち水を避けて、前に飛び出したのさ」


――やっぱり、あの人が原因だったのか。


「わいが……あかんのです。前をみてへんかったさかい」


 男の子の言葉に、女性は深い溜め息をついた。


「どうして頭を下げ続けた」


「そ、それは……あかんことを――」


「あいつは家族にも手を出すと言った。

あいつが悪いのに、だ。それなら、あんたがすることは一つだろ」


 夕暮れ時の少しだけ涼しい風が吹く。








「やれよ」








 冷ややかな目だった。

団子を付けたことを謝っていた彼を認めることも、慰めることもない。


「殴られること、踏まれること、奪われること、それを当たり前と思うな。

もっとも愚かなのは奪う者じゃない。弱いことに酔っているやつだ」


 僕は口を挟めなかった。建前で話していないことがわかったから。


 女性は身体をふらつかせて、男の子に近づいた。


「義を通した己のこと。

それをただ奪う者、嘲笑う者がいるなら殺しな。

咎めてくるのは痛みを知らぬ者たちだ。

そんな声は無視しろ。徹底的にやり返せ、殺せ。

己が島流しになろうと、親が連座しようとも。

あんたは恥ずべきことをしていないんだから」


 女性の黒髪は地面に向けて、さらりと垂れた。


 そのまま男の子を見下ろして、続ける。


「逃げるんじゃねえ、臆病者。

己を理不尽に虐げるやつがいたら、己が死ぬことになっても噛みつけ」


 鋭い一言だった。


「はあ……疲れたな。じゃあ、私は行くわ」


 彼女は踵を返し、ゆっくりとした足取りで町を歩き始める。


 五歩ほど進んだところで左手の通い徳利を掲げ、振り返ることなく僕に言った。


「薬売りのミナトさん。

今宵、ここに来てよ。おもしろいもんを見せてあげる」


 茜色の夕日に深紅の着流し。


 二つの色が重なる、その背中。


 僕はその後ろ姿に声をかけた。


「あの……あなたの名は」


 大和屋の事件に関わる人物。彼女の言動と行動。僕の中にある知識と予想。


 野山を歩けば着物に付くオナモミのように結びつける。










「壬生浪士組の筆頭局長、芹沢鴨」










 ひぐらしの儚げな鳴き声は、投げ捨てるかのような彼女の言葉に彩りを与えた。


 壬生浪士組 筆頭局長 芹沢鴨(せりざわかも)


 明るい夏であった一日がもうすぐ終わる。

遠ざかっていく彼女の後ろ姿は、人混みに入っても異彩を放っていた。


 血のような深紅の着流しが夕日と共に消えていく。




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