【第3章】 第1話
空を塞ぐ重い鉛色の雲が、荒涼とした大地に濃い影を落としている。
乾ききった風が吹き抜けるたび、ひび割れた土塊が砕け、微かな砂埃となって宙を舞った。
生命の気配を徹底的に拒絶する魔王領の境界線。
見渡す限り続く灰色の風景の中で、黒い枯れ木だけが墓標のように点在している。
その果てしなく続く死の荒野を、一つの小さな影が揺れながら進んでいた。
ザッ、ザッ。
足を引きずるような、ひどく重い足音。
歩幅は極端に狭く、強風が吹けばそのまま吹き飛ばされてしまいそうなほどに頼りない。
それでも、その歩みは決して止まることなく、地平線の彼方にそびえ立つ黒い城壁へと真っ直ぐに向かっていた。
影の正体は、小柄な少女だった。年齢は十にも満たないかもしれない。
彼女の全身を覆っているのは、旅の外套などという立派なものではなく、ただの薄汚れたボロ布の寄せ集め。
本来の色彩すら判別できないほどに泥と煤で汚れ、所々が不自然に焼け焦げている。
むき出しになった細い足首には、自分の足のサイズに全く合っていない、大柄な男物の革靴が不格好に括り付けられていた。
突風が荒野を駆け抜け、ボロ布の裾を乱暴にめくり上げた。
ビクッ。
少女の華奢な肩が、痛みに跳ねる。
露出した手足の表面は、普通の子供が持つような滑らかな肌ではない。
どす黒く変色し、ケロイド状にひきつった火傷の痕が、無惨に広がり肌を覆い尽くしている。
布地がその硬く強張った傷跡に擦れるたび、彼女は細い眉根を寄せ、血の気の引いた唇を強く噛み締めていた。
ヒュー……ヒュー……。
風の音に混じって、奇妙な音が鳴り続けている。
それは、少女自身の喉から漏れ出す呼吸音。
大量の煤と超高温の熱気を吸い込み、気管の奥底まで焼け爛れてしまった者に特有の、掠れた音色だ。
息を吸うたびに肺が軋み、細いガラス片で内臓を内側から引っ掻かれるような鋭い痛覚が走る。
彼女は数歩進んでは立ち止まり、激しい咳き込みを繰り返し、口元を覆った手の甲に赤黒い血の飛沫を滲ませていた。
(……)
肉体はすでに限界を超えている。
それでも、少女――ミーナの双眸には決して消えない暗い炎が宿っていた。
大きな瞳の奥底で燃え続けるのは、絶望や悲哀といった柔らかな感情ではない。
ただ一つの対象をこの手で完全に破壊することだけを目的とした、純度の高い執念。
一歩。
また一歩。
ひび割れた大地を踏みしめ、巨大な城の影へと近づいていく。
彼女の足元には、かつてこの地を目指して命を落とした兵士たちの武具が、赤茶けた泥に半ば埋もれたまま散乱していた。
王国の紋章が削れ落ちた鉄の盾。
刃こぼれし、柄の腐り落ちた長剣。
それらの鉄屑を一瞥することもせず、ミーナはただ前だけを見据えている。
屈強な大人たちですら本能的な恐怖を覚えて逃げ出す、魔王の絶対的な魔力圧。
大気を震わせるその目に見えない重圧が、彼女の細い身体を容赦なく打ち据えていた。
ギリッ。
ミーナの奥歯が鳴る。
彼女は痛みを散らすかのように、自身の胸元へと右手を伸ばした。
ボロ布の奥、焼け爛れた肌に直接触れるようにして下げられている、一本の革紐。
その先には、小さな木片が括り付けられている。
元の形が何であったのか、もう誰にも分からない。
表面は完全に炭化し、かろうじていびつな鳥のような輪郭を残しているだけの『焦げたお守り』。
ミーナの小さな掌が、その黒い木片をきつく握りしめた。
氷のように冷たくなったその感触が、火傷の痕を通して彼女の神経へと伝わっていく。
痛いほどの冷たさ。
かつて、この木片を彼女の手に握らせた、分厚く温かな掌の記憶。
あの優しかった温度は、すでに彼女の世界から完全に失われている。
今、この冷気が呼び起こすのは、彼女の脳裏にこびりついている『あの日の熱』だけだ。
(……忘れない)
ミーナの呼吸が、さらに不規則になる。
ヒュー、ヒューという音が連続し、気管から鉄の味がせり上がってくる。
見上げれば、魔王城の威容が、まるで世界そのものを呑み込む巨大な顎のようにそびえ立っていた。
太陽の光すら届かない、底なしの暗闇。
そこから這い出してくるカビと鉄の匂いが、彼女の鼻腔を容赦なく犯していく。
だが、その匂いの中には、彼女の記憶を直接抉り出す別の要素が混じっていた。
古い石壁が風化し、剥がれ落ちた粉塵の匂い。
そして、遥か奥深くから漂ってくる、微かな、しかし決定的な『煤の匂い』。
その瞬間、ミーナの網膜に張り付いていた灰色の荒野が、一気に別の色彩へと塗り潰された。
視界の端から、オレンジ色の炎が舐めるように広がっていく。
空を覆うのは鉛色の雲ではなく、建物を飲み込んで噴き上がる真っ黒な煙。
耳を塞いでも聞こえてくるのは、家屋の太い柱がへし折れる崩落音と、人々の逃げ惑う足音。
「あ、ぁ……」
ミーナの喉から、声にならない乾いた音が漏れた。
彼女は握りしめていたお守りをさらに強く握り込む。
尖った炭の角が手のひらの肉に食い込み、新しい血が滲み出した。
鋭い物理的な痛覚が、フラッシュバックしようとする記憶の奔流を辛うじて堰き止める。
首を激しく横に振り、強引に意識を現実へと引き戻した。
眼前には、依然として沈黙を守る巨大な黒い城。
彼女の小さな身体は、すでに城が落とす巨大な影の中に完全に飲み込まれていた。
気温が、急激に数度下がる。
外の世界の光から完全に切り離された、冷酷な領域。
ミーナは細い首を上げ、城壁の遥か上方に位置する、暗い窓穴を見上げた。
あの中に、いる。
すべてを奪い、すべてを焼き尽くした元凶が。
彼女の胸元で、『焦げたお守り』が微かに揺れた。
それは吹き抜ける風に煽られたからではない。
最奥の玉座に座る漆黒の魔王の存在に呼応するかのように、呪具としての微小な脈動を始めたのだ。
ミーナは血の滲む手のひらを開き、ボロ布の襟元を強く引き合わせる。
掠れた呼吸音だけを荒野に響かせながら、少女は魔王城の外郭門へと、さらに一歩を踏み出した。
巨大な鉄扉が、彼女の小さな影を静かに待ち構えている。




