【第2章】 第16話
大理石の床に這いつくばった白銀の騎士は、喉元に突きつけられた冷たい刃から目を逸らすことができない。
彼自身の顔を鏡のように映し出すその白銀の刀身には、誇り高き英雄の姿などどこにもなかった。
泥と血と吐瀉物にまみれ、恐怖で顔面を醜く引き攣らせた、ただの一人の哀れな男。
それが、他者の称賛というメッキを完全に剥がされた、エドワードの真実の姿だった。
「ひ、ヒィッ……」
浅く、不規則な呼吸がエドワードの喉から漏れ続ける。
後退しようとするものの、恐怖で足の筋肉が痙攣し、床の血溜まりの中で無様に滑るだけ。
兜の奥から見下ろすラインハルトの双眸には、やはり何の感情も浮かんでいない。
怒りも、憎しみも、憐憫すらも。
ただ、この空間を汚染するノイズを消し去るための、絶対的な物理法則としてそこに存在している。
「ま、待て……! 私は、選ばれた存在だ……!」
エドワードは震える両腕で上半身を支え、必死に言葉を紡ぎ出す。
それはラインハルトへの命乞いではなく、崩壊しかけている自己を何とか繋ぎ止めようとする、虚しい自己暗示。
「世界は、私を求めている! 私のこの完璧な美しさがなければ、誰が民衆に希望を与えるというのだ!」
彼の絶叫が、玉座の間に空しく反響する。
その声に応える者は、ここには誰もいない。
彼がどれほど華麗な言葉を並べ立てようとも、その言葉に重みを与えるはずの「他者の眼」が存在しないのだ。
額に埋め込まれた『白銀の勲章』が、ドクン、と不吉な音を立てる。
暗褐色の瘴気が、彼の顔の輪郭を覆い隠していく。
それは、彼の肥大化した承認欲求が、ついに彼自身の精神を完全に喰い破った合図だった。
「私を讃えろ……! 私が英雄だと、お前もそう言えェェッ!」
エドワードの瞳孔が限界まで見開かれる。
理性を完全に失った狂気が、血走った眼球を赤く染め上げていた。
彼は喉元に突きつけられた大剣の刃を素手で掴み、力任せにラインハルトへとすがりつこうとする。
鋼の篭手が、ピクリと動いた。
ラインハルトは、無言のまま大剣を引き戻す。
摩擦でエドワードの手のひらが裂け、血の混じった肉片が床へと落ちる。
そして、一切の溜めも、反動すらも伴わない、純粋な筋力のみによる神速の突き。
ゴシャッ。
ひどく鈍い、骨と肉が同時に砕け散る音。
白銀の大剣の切っ先が、エドワードの喉元から首の後ろへと、完全に貫通していた。
「ガ、アァ……」
エドワードの口から、大量の血の泡が噴き出す。
彼は貫かれた自らの首を両手で掴み、信じられないものを見るように目を見開いた。
声にならない悲鳴が、切断された声帯からヒューヒューと空気を漏らしている。
ラインハルトは、大剣を引き抜かない。
その巨躯から放たれる絶対的な魔力圧が、エドワードの肉体を床に縫い付けていた。
「わ、私は……うつく……しい……」
薄れゆく意識の中で、エドワードは最後までその言葉を手放そうとはしなかった。
彼が自らの命よりも重きを置いていた、虚飾の正義。
だが、その言葉を聞き届ける者は誰もいない。
彼の瞳から、最後に残っていた狂気の光が、すっと抜け落ちていく。
ガクン、と。
エドワードの両腕から力が抜け、その巨体が大理石の床へと完全に沈み込んだ。
ラインハルトは静かに大剣を引き抜く。
血飛沫が、床の赤黒い染みをさらに広げていった。
その瞬間。
エドワードの額で狂ったように脈打っていた『白銀の勲章』から、唐突に光が失われた。
暗褐色の瘴気が嘘のように霧散し、周囲の月光を吸い込んでいた底なしの暗闇も、完全に沈黙する。
宿主であるエドワードの命と、彼の際限ない承認欲求という燃料を失ったことで、呪具としての機能が停止したのだ。
後に残されたのは、表面が激しく歪み、どす黒く変色した、ただの醜い鉄屑。
かつて国の威信を懸けて作られた栄誉の結晶は、一人の騎士の虚飾と共に、完全にその役割を終えた。
玉座の間を支配するのは、再び絶対零度の静寂。
ステンドグラスの隙間から吹き込む冷たい冬の風が、床の血の匂いを静かに攫っていく。




