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聖遺物《レリック》は語らない――勇者殺しの九つの断片  作者: 水縒あわし
【序章】不帰の玉座

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【序章】 第8話



 魔王城での凄絶な決着から数週間後。



 あの日、神の啓示けいじを誰にも告げぬまま、ラインハルトたちは王都へ帰還した。



 空を覆い尽くすほどの、極彩色の花吹雪。



 王都の目抜き通りは、魔王討伐の報に沸き立つ民衆の波で完全に埋め尽くされている。



「勇者万歳!」


「これで平和が来るぞ!」


「魔王は死んだ!」



 石畳を揺らす歓声は、鼓膜を破らんばかりの音圧となって大気を震わせている。



 祝福の鐘の音が、雲一つない青空に幾重にも重なって響き渡る。



 ラインハルトは真っ白な軍馬の背に揺られながら、大通りの中心をゆっくりと進む。



 沿道から差し出される無数の手。



 熱狂に浮かされた顔、顔、顔。



 平和という果実を手にした人々の途方もない熱気が、物理的な壁となって彼の肌にまとわりついてくる。



 だが、彼の鼻腔びくうを突くのは、踏み躙られた花弁の甘い香りだけではない。


むせ返るような人いきれの中に、微かに、しかし確実に混じり始めている異臭。



 熟れすぎた果実が静かに腐敗していくような、鼻の奥にべったりとこびりつく匂い。



 歓喜の声を上げる彼らの瞳の奥に、ほんの一瞬だけよぎる濁った光。



 それは、魔王という絶対的な脅威が去った今、目の前を行進する「規格外の暴力」に対する本能的な警戒の兆し。



 熱狂の波の下で、その腐臭はひっそりと、確実に王都の空気を淀ませ始めていた。



          ◇



 王城、大謁見の間。



 絢爛けんらんなシャンデリアが放つ光の下、真紅の豪奢な絨毯が王座へと真っ直ぐに伸びている。



 磨き上げられた大理石の床は、血と泥にまみれた戦場とは無縁の、冷酷なまでの輝きを放っていた。



 ラインハルトは重い足音を響かせて進み、王座の数歩手前で片膝を突き、深々と頭を下げる。



「よくぞ、大任を果たした」



 頭上から降ってくる王の声。



 その響きには、一国の主としての威厳よりも、ひび割れた金属のような微細な震えが混じっている。



 小刻みに震える王の手から、英雄の証である『白銀の勲章』が下賜される。



 純白のリボンに吊るされた、鏡のように滑らかな銀の意匠。



 それを受け取るべくラインハルトがわずかに視線を上げると、王笏おうしゃくを握り返す王の指の関節は、血の気を完全に失って真っ白に染まっていた。



 王の瞳は、眼下にいる英雄の顔を決して直視しようとはしない。



 せわしなく泳ぐ視線は、ラインハルトの背に負われた大剣の柄と、彼自身の分厚い筋肉の隆起の間だけを、怯えたように往復し続けている。



(……俺の力から、目を背けている)



 ラインハルトの胸の奥で、ひどく乾いた音が鳴る。



 魔王という抑止力が消滅した今、目の前に平伏すこの男の力は、王にとって国を根底から揺るがす最大の火種に他ならないのだ。



 ラインハルトは無言のまま、血と泥に汚れた手でその勲章を受け取った。


白銀の表面に、冷たい王城の光が反射している。


この時はまだ、彼も、そして王たちも知る由はない。



 この輝かしい栄誉の証が、間もなく民衆の底なしの悪意と石礫によって無残に叩き潰され、醜く歪められる運命にあることなど。


 周囲を遠巻きに取り囲む貴族たちの様子も、命を懸けて出征したあの日とは明らかに異なっていた。



 豪華な扇子で口元を隠し、互いに探り合うような視線を絶え間なく交差させている。



「魔王領の豊かな鉱脈、我が領地と接しておりますゆえ……」


「いやいや、国境警備の観点から言えば、我が軍が駐留するのが筋というもの」



 押し殺した囁き声が、大理石の柱の間で羽虫のように不快な音を立てて飛び交う。



 彼らの頭の中にあるのは、世界を救い生還した英雄への純粋な称賛ではない。



 主を失った広大な領土と、それに伴う新たな利権の分配。



 平和という名の空白をどう切り分け、どう自分の胃袋に流し込むかという、剥き出しの欲望の計算。



 何種類もの濃厚な香水の匂いが混ざり合い、息が詰まるほど悪趣味な空気の層を作り出している。


ラインハルトは、無言のままゆっくりと立ち上がる。


彼が身じろぎをし、硬い鎧の継ぎ目が微かな摩擦音を立てた。



 ビクン、と。


ただそれだけの動作で、周囲に群がっていた貴族たちが一斉に肩を跳ねさせ、弾かれたように数歩後ずさる。


絨毯を擦る無数の衣擦れの音が、張り詰めた空間にひどく大きく響いた。



 そのあからさまな拒絶の反応。



 英雄は、すでにこの安全な箱庭には不要な異物へと成り果てていた。



          ◇



 夜のとばりが下りた王都の裏路地。



 ラインハルトは兜を外し、目深に被った古びたマント姿で、兵士たちの集まる安酒場の片隅に座っていた。



 使い込まれた木製のジョッキが、乱暴にぶつかり合う鈍い音。



 安酒のツンとするアルコール臭と、焼き直された脂身の匂いが、狭い空間にむせ返るほど充満している。



「おい、聞いたかよ。勇者様たちへの特別手当、来月から打ち切りらしいぜ」


「そりゃそうだろ。魔王が死んだんだ。高い金払って、あんな連中を養う理由がどこにある」



 隣のテーブルから、酒気を含んだ声が遠慮なく飛んでくる。



 ラインハルトは手元のグラスを見つめたまま、一切の身動きを見せない。



「だいたいよぉ、あの大剣一本で城門を叩き割るような奴が、街のど真ん中を歩いてるだけで薄気味悪いんだよ。いつこっちに牙を剥くか分かったもんじゃねえ」


「平和になったんだ。あんな化け物みたいな力、もういらねえ。軍縮は当然の成り行きさ」



 卑屈な笑い声が、ラインハルトの鼓膜を容赦なく打つ。



 ジョッキから零れたぬるいエールが、床の黒ずんだ木目にゆっくりと染み込んでいく。



 彼らは、かつて魔物の群れから自分たちを身を挺して守った男の背中を、今は泥で汚れたブーツの底で踏み躙るように笑い飛ばしていた。



 ――平和という名の空白は、人間にとって最も恐ろしい劇薬だ――。



 魔王城で聞いた、あの天秤の幻影の無機質な声が、脳髄の奥で冷たく反響する。



 共通の敵を失い、行き場を失った暴力。



 自分たちよりも強すぎる者への、本能的な排斥行動はいせきこうどう



 他者を落とすことでしか己のちっぽけな安寧を保てない、人間のどうしようもない自浄作用。



 集合無意識の悪意【ルサンチマン】。



 それが、酒場の喧騒けんそうの裏側に、どす黒い粘液となってべったりと張り付いている。



 悪意の重さが、空気の密度を変えて肩にのしかかる。



 ラインハルトは、テーブルの下で太い指をゆっくりと握り込んだ。



 分厚い掌に、かつて子供たちを守るために無我夢中で削った木剣の、あの柔らかな感触はもう残っていない。



 皮膚を覆うのは、血を吸いすぎた鋼の冷たさと、ただひどく重いだけの、救ったはずの命の質量。


彼は木枠の椅子から音もなく立ち上がる。


テーブルの上に、手つかずの酒の代金として銀貨を数枚置き、静かに踵を返した。


重い木扉を押し開ける。



 酒場の騒音が背後で遮断され、外から吹き込んできた夜風が、分厚いマントの裾を大きく翻す。



 喧騒から切り離された裏路地の空には、薄雲に半ば隠れた青白い月が浮かんでいた。



 その冷え切った光は、彼の落とす濃い影を、湿った石畳の上に黒々と長く引き伸ばしている。



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