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散りゆく桜の真実、ぼくは未来で口づけを  作者: 陽野 幸人


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芹沢鴨 1

 町裏の長屋路地を歩いている僕は、顔をしかめた。


「ねえ、クオン。この辺り臭くない?」


「はい。ミナト様のおっしゃるとおりです。

私は気づいた時点で口呼吸に変えて、なるべく吸い込まないようにしています。

――あちらで行われている作業のせいです」


 薄紫の着物を纏うクオンが指し示す。その方向にあるのは傷んだ長屋だ。


 塀から顔を出して、中を覗く。


 共同便所の前で、数人の男性が糞尿を掬い、桶に移していた。


「汲み取り式の臭い……か」


 鼻を突く刺激臭は、思考を少しばかり鈍らせる。


 クオンが僕の背後から囁く。


「汲み取り式というのは合っています。

ですが、ミナト様の認識と彼らの認識は乖離します」


「どういうこと?」


「この時代の排泄物は、再利用するものです」


「再利用って……そんなことするの?」


「はい。それを下肥(しもごえ)といいます。

畑などに撒く最高の肥料とされているのです」


「その話は聞いたことないかも」


 僕たちの会話に割って入る、野太い男性の声がした。


「おーい!」


 下肥を汲んでいた一人が、僕たちに手を上げる。

江戸の住まいにいるとき、日頃から野菜などを分けてくれる農民の五郎さんだ。


「おーい! 薬屋さーん!」


 彼は手拭いで鼻を拭い、こちらに駆けてくる。


 五郎さんが呼ぶとおり、僕たちは時代に溶け込むために薬売りを生業としていた。


 これはクオンの案だ。

薬売りであれば佐幕派、討幕派などに関わらず交流できるし、多くの人とも触れ合える。

各地へ赴くための関所を通過するにしても、怪しまれないことが多い。


 けれど、僕たちは身元が確かでない無宿の身だ。

関所を通行するための往来手形を寺などに書いてもらうわけにはいかない。

だから、僕の懐にある手形もクオンが精巧に偽造したものだ。


 そのような危うい事情を露知らず、駆け寄ってきた五郎さんが白い歯を見せる。


「薬屋さん、近頃見かけなかったなー。また、どっかに旅でも行ってたのかい?」


「久しぶりです。他の土地に薬を売りに行っていました」


 僕が言うと、五郎さんは満面の笑みを浮かべた。


「へー、よく何回も行くねえ。オラは江戸から出たことがねえからなー。

そうそう、この間の薬はよく効いたなー。あっという間に治ったよ。

薬屋さんのとこは苦くねえし、すぐに良くなる」


「よかったです、早く良くなってくれて」


 クオンの膨大な知識で生薬を調合している。

有効成分を抽出する方法も他の薬売りとは違う。


 けれど……長い目で見れば、誰かの生を延ばしかねない行為だ。

人の生死に介入することは禁止だけれど、未来で咎められたことはない。


 タイムトラベルの男性担当者は、軽い言い方だった。


『え、薬売りですかー。生死介入って一般人も含まれますよ。

まあ、一般人が相手なら、そこまでうるさくないですけどねー』


『生活するためですし、薬売りなら観測するにも都合がいいんです』


『あー、じゃあ、薬売りはしてもいいですよ。上に聞くのもめんどうですし。

直接の生死介入はしないでくださいねー。特に偉人はダメですよー』


 生きるはずの者を己の手で殺すこと。死ぬはずの者を己の手で生かすこと。


 生死不介入。


 死刑という厳しい規約を見せておきながら、中身は曖昧で適当だ。

僕たちが生活する上では緩いほうが助かるけれど。


「お、そうだ。これ食ってくれよ」


 五郎さんは懐から握りこぶしほどの竹皮に包まれた物を取り出した。


「饅頭だ。この間の薬代まけてもらったからよ。一個しかねえから、二人で分けてくれ」


 僕は笑みを絶やさない。生活が楽ではない彼の思いやり。

本来なら自分で食べたいはずだ。それを僕たちに向けてくれる優しさ。


 自身の意に反し、右目の瞼が痙攣している。


「ミナト様、五郎さんのご厚意です」


 僕はクオンに促されるまま礼を言って、笑顔で饅頭を受け取る。


――クオン。クオン……。


――見てなかったの? そんなはずはないよね?


 五郎さんは懐に手を入れる前、指先に付く人糞を着物の裾で拭いていた。


「そこらの塩饅頭より、よーく甘いぞ」


「あ、ありがとうございます。甘い物……食べたかったんです」


「じゃあ、オラは戻るから」


 顔に深い皺を寄せ、共同便所の方へ軽やかに戻っていった。


 僕は五郎さんから貰った饅頭を胸の辺りまで持っていき、すんすんと鼻を動かす。


「これ食べられるのかな」


「包み紙にしている竹の皮は、殺菌効果が期待できます。

召し上がっても……大丈夫ですよ」


「今、言葉に詰まったよね」


「詰まっていません」


「詰まったよ。クオン、全部食べていいよ。甘い物好きでしょ」


「…………。先程の話の続きです。生活を学びましょう」


――に、逃げたな。


「下肥は無料ではありません」


「それはそうでしょ」


「おそらくミナト様は誤解しています。先方が買い取るのです」


「買い取るって、それ……汲み取っている側が払うの?」


「おっしゃるとおりです。

下肥は肥料ですから。それに下肥には等級が存在します」


「等級って……どうして」


「長屋から出る庶民の排泄物は安いのです。

ですが、大名屋敷や高級料亭の排泄物は、高値で取り引きされます」


 隣を子どもたちが無邪気に走り抜けていく。その子たちに追いつくことはできる。

しかし、クオンの口から出る内容に思考は追いつかない。


「それって、もしかして……」


「はい、富裕層の食べている物は栄養価が高いのです。

つまり、その排泄物を肥料として使えば、作物がよく育つ、という考え方ですね」


「なんか……嫌だけどね」


「日本は循環型社会だったのです。

異国のように排泄物が上から降ってくることも、道に転がっていることもありません。

日本人は昔から衛生面に重きを置いていますし、お風呂も大好きです。

しかし、下肥の弊害もありました」


 含みのある言い方だ。

次に続く言葉を前に唾を飲み込み、身構える。


「通常、排泄物は肥壺(こえつぼ)という物に入れて発酵させます。

これを腐熟(ふじゅく)といいます」


 僕は下肥の臭いを遮るために、藍色の着流しの袖を鼻に当てる。


 クオンは微かに笑い、話を続けた。


「腐熟によって臭いは軽減されます。

発酵の熱によって菌の死滅、抑制ができます。寄生虫の卵はほとんど無理ですが」


「発酵熱かー。じゃあ、発酵が不十分なまま撒いたらまずいよね」


「おっしゃるとおりです。菌が死ななければ、人を襲います。

下肥は多くの死者を出したコロリの感染源という側面もあります。

患者の排泄物にはコレラ菌がいますから」


「そっか……。循環型社会の弊害でもあったのかもね」


「はい。何事にも長所、短所はあるものです。

畑に撒かれた下肥の中にコレラ菌がいたとしても、表にいる菌は死滅しますよ」


「あー、そっか、紫外線に弱いのか」


「おっしゃるとおりです。ですが、コレラ菌は水が大好きです。

畑の湿った土の中に染み込めば、生き長らえます」


「それで……か。根菜類を井戸や川で洗って増殖して、多くの人に感染したんだね」


 僕たちは五郎さんに向けて頭を下げ、再び歩き始める。


 爽やかな風に嗅覚が洗われて、クオンの果物のような甘い香りを感じた。


「ねえ、僕たちも生野菜を食べているけど大丈夫なの?」


 自分で言って、胃の辺りを掴まれる感覚がした。


 腸の中を何かが泳いでいる不安にも駆られた。


「私たちが食べているのは、ぬか漬けです。

ぬか漬けは植物性の乳酸菌が女王様、塩が王様なので菌は殺されます」


「寄生虫の卵は?」


「基本的には無理です。寄生虫の卵は強敵ですから」


 一歩前に踏み出したクオンが振り返り、人差し指を天に向けた。


「ご安心ください。一時帰還した際に、ミナト様には投薬してあります。

菌や寄生虫がいたとしても、私がすでに殲滅いたしました」


 胸を撫で下ろすが、安堵と疑問が伴走する。


「薬を飲んだ覚えはないけど」


「ミナト様が眠っているときです。

私はいつでもミナト様の健康を第一としているのです」


「寝ているときじゃなくていいよ。それ、怖いよ」


「知らぬ間の看護。あえて言わない、私の美学です」


「言ってるけどね」


 長屋の路地から大通りに出て、町並みを歩いていく。


 柔らかな風。穏やかな雰囲気。笑顔の町民たち。


 その中を歩いていると、急に人々がざわついた。


 僕たちの先にある人混みが、タンポポの茎を裂くように真ん中で分かれていく。


 どこからか怒声が轟く。聞き覚えのある声だ。


「どきな……! いったん、いったんね!」


 女性にしては太く低い声が続く。


「どきな! うすのろども! この小虫が!」


 裸足で地面を叩きつけ、避けられない人たちを突き飛ばしていく。


「うわ……。また……篠原さんだ」


 僕が呟くと、クオンも言う。


「あの方……足が速いですよね」


 そのとおりだ。体型に左右されない走り。

背骨に棒を刺したかのごとく、一切の横揺れがない。

相手を突き飛ばせないときは、人の間を俊敏にすり抜けている。


 彼女とは下田で初めて会った。あの日から見かけることも多い。

僕たちは篠原さんに遭遇すると、なるべく見つからないようにしている。

彼女に会うと必ず金銭の要求をされるし、食事を奢れと強制してくるからだ。


 僕たちの目の前まで、篠原さんは来ていた。


「あんたら! 薬売りめ! どきな! いったん、いったんね!」


 一重瞼の中にある彼女の鋭い目は、僕を睨みつけた。

その凄みは野生動物を彷彿とさせる。


 噛みついてきそうな形相に恐れて半身で避けると、手に鈍い衝撃が加わった。

じんじんとした痛みが骨まで伝わり、指の感覚を失わせる。


 すれ違いざま、篠原さんに手を叩かれたからだ。

五郎さんから貰った饅頭は、一瞬で彼女に強奪された。


「うらしゃあ!」


 そう叫んだ篠原さんの大きい背中は、どんどんと小さくなっていく。


 しばらくすると、奉行所の者たちが捕り物用の道具を携え、駆け抜けていった。

彼らは十人以上いる。篠原さんは一体、何をしたのだろうか。


 僕の手は篠原さんの汗か体液で、べっとりと濡れた。

蜂蜜とまではいかないけれど、なぜか粘り気がある。


 おかしい。そのようなことがあるのか。


 鼻に手を近づける。生臭さと硫黄が混じったような独特の臭い。腐敗臭もする。


 急激に心が沈む。双眸に涙が集まる。得体の知れぬ不安が津波のように襲う。


「おケガはありませんか、ミナト様」


 クオンの優しさが今はとても痛い。


「どうしよう……クオン」


 少し光っている手のひらと手の甲を交互に見せる。


「大丈夫です。洗えば……大丈夫ですよ」


「そんな感じでは……ないんだよ」


 クオンは薄紫の着物を留める黒い帯から、懐紙を取り出す。

そして僕の手を丁寧に拭いてくれる。

けれど、皮膚に染みたのか、臭いが取れることはなかった。


 帰り道、野良犬と遭遇して嫌なことが起こる。

唸り声を上げて、じりじりと身構え、一つ大きく吠えて逃げていった。

普段は遊んでくれと言わんばかりに飛び掛かってくるというのに。


 自宅に帰り、井戸水で洗っても臭いは落ちない。

糠袋(ぬかぶくろ)で皮膚を削るように洗っても変わらない。

かまどにある灰を塗って、何度も何度も洗ったけれど結果が変わることはなかった。


「クオン……僕は終わりだよ」


「そのようなこと……言わないでください」


「疫病ってさ……こういう感じで生まれるんだよ、きっと。

生み出した本人は元気。それはそうだよ、篠原さんなんだから」


「だ、大丈夫です! ミナト様は決して負けません!」


「いいよ……気休めは。それにさ……クオンは、気づいている?」


「な、なにをですか?」


「手に付いたときより臭いが増しているんだよ。

洗っているのに、変だよ。これは……もう無理だよ」


「そ、そのようなことありません! 他にも試してみましょう!

油なら取れるはずです!

ミナト様のことは私が守ります! 大丈夫です!」


「クオン、今まで……ありがとう」


「ミナト様! 嫌です……!」


 篠原さんが残していった臭いは、クオンの知識を活用しても消えることはなかった。


 寝ても覚めても。


 篠原さんの呪いは三日三晩、僕のことを悩ませた。




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