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聖遺物《レリック》は語らない――勇者殺しの九つの断片  作者: 水縒あわし
【序章】不帰の玉座

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【序章】 第7話



 突然、鼓膜の奥で砂嵐のような不快なノイズが鳴った。



 その瞬間、世界を彩っていたすべての色彩が、薄汚れた灰色の絵の具で塗り潰されたように急速に色褪いろあせていく。


ステンドグラスから差し込んでいた黄金色こがねいろの陽光は、生気を失ったくすんだ白へと変貌する。


空気の振動が完全に停止した。



 崩れ落ちる瓦礫の音も、微かに吹き込んでいた風の音も、まるで分厚い水槽の底に沈められたように遠退き、やがて完全な無音へと至る。



 ラインハルトは、自身の呼吸すらも空間に吸い込まれ、消滅していくような錯覚を覚えた。



 目の前に立つエレンの姿は、彫像のように硬直している。



 「ラインハルト……!」と彼を呼ぶ口の形のまま、歓喜に潤んだ瞳の端で光る涙の雫すら、重力を無視して頬の途中でピタリと静止していた。



 背後の壁際で軽口を叩いていたヴェルナーも、使い込んだ砥石を拾い上げる中腰の姿勢のまま


彼だけが、この凍りついた時間の牢獄に取り残されていた。



 玉座の奥深く。



 先代魔王の死体が崩れ去った灰が渦を巻き、凝縮し、巨大な金属の構造物を形作っている。



 左右に皿を吊るした、巨大な天秤の幻影。



 装飾の一切を排した、冷酷なまでに直線的な意匠。



 それはただそこにあるだけで、空間の物理法則をねじ曲げるほどの圧倒的な「重圧」を放っていた。



『――均衡が、崩れた』



 音を介さない声が、ラインハルトの脳髄のうずいの中心に直接杭を打ち込んでくる。



 男でも女でもなく、怒りも慈悲も含まれていない。



 ただそこにある「法則」そのものを、強引に言語へと変換しただけの、おぞましいまでに純粋で無機質な響き。



(何だ、お前は……)



 ラインハルトは問い返そうとするが、声帯が凍りついたように動かない。



 大剣の柄を握り直そうとした右手の鋼の篭手も、まるで他人の肉体のように感覚が完全に抜け落ちていた。



『世界は、一つの巨大な天秤によって維持されている。共通の敵という強大な重石が片方の皿に存在することで、もう片方の皿にいる人類は、互いに手を取り合い、団結という名の仮初めの均衡を保つ』



 天秤の右側の皿が、ギギギ、と耳障りな金属の摩擦音を立てて持ち上がる。



『重石が消えれば、天秤は激しく傾く。行き場を失った人類の力は、たちまち内へと向かい、世界は自重で崩壊を始めるだろう』


空間が不規則に明滅する。



 視界の灰色の風景に、強烈な色彩が暴力的に割り込んできた。



 それは、彼が自らの血と引き換えに守り抜いたはずの「平和な世界」の、数年先の未来のヴィジョン。



 豊かな黄金色の麦畑が、同じ国の紋章を掲げた軍馬の蹄によって無残に踏み荒らされている。



 魔王討伐の恩賞と領土を巡り、かつて背中を預け合った諸侯の軍勢が、互いに槍を突き立て合い、血の海を作り出していた。



 燃え盛る家屋から黒煙が立ち上り、空を黒く染め上げる。



 視界がさらに切り替わる。



 王都の薄暗い裏路地。



 飢えと不満に満ちた民衆が、裕福な商人の館を襲撃し、略奪の限りを尽くしている光景。



 広場に組まれた火刑台。



 神の教えに背いた異端者として、無実の者たちが次々と炎にくべられていく。



 その中には、エレンが愛した辺境の孤児院の子供たちとよく似た、小さな影の姿もあった。



『平和という名の空白は、人間にとって最も恐ろしい劇薬だ。彼らは必ず、自らの不安を解消するための新たな敵を「身内」から探し出す。行き場を失った暴力と、他者を排斥することでしか己の価値を見出せない、集合無意識の悪意【ルサンチマン】。それが世界を覆い尽くす』



 脳裏に直接焼き付けられる凄惨な光景に、ラインハルトの心臓が警鐘のように早鐘を打つ。


胃袋の底から、酸っぱい胃液がせり上がってくる強烈な不快感。



 彼は必死に首を横に振ろうとする。



 違う。



 こんな結末のために、俺たちは血と汗にまみれて戦ってきたわけではない。



 エレンの純粋な祈りも、ヴェルナーが捨て身で作った隙も、すべては誰もが笑い合える穏やかな明日を手に入れるためのものだったはずだ。



『自己崩壊を防ぐためには、絶対的な悪が必要なのだ。誰もが恐れ、誰もが憎み、決して倒されることのない、たった一つの巨大な標的が』



 天秤の左側の皿が、今度はゆっくりと下がり始める。



 空っぽの金属の皿。



 そこに「お前が乗れ」と、暗に強要するかのように。



(俺たちに……これ以上、何を差し出せと言うんだ)



 心の中での、血を吐くような絶叫。



 しかし、神の代行者である天秤の幻影は、人間のちっぽけな感情など微塵も介さない。



 ただ、残酷なまでの物理的現実を淡々と提示し続けるだけ。



『盤上の駒は、自らの役割を選ぶことはできない。だが、君は強すぎた。強すぎる力は、平和な世界のバランスを著しく損なう。故に、システムは君に新たな役割を要求している』



 その無機質な言葉が意味するものを理解した瞬間。



 ラインハルトの全身の毛穴が粟立ち、冷たい汗がどっと噴き出した。



 足元の硬い大理石の床が、底なしの泥沼に変わったかのような強烈な喪失感。



(俺が……魔王になれと?)


『新たな重石となれ。世界中の悪意を一身に引き受け、憎悪の象徴として君臨し続けよ。さもなくば、君が愛したこの世界は、人間自身の牙によって数年のうちに完全に自壊するだろう』


天秤の傾きが、完全に停止する。



 絶対的な静寂。



 先ほどまで彼の胸を満たしていた、腹の底から湧き上がるような純粋な達成感は、完全にすり潰され、踏みにじられていた。



 肺の奥にまで入り込んだ冷気が、内側から彼の希望という名の臓腑を凍らせ、粉々に砕いていく。



 英雄としての確かな誇り。



 仲間と共に思い描いた、傷を癒し、笑い合う温かい未来の図面。



 それらがすべて、ただの「神の退屈しのぎの盤上」で踊らされていたに過ぎないという事実。



 救済など、この世界には最初から用意されていなかったのだ。



 狂った世界の均衡を維持するためには、誰かが永遠に泥を被り、犠牲になり続けなければならない。



 神が組み上げた、吐き気のするような永久機関のメカニズム。



ラインハルトの視界が、ぐらりと大きく揺れた。



 血に塗れた鋼鉄の篭手で、自身の胸元を力任せに掴む。



 そこには、かつて王都の丘でエレンと交換した銀の鎖が、ひんやりとした確かな質量を持って存在している。



 だが、その金属の温度は、もはや彼に生きている実感を確かなものとして伝えてはくれない。



 むしろ、彼をこの呪われた世界の玉座に縛り付ける、極寒の枷のように感じられた。



(エレン……)



 彼女の笑顔を守るためなら、自分の命すら惜しくなかった。



 だが、その彼女の笑顔すらも、システムによって計算された一時の「休息」に過ぎないのだとしたら。



 俺が今ここで大剣を置き、ただの人間として帰還すれば。



 数年後には、あのヴィジョンのように彼女自身が戦火と悪意の渦に巻き込まれ、絶望の中で死んでいく。



『選択の時は、とうに過ぎている』



 無貌の声が、冷徹な宣告を下す。



『システムは、すでに君を新たな「世界の敵」として認識し始めている。帰還した時、君を出迎えるのは称賛の雨ではない。恐れと、嫉妬と、排斥の刃だ。世界は、君を許さない』


視界を覆っていた灰色の膜が、パラパラと剥がれ落ち始める。



 停止していた時間が、再び動き出そうとしている兆候。



 空中に浮いていた微細な塵が、ゆっくりと重力を取り戻し、落下を再開する。



 エレンの瞳に張り付いていた涙の雫が、再び頬を伝って流れ落ちる軌道を描き始めた。



 空間の奥底に消えていた、熱狂的な歓声と剣の交わる音が、急速にフェードインしてくる。



(俺は……)



 ラインハルトは、足元に転がる先代魔王の、巨大な角の残骸を見下ろす。



 自分が討ち果たした、世界の絶対悪。



 あれもまた、自分と同じように、誰かを守るためにこの玉座に座り、絶望の中で散っていった存在だったのだろうか。



「ラインハルト……!」



 不意に、鼓膜が完全に正常な機能を回復する。



 エレンの澄んだ声が、彼の意識を現実へと乱暴に引き戻した。



 彼女の温かい手が、彼のひしげた胸当てに触れている。



 淡い青色の治癒の光が、掌から溢れ出し、引き裂かれた筋肉の繊維を結びつけていく。



 だが、ラインハルトの心に開いた、底なしの巨大な暗い穴を埋めることは、どんな強力な神聖魔術にも不可能だった。



「本当に、勝ったのですね。これで、ずっと一緒に……」



 涙ぐみながら微笑むエレンの顔が、ステンドグラスから差し込む陽光に照らされている。



 その光景の無垢な美しさが、今の彼には、耐え難いほどの残虐な拷問に思えた。



 ラインハルトは、ゆっくりと自分の左腕を持ち上げる。



 治癒の光を放つエレンの手の上に、自らの血と泥にまみれた巨大な鋼の篭手を、そっと重ねた。



 その動作は、ひどくゆっくりで、限界まで慎重なものだった。



 まるで、少しでも力を込めれば、彼女という存在そのものが粉々に壊れてしまうと恐れるかのように。


泥だらけの彼の唇が、微かに動く。



 声にはならない。



 ただ、ひどく深く、重い吐息だけが、口の端から漏れ出した。



 玉座の間に差し込む光の帯の中、舞い落ちる微細な石の粉塵。



 カビと血の匂いが混ざり合う、広大な空間。

 先ほどまで彼の肺を満たしていた「平和」の匂いは、もうどこを探しても見当たらなかった。


大剣の柄を握る右手の指先が、小さく痙攣する。



 ただ一度だけ。



 そしてすぐに、その弱さを完全に押し殺すように、革の巻かれた柄をギリリと強く握り直した。



 外から吹き込む乾いた風が、王城の冷たい空気を微かに揺らした。



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