【第3章】 第4話
分厚い鉄扉の隙間から、ひどく澱んだ空気が外へと吐き出されていく。
ミーナが細い身体をねじり込ませた先は、四方を高い城壁に囲まれた広大な空間だった。
頭上を覆う石の天井はなく、代わりに、血のように赤く染まった夕空が視界いっぱいに広がっている。
ズズズ……。
背後で巨大な扉が完全に閉ざされ、外界への退路が物理的に断たれた。
ミーナは振り返らない。
ひび割れた石畳を踏みしめ、ただ真っ直ぐに前を見据える。
かつて、魔王を討伐するために集められた勇者軍が、日々剣を交え、汗を流した練兵場。
無数の足跡が踏み固めたであろう土は、今や完全に乾ききり、荒涼とした砂漠と化している。
広場のあちこちには、訓練用の木人の残骸や、刃こぼれして打ち捨てられた無数の武器が、墓標のように突き刺さっていた。
西の空に傾きかけた巨大な太陽が、それらの残骸に長い影を引かせている。
ヒュー……ヒュー……。
掠れた呼吸音が、夕暮れの静寂に不規則なリズムを刻む。
ミーナの右手には、荒野の死体から拾い上げた一振りの長剣が握られていた。
王国の一般兵が使う、無骨で装飾のない量産品。
十にも満たない少女の筋力で扱うには、あまりにも長すぎ、そして重すぎる鉄塊。
彼女は剣の重さに引きずられるようにして右肩を落とし、切っ先で乾いた土をこすりながら歩みを進めていく。
ガリッ、ガリガリッ。
金属と石が擦れ合う、耳障りな摩擦音。
その音が、静まり返っていた練兵場の空気を僅かに震わせた。
広場の中央付近。
苔むした石の台座から、二つの巨大な影がゆっくりと分離した。
人間の背丈を優に超える、防衛用の石像。
侵入者の気配を感知した無機質な魔力駆動器が、休眠から目覚める低い稼働音を鳴らし始める。
ゴゴゴゴ……。
石の関節が削れ合う、ひどく重たい音。
彫刻としての顔面には目も口もないが、頭部らしき部位が正確にミーナの細い身体を捕捉する。
石像の右腕が、無骨な石の棍棒をゆっくりと持ち上げた。
ミーナの足が止まる。
大きく見開かれた双眸に、迫り来る巨大な石塊が映り込む。
彼女は逃げない。
後退するための筋肉は、最初から存在しないかのように沈黙している。
「あ、ぁぁッ!」
喉の奥から、空気を搾り出すような叫び。
ミーナは両手で長剣の柄を握り込み、全身のバネを使って、重い鉄塊を頭上へと跳ね上げた。
大柄な男物の革靴が、ひび割れた大地を力強く蹴り飛ばす。
それは、洗練された剣技などと呼べる代物ではなかった。
体重の移動も、刃筋の角度も、すべてが素人のそれ。
ただ、自らの命という質量を丸ごと剣に乗せて叩きつけるだけの、捨て身の特攻。
ガガァァァン!!
腹の底を揺らすような轟音。
長剣の刃が、振り下ろされた石の棍棒と正面から激突する。
ビリビリと、手首から肩にかけての骨が砕けそうなほどの衝撃が駆け抜けた。
握力が弾け飛びそうになるのを、彼女はケロイド状にひきつった手のひらから血を流しながら、無理やりねじ伏せる。
(……!)
奥歯が削れるほどの力で、顎を噛み締める。
石像の圧倒的な質量に押し潰されそうになる中、彼女は柄に身体を預けるようにして踏みとどまった。
ギリギリと金属が軋む音。
火傷だらけの彼女の顔面と、石像の無機質な胸部が、至近距離で対峙する。
彼女の視界を、夕陽の赤が染め上げていた。
だが、今の彼女の網膜に焼き付いているのは、美しい自然の落日などではない。
村を焼き尽くし、家族を炭に変えた、あの日の地獄の業火。
熱い。
肺が焼けるように熱い。
ズガァッ!
ミーナは剣を強引に引き抜き、石像の膝の関節部へと渾身の力で横薙ぎを放つ。
刃が石の表面を激しく削り取る。
バチバチッ!
激しい摩擦によって、無数の火の粉が空中に弾け飛んだ。
それは生身の肉体を斬り裂いた時に舞う血飛沫の代わりに、命を持たない石の怪物が流した光の血。
オレンジ色に輝く高温の金属片が、夕空を背景にして鮮やかに散らばっていく。
ジュッ。
微かな、しかし明確な肉の焦げる音。
舞い散った火の粉の一つが、ミーナの右頬に直撃したのだ。
すでに焼け爛れている皮膚の上で、新たな熱が容赦なく組織を破壊していく。
生々しい痛覚が脳髄を突き刺し、鼻腔の奥に、タンパク質の焦げる嫌な匂いが這い上がってきた。
大人でさえ顔を覆って蹲るほどの激痛。
(……)
しかし、ミーナの瞳は一瞬たりとも閉じられることはなかった。
頬の肉が焼ける感覚すらも、彼女の内側で燃え盛る暗い炎をさらに巨大化させるための薪に過ぎない。
「う、あァァァァァッ!」
掠れた喉から、獣のような咆哮が漏れる。
火の粉を浴びながら、彼女は剣を振りかぶり、幾度も、幾度も石像へと叩きつけ続けた。
ガキンッ、ガガッ、ゴシャッ!
刃こぼれし、形を歪めていく長剣。
彼女の細い腕の筋肉は限界を超えて悲鳴を上げ、毛細血管が破れて皮膚の下に赤黒い斑点を作り出している。
それでも、彼女の連撃は止まらない。
一つ一つの打撃が、彼女からすべてを奪った世界への、純粋で暴力的な拒絶の意思表示。
やがて、限界を迎えたのは石像の側だった。
度重なる衝撃に耐えきれず、右足の関節部に入った亀裂が一気に広がる。
メキ、メキメキッ……。
石の崩落する重い音。
バランスを崩した巨大な像が、ゆっくりと斜めへと傾いていく。
ミーナはその隙を見逃さず、剣を両手で高く掲げた。
「消えろォッ!」
重力に従って振り下ろされた鉄塊が、石像の頸部へと深々と食い込む。
ドゴォォォン!!
爆発的な破砕音と共に、石像の頭部が吹き飛び、大理石の破片が四方八方へと散乱した。
主を失った石の胴体が、地響きを立てて練兵場の土埃の中へと崩れ落ちる。
もう一体の石像も、すでに彼女の乱撃によって四肢を砕かれ、動かぬ瓦礫へと成り果てていた。
周囲に散らばった石の破片が、夕陽の光を反射して赤く染まっている。
カラン……。
限界を迎えた長剣が、ミーナの手から滑り落ち、乾いた土の上に転がった。
ヒュー……、ヒュー……。
練兵場の静寂を取り戻した空間に、彼女のひどく乱れた呼吸音だけが反響している。
ミーナは両膝を突き、うなだれるようにして地面に手をついた。
手のひらからは夥しい量の血が流れ出し、乾いた土を黒く染め上げていく。
新しく火傷を負った右頬からは、ジクジクとした痛みが絶え間なく脈打っていた。
ボロ布の隙間から覗く細い身体は、自らの流した血と、石の粉塵、そして煤によって完全に汚れきっている。
ポタリ、と。
彼女の顎から、一滴の生温かい液体が落ちた。
それは血ではなく、極限の苦痛と熱によって絞り出された透明な汗の粒。
彼女はゆっくりと顔を上げる。
視線の先にあるのは、練兵場の奥、本城へと続く巨大な渡り廊下。
そのさらに奥深くには、すべての元凶である魔王が座す玉座の間が存在しているはずだ。
ギリッ。
再び、奥歯を強く噛み締める。
震える右手を持ち上げ、彼女は自らの胸元へと指先を這わせた。
肌に直接触れる位置で揺れる、一本の革紐。
その先にある『焦げたお守り』の冷たい感触が、荒れ狂っていた彼女の心拍をわずかに落ち着かせていく。
全身を焼くような熱を帯びた空気の中で、その木片だけが、まるで氷のように研ぎ澄まされた冷気を放っていた。
あの日、絶望のどん底で握らされた、理解不能なガラクタ。
だが今や、この冷たさこそが、彼女が狂気に飲み込まれずに自我を保つための唯一の楔なのだ。
ミーナはふらつく足に力を込め、ゆっくりと立ち上がる。
西の空の太陽が、地平線の彼方へと完全に沈みかけていた。
練兵場全体を覆い尽くす、燃えるような紅蓮の光。
それは、彼女の記憶の中にある故郷の最期の光景と、残酷なまでに完全に一致している。
彼女は無言のまま、足元に転がっていた刃こぼれだらけの長剣を再び拾い上げた。
ズリ、ズリ……。
剣先が土をこする鈍い音が、落日の空間に響き始める。
細い身体を引きずりながら、少女はさらに深い城の暗部へと、その歩みを進めていく。




