【第3章】 第5話
巨大な渡り廊下を抜け、ミーナの小さな革靴が本城の冷たい石畳を踏みしめる。
かつて魔族の王族たちが権勢を誇ったであろう豪奢な大広間は、完全な死の沈黙に沈み込んでいた。
天井から吊るされた特大のシャンデリア。
壁面を飾る精緻なタペストリー。
大理石の飾り柱。
本来ならば目を奪うほどの輝きを放っていたはずのそれらは、すべてがべっとりと黒く塗り潰されている。
長い年月をかけて蓄積した、粘り気のある煤。
魔王の放つ強烈な魔力が空間を停滞させ、行き場を失った灰が幾重にも層を成してあらゆる装飾にへばりついているのだ。
ズリ、ズリ……。
刃こぼれした長剣を引きずる鈍い音が、広間に空しく反響する。
ミーナの足取りは、ひどく重い。
練兵場で石像を破壊した時に負った右頬の新しい火傷が、脈打つたびにジクジクと熱を持っている。
だが、今の彼女を立ち止まらせようとしているのは、肉体的な痛覚などではないのだ。
ヒュー……ヒュー……。
掠れた呼吸音が、彼女の小さな唇から断続的に漏れる。
鼻腔の奥に、強烈な異臭が這い上がってきた。
城内に満ちる、長年蓄積された焦げた匂い。
空気を吸い込むたびに、肺の奥底に微細な煤の粒子が張り付いていくような圧迫感。
そのひどく乾いた匂いが、ミーナの脳髄を直接刺激し、封印していた記憶の蓋を強引にこじ開けようとする。
(……ちがう)
彼女は首を強く横に振り、薄汚れたボロ布の襟元をきつく握りしめた。
しかし、一度開いた記憶の扉は、小さな手のひらの力で押さえ込めるようなものではなかった。
視界の端がぐにゃりと歪む。
豪華な装飾が施された黒ずんだ壁が、焼け落ちた故郷の家屋の残骸へと姿を変えていく。
焦げた匂の奥底から、別の臭気が混ざり込み始める。
甘ったるく、そして吐き気を催すほどに生々しい、腐敗の臭い。
炎に包まれた村。
業火によって炭化した家屋の下敷きになり、逃げ遅れた者たちの亡骸。
生き残った者が誰一人おらず、土に還ることも許されなかった家族や隣人たちが、焦土の中で静かに腐っていく。
あの時、燃え殻の中からたった一人這い出したミーナの鼻を突いた、死臭と焦げ臭さが入り混じった地獄の空気。
それが今、魔王城の停滞した空気と完全に同化し、彼女を丸ごと包み込んでいた。
「う、ぁ……」
胃袋の底から、強烈な酸がせり上がってくる。
ミーナは長剣を手放し、両手で口元を強く押さえた。
大柄な革靴の中で、足の指が引き攣るように丸まる。
カチカチカチカチッ。
彼女の奥歯が、制御不能な震えを起こして激しく鳴り始めた。
肩が、腕が、膝が、別々の生き物のように細かく跳ね回る。
寒さからくる震えではない。
凄惨な記憶のフラッシュバックによる、純粋な防衛本能の暴走。
(だめだ、しっかり、しろ……!)
心の中でどれほど叫んでも、肉体は一切の命令を拒絶している。
床に落ちた長剣の柄に手を伸ばそうとするが、指先が激しく痙攣し、冷たい鉄に触れることすら叶わなかった。
一歩前へ進もうと右足に力を込める。
ガクン。
膝の力が完全に抜け、ミーナの細い身体が煤だらけの大理石の床へと崩れ落ちた。
黒い粉塵がふわりと舞い上がり、彼女の火傷だらけの肌にまとわりつく。
床に這いつくばった彼女の胸元で、『焦げたお守り』が微かな音を立てて石畳を叩いた。
コトリ、と。
それは、彼女の記憶の中にある温かな掌の温度を、すでに完全に失っている。
冷え切ったただの木片が、震え続ける彼女の胸を無機質に圧迫していた。
ヒュー……ヒュー……。
煤に塗れた広間に、少女のひどく浅い呼吸音だけが、どこにも届くことなく反響していく。




