【第3章】 第2話
巨大な外郭門が、重々しい軋みを上げて背後で閉ざされる。
ドズン、という腹の底を揺らすような音が響き、外界からの光と風が完全に遮断された。
ミーナを包み込んだのは、太陽の光すら届かない、底冷えのする薄暗い空間。
魔王城の外縁部。
かつて無数の魔族が闊歩し、そして勇者軍によって蹂躙されたその場所は、今はただ静寂だけが支配する巨大な墓標と化している。
(……冷たい)
薄汚れたボロ布越しに、肌を刺すような冷気が這い上がってくる。
それは単なる気温の低下によるものではない。
空間そのものに染み付いた、死と絶望の気配。
そして何より、城の最深部から絶え間なく溢れ出している、魔王ラインハルトの圧倒的な魔力圧。
その目に見えない重力は、屈強な戦士ですら膝を屈するほどの質量を持っている。
十にも満たない少女の身体では、ただ立っているだけでも全身の骨が軋みを上げるほどだ。
ヒュー……ヒュー……。
ミーナの掠れた呼吸音が、静まり返った空間に不気味に反響する。
彼女は痛む胸を両腕で抱え込むようにして、重いブーツを引きずりながら歩みを進めた。
一歩、また一歩。
暗闇に目が慣れてくると、周囲の光景が徐々に輪郭を持ち始める。
壁面に穿たれた巨大な爪痕。
魔法によって黒く焼け焦げた石柱。
床に散乱する、魔物と人間、双方の朽ち果てた武具の残骸。
それらが、かつてここで繰り広げられた凄惨な殺戮の記憶を、無言のまま突きつけてくる。
(……同じだ)
ミーナの瞳孔が、微かに収縮した。
鼻腔を突く、古い血と錆の匂い。
そして、石壁に染み付いた、消えることのない焦げ臭さ。
その感覚が、彼女の脳髄の奥底に封印されていた記憶の扉を、暴力的にこじ開けていく。
グラリと、視界が歪んだ。
足元の石畳が消失し、代わりに柔らかな土の感触が足裏に伝わってくる。
冷え切った魔王城の空気が、むせ返るような熱波へと変質していく。
彼女の網膜を塗り潰したのは、見慣れた、そして二度と戻ることのない故郷の風景だった。
緑豊かな森に囲まれた、小さな村。
人々が笑い合い、穏やかな日々が永遠に続くと思われていた場所。
だが、今のミーナの視界に広がるそれは、美しい記憶のままではなかった。
燃えている。
すべてが、真っ赤な炎に包まれている。
家屋の屋根から黒い煙が噴き上がり、空を不吉な色に染め上げている。
木造の柱が折れ、屋根が崩れ落ちる轟音。
逃げ惑う人々の悲鳴と、容赦なく振り下ろされる暴力の音。
「お、おかあさん……!」
幻影の中の幼いミーナが、泣き叫びながら炎の中を走り回っている。
その姿を、現在のミーナが透明な観測者として見つめていた。
炎の熱さが、ケロイド状にひきつった肌を焼く。
大量の煤が肺を満たし、呼吸を困難にしていく。
過去の痛覚が、現在進行形の現実として彼女の肉体を凌駕していく。
視界の先で、見覚えのある村人が倒れている。
その背中には、黒い矢羽根の刺さった矢が深々と突き立っていた。
魔物の使う粗末な武器ではない。
王国軍の特殊工作兵が使用する、精巧な作りの軍用品。
(……あいつらが、やったんだ)
ミーナの奥歯が、ギリリと音を立てて噛み締められる。
魔物の襲撃という名目で村を焼き払い、自分たちを皆殺しにしたのは、他でもない人間たち自身。
そして、その狂気を指揮し、彼らを地獄へと突き落とした元凶。
炎の向こう側から、一つの影がゆっくりと歩み出てくる。
漆黒の重鎧に身を包み、巨大な白銀の大剣を引きずる男。
勇者ラインハルト。
幻影の中の彼は、泣き叫ぶ幼いミーナの前に立ち止まり、無言のまま大剣を振り上げた。
「……!」
ミーナは反射的に身をすくませ、目を強く閉じた。
だが、予想された衝撃は訪れない。
代わりに、胸元で微弱な脈動が起きた。
ボロ布の奥、肌に直接触れている『焦げたお守り』。
それが、まるで小さな心臓のようにドクンと跳ねたのだ。
ミーナは目を開き、荒い息を吐きながら胸元を強く握りしめた。
尖った炭の角が手のひらの肉に食い込み、鋭い痛みが走る。
その物理的な痛覚が、彼女の意識を炎の幻影から、暗く冷たい魔王城の現実へと強引に引き戻した。
ヒュー……ヒュー……。
大量の冷たい空気が肺に流れ込み、咳き込みが始まる。
彼女は膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、握りしめたお守りの冷たい感触に意識を集中させた。
この木片だけが、彼女を繋ぎ止める唯一の錨。
かつて、村を焼いたあの男が、なぜか自分に握らせた意味不明なガラクタ。
だが、これがあるからこそ、彼女は復讐という一つの目的を見失わずにここまで来ることができたのだ。
(……待ってて)
ミーナは顔を上げ、大回廊の奥深く、底なしの闇が口を開けている方向を見据えた。
彼女の瞳に宿る暗い炎は、恐怖によって消え去るどころか、より純度を増してギラギラと燃え上がっている。
ボロ布の裾を引きずりながら、少女は再び歩みを進める。
カビと鉄、そして微かな血の匂いが混ざり合う暗闇の中へ。
不格好な革靴が石畳を叩く音が、静寂の底にポツリ、ポツリと吸い込まれていった。




