【第2章】 第17話
大理石の床に、赤い水たまりがゆっくりと広がっていく。
先ほどまで玉座の間を満たしていた甲高い叫び声は、今はもう幻聴すら残っていない。
分厚い石壁が切り取る空間には、生気のない肉塊が横たわるのみ。
ラインハルトは、足元で完全に動きを止めたエドワードの骸を見下ろした。
首の後ろを貫通した傷口からは、どす黒い血液が絶え間なく溢れ出ている。
泥と吐瀉物にまみれた白銀の鎧は無惨にひしゃげ、かつての持ち主がどれほど自己の美しさに執着していたかを示す欠片すら残していない。
見開かれたままの双眸には、死の瞬間に焼き付いた恐怖の残滓がこびりついたままだ。
称賛を渇望し続けた男の最期は、誰の目にも触れることなく、ひどく惨めで矮小なものだった。
(……)
静寂の底で、重厚な金属の擦れる音が鳴る。
ラインハルトは右腕を軽く振り下ろした。
白銀の大剣の刃から、粘り気のある血液が床へと弾け飛ぶ。
彼の手首が淀みなく反転し、背の鞘へと巨大な鉄塊を収めた。
分厚い鋼のブーツが、血の海を踏みしめる。
グチャリ。
湿った不快な音が、玉座の間の冷気の中へ吸い込まれていった。
ラインハルトは深く腰を落とし、エドワードの右腕を無造作に掴み上げる。
鉄の手甲越しに伝わってくるのは、ひどく冷たく、ただの物体としての重力に引かれる質量。
命という熱を失い、虚栄心という名のガスが抜け落ちた肉体は、驚くほど重い。
魔王を名乗る前から、彼はこうして無数の屍を片付けてきた。
かつては仲間の亡骸を涙と共に抱え上げ、今は自ら命を奪った者を無言で引きずる。
行為は同じでも、その掌に伝わる温度は永遠に異なる。
漆黒の巨躯が、ゆっくりと歩みを進めた。
ズリ、ズリ……。
大理石の床の上を、白銀の鎧が引きずられていく。
甲冑の破片が石畳を擦り、耳障りな摩擦音を立て続けた。
ラインハルトは背後を振り返ることはない。
彼の視線は、大回廊の奥、開け放たれた巨大な扉の先へと向けられている。
玉座の間を抜け、長く薄暗い大回廊へと足を踏み入れる。
左右に立ち並ぶ魔族の彫像たちは、無言のままその葬列を見下ろしていた。
先ほどまでエドワードの靴音が傲慢に反響していたこの通路も、今はただ、死体を引きずる重苦しい音だけが支配している。
西の空から、強烈な光の帯が回廊の窓から差し込んできた。
厚く垂れ込めていた鉛色の雲の切れ間から、燃えるような夕陽が顔を覗かせたのだ。
オレンジ色に染まった光線が、冷え切った石柱の影を床に長く引き伸ばしていく。
光の帯の中を通過した瞬間、ラインハルトの足が止まった。
彼は右手に握っていたエドワードの腕から、静かに指を離す。
ゴトン。
生命を持たない鉄屑が、石畳に鈍く転がった。
ラインハルトは顔を上げ、高い位置にあるアーチ状の窓へと視線を巡らせる。
そこから見えるのは、果てしなく続く枯渇した荒野。
エドワードが優雅なステップで踏み荒らし、かつて無数の名もなき兵士たちが血を流した最前線の地だ。
地平線の彼方に沈みゆく太陽が、荒涼とした大地を血のような赤で染め上げている。
夕陽の光は、窓枠の影を越えてラインハルトの体にも降り注いだ。
漆黒の重鎧が、燃えるような赤を鈍く反射する。
その表面には、エドワードの華麗な剣技によって刻み込まれた、真新しい無数の傷痕が走っていた。
胸当ての斜めの一閃。
左肩の装甲から削り取られた金属の痕跡。
すね当てに刻まれた浅い歪み。
それらの傷が、夕陽の角度によって鮮明に浮かび上がり、まるで幾筋もの細い血の川のように輝いている。
(……浅いな)
兜の奥で、低い呼吸の音が漏れる。
ラインハルトの左手がゆっくりと上がり、胸当ての新しい傷を指の腹でなぞった。
分厚い鋼鉄の表面を数ミリ削り取っただけの、見掛け倒しの爪痕。
肉体には一切のダメージを与えていない。
それでも、この傷を刻むために、エドワードは己の存在価値を懸けて刃を振るったのだ。
その狂気と絶望の感触が、鉄の削りカスを通して指先に微かに伝わってくる。
眼下で転がるエドワードの骸は、すでに夕陽の光の届かない影の中へと沈んでいる。
彼が求めた栄光も、彼を駆り立てた民衆の悪意も、死という絶対的な平等の中では何の意味も持たない。
ただ沈黙だけが、彼を優しく包み込んでいた。
指先を滑らせると、真新しい傷の横には、さらに古く深い傷跡が無数に存在していることに気づく。
魔法によって黒く焦げた跡。
巨大な魔獣の爪によって抉られた深い溝。
そして、かつての仲間たちが放った、裏切りの刃の痕。
それらすべてが夕陽に照らされ、ラインハルトの体がどれほどの理不尽と犠牲を引き受けてきたかを無言で物語っている。
これらの傷一つ一つが、彼が守ろうとした世界から与えられた代償なのだ。
彼の視線が、再び窓の外へと向けられる。
荒野の先、遥か遠くに霞む王都の方向。
そこでは今頃、人々が安全な壁の中で夕食のテーブルを囲み、平和な夜を迎えようとしているだろう。
彼らは知らない。
自分たちの平穏が、このような名もなき荒野で朽ちていく者たちの上に成り立っていることを。
そして、その平和を維持するために、「魔王」という名の絶対的な脅威が必要不可欠であることを。
もしラインハルトが玉座を捨て、この世界から姿を消せばどうなるか。
恐怖の対象を失った人間たちは、必ず新たな敵を自分たちの中に作り出す。
領土、資源、あるいは些細な思想の違いを理由に。
疑心暗鬼が広がり、血で血を洗う終わりのない闘争が始まる。
エドワードのような承認欲求の化け物が次々と現れ、正義という名を借りた殺戮を繰り返すだろう。
強すぎる暴力の象徴。
絶対に打ち倒さねばならない、世界の敵。
その役割をラインハルトが一人で背負い続ける限り、人類は結束し、かりそめの平和を享受することができる。
彼がこの魔王城で孤独に玉座を温め、やって来る志願者たちを屠り続けること。
それが、彼が命を懸けて救った世界を、今度こそ守り抜くための唯一の手段なのだ。
夕風が窓の隙間から吹き込み、ラインハルトの漆黒のマントを重く揺らした。
肺を満たすのは、冷たく乾いた大気の匂い。
その冷たさが、彼の決意をさらに強固な氷へと変えていく。
彼は窓辺から身を翻し、再び大回廊の中央へと戻る。
鉄のブーツが、静かに床を叩いた。
横たわるエドワードの骸を一瞥し、ラインハルトは再びその右腕を掴み上げる。
ズリ、ズリ……。
夕陽の赤が、少しずつ色を失っていく。
魔王城が本来の深い闇へと沈んでいく中、重厚な金属の擦れる音だけが、どこまでも続く廊下の奥へと吸い込まれていった。




