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聖遺物《レリック》は語らない――勇者殺しの九つの断片  作者: 水縒あわし
【序章】不帰の玉座

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【序章】 第9話



 王都の豪奢な石畳を、無数の冷たい雨粒が容赦なく打ち据えている。



 昼間、空を覆い尽くすほどに舞っていた極彩色の花吹雪は完全に泥に沈み、華やかな祝祭しゅくさいの余韻は、濁った水たまりの底へと無残に溶け出していた。



 ラインハルトの足取りは、極端なまでに遅く、そして重い。



 限界まで雨水を吸い込んだ厚手のマントが、歩を進めるたびに石畳を引きずり、べちゃりという鈍い音を立てる。



 兜の奥の視界は、雨垂れによって歪に滲んでいた。



 彼の脳裏には、数時間前に大謁見の間で見た王の白く濁った指先と、安酒場で聞いた兵士たちの嘲笑が、どす黒い粘液のようにこびりついて離れない。


魔王という絶対悪が消え去った世界。


共通の敵を失い、行き場をなくした暴力の矛先。



 英雄を排斥しようとする人間の、強烈で抗いがたい自浄作用。



 集合無意識の悪意【ルサンチマン】の波は、すでに彼らの足元まで迫っているのだ。



(このままでは、あいつらも呑み込まれる)



 ラインハルトは、奥歯をきつく噛み締めた。



 世界を維持するための絶対的な重石。



 自分がその呪われた玉座に座り、全人類の憎悪の標的とならなければ、この平和な世界は数年のうちに内側から完全に自壊する。



 共に血を流し、誰よりも大切に想う戦友たちすらも、その血みどろの渦に巻き込まれて死んでいく。



 天秤の幻影が突きつけた残酷な真理。



 それが、鋭利な氷の刃となって彼の心臓を絶え間なく抉り続けている。



 装甲の隙間から染み込む雨の冷たさが、彼の内側にある人間としての体温を、一秒ごとに奪い去っていった。



          ◇



 王都の裏路地にひっそりと佇む、勇者一行に与えられた小さな石造りの館。



 暖炉で燃える薪が、パチリ、パチリと心地よい音を立ててぜている。



 使い古された木製のテーブルには、湯気を立てる甘いカモミールティーが二つのカップに注がれていた。



 部屋の隅に座るヴェルナーが、窓ガラスを叩く雨だれを指先でなぞる。



「遅いな、大将。……凱旋のパレードの熱気が、嘘みたいに冷え込んできやがった」



 彼の手の中で、長年使い込まれた携帯砥石が、所在なげにいじられている。



 親指の腹で滑らかな石の表面を擦る、シュッ、シュッという規則的な摩擦音。



 魔王が討伐され、戦いが終わった今となっては本来不要なはずのその仕草。



 だが、長年培われた斥候としての鋭い嗅覚が、王都の空気に漂う微かな不穏の匂いを無意識に嗅ぎ取り、彼に武器の手入れを要求させていた。



「大丈夫よ。きっと、王宮での報告が長引いているだけ」



 エレンが両手で陶器のカップを包み込む。



 彼女の胸元では、かつて王都の丘で交換した銀の鎖が、暖炉の温かい光を反射してかすかなきらめきを放っていた。



 その顔に浮かんでいるのは、長かった死闘の終わりを実感し、明日からの平穏を信じて疑わない純粋な安堵の色。



 もう血を流す必要はないのだと、柔らかな微笑みが室内を温かく満たしている。



 甘いハーブの香りが、彼女の微かな緊張を少しずつ解きほぐしていく。


重い足音が、廊下から響いてくる。


規則的で、しかしひどく無機質な金属の響き。



 ヴェルナーの指先が、ピタリと止まった。



 弄られていた砥石の摩擦音まさつおんが唐突に途切れ、室内に奇妙な静寂が落ちる。



 エレンもカップから口を離し、期待に満ちた瞳で扉の方へと視線を向けた。


木製の扉が、乱暴に押し開けられた。



 外から流れ込んだ湿った突風が、暖炉の炎を大きく揺らす。



 入り口に立つのは、雨に濡れた漆黒の鎧を纏うラインハルト。



 しかし、その身から発せられる空気の質は、つい数日前に魔王城で背中を預け合った男のそれとは決定的に異なっていた。



 甘いカモミールの香りを一瞬で上書きする、濃密な血と泥と鉄の匂い。



 肌の表面に微小な針を無数に突き立てられるような、攻撃的な魔力圧が部屋中を満たしていく。



 空間の温度が、一瞬にして氷点下まで引き下げられたかのような錯覚。



 水滴が鎧からしたたり落ち、床の木板に黒い染みを作り出していく。



「ラインハルト……? どうしたの、そんなに濡れて」


 エレンが椅子から立ち上がり、彼のもとへ駆け寄る。



 微かな戸惑いを顔に浮かべながらも、彼女の白い手が、泥と雨で汚れた冷たい胸当てに触れようと真っ直ぐに伸びた。



 かつて、魔王城の奥深くで彼の致命傷を癒した、あの温かく優しい手。


ラインハルトの右腕が動く。


彼の奥歯が、砕けんばかりの力で噛み締められる音がした。


鋼の篭手が、彼女の細い手首を力任せに叩き落とした。


パァン、という乾いた破裂音が室内に響き渡る。



 弾かれた手を庇うように胸に抱き、エレンの瞳孔どうこうが限界まで収縮する。


 白い肌に、くっきりと浮かび上がる赤い手形。



 痛みに顔を歪めるよりも早く、理解の追いつかない現実に対する恐怖で、彼女の足が無意識のうちに半歩後ろへ退いた。



 彼女の足元で、床に落ちた雨滴が冷たく跳ねる。



「大将……何の真似だ」



 壁際にいたヴェルナーが弾かれたように立ち上がり、腰の短剣に手を伸ばす。



 その声は、極度の緊張で低く掠れていた。



 短剣の柄を握る彼の手のひらには、冷たい汗がじわりと滲んでいる。



 彼の長年の斥候としての本能が、目の前にいる男を「かつての相棒」ではなく「明確な脅威」として認識し、全身の筋肉を硬直させているのだ。



 なぜ、世界を救ったはずの英雄が、これほどの殺意を振り撒いているのか。



 ラインハルトは何も答えない。



 兜の奥の瞳から、人間としての温かな温度がすっぽりと抜け落ちている。



 濁った恐怖を隠し持っていた貴族たち。



 暗い路地裏で牙を研いでいた兵士たちの悪意。



 彼らに与えるべき「絶対的な悪」という名の劇薬。


 それを自らが引き受けるための、最初の、そして最も残酷な決別の儀式。


ラインハルトの太い指が、背に負った大剣の柄を握り込む。


重々しい金属の摩擦音が、ゆっくりと時間を引き延ばすように響く。


引き抜かれた白銀の刃が、暖炉の揺らめく光を冷たく反射し、壁に巨大な死神の影を落とした。


鋼鉄の重みが、完全に感情を殺しきった彼の手の中で確かな質量を主張している。



 大剣の切っ先が、エレンの喉元へと真っ直ぐに向けられた。



 室内の空気が完全に凍りつき、テーブルの上のハーブティーから立ち昇っていた湯気が白い息へと変わる。



 かつて世界を救うために振るわれた刃が、今、愛する者の命を明確に脅かしているのだ。



 磨き上げられた刃の表面には、恐怖に凍りつくエレンの顔が歪んで映り込んでいる。



 喉元に突きつけられた鋼の冷気に当てられ、エレンの首筋にびっしりと鳥肌が立つ。



 胸元で揺れる銀の鎖が、カチャリと悲鳴のような音を立てた。



「ライン、ハルト……?」



 エレンのひび割れた唇から、すがるような声が漏れる。



 彼女の澄んだ瞳から、大粒の涙が溢れ出した。



 だが、ラインハルトの表情はピクリとも動かない。


大剣を持つ右腕は、強固な岩山のように微動だにしない。



(俺を憎め。俺を殺すために生きろ)



 声帯を震わせることなく、彼はただ冷徹な視線だけを二人に叩きつける。



 彼らが「堕ちた勇者を討つ者」として世間の憎悪と同調する限り、世界からの排斥を免れ、英雄のまま生き延びることができる。



 それこそが、神の盤上で彼が見出した唯一の防衛策。



 狂った世界のシステムから彼らを守るための、徹底的な嘘と拒絶。



 この瞬間、勇者ラインハルトは完全に死に絶え、新たなる理不尽の象徴が産声を上げた。


ラインハルトは大剣をゆっくりと下ろし、背を向ける。


濡れたマントが重い音を立てて翻った。



 彼の胸の奥で、大切に守り続けてきた温かな感情が、粉々に砕け散る音がした。



 それでも、彼は一度も振り返ることなく、開け放たれた扉から冷たい雨の降る暗闇の中へと歩み去っていく。



 長靴が泥を跳ね上げる遠ざかる足音が、次第に夜のノイズに溶けて消える。



 開いたままの扉から吹き込む突風が、暖炉の炎を完全に吹き消した。



 冷え切った暗闇に取り残された部屋の中。



 エレンの静かな嗚咽おえつと、ヴェルナーの足元へ転がり落ちた砥石の鈍い音だけが響き続けている。



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