【第2章】 第15話
大理石の床を削る硬質な足音が、氷のような静寂の中に重く響く。
ラインハルトは右手に白銀の大剣を下げたまま、玉座の間の最奥からゆっくりと歩みを進めていた。
その視線の先で、エドワードが四つん這いになりながら後退していく。
「来るな……! 化け物め、私に近づくな!」
かつての美しい騎士の面影は、もはやどこにもない。
純白だったマントは赤黒い泥と血にまみれて千切れ、鏡面のように磨き上げられていた白銀の鎧には、無数の斬撃の痕と凹みが刻み込まれている。
彼の顔は泥と汗と涙でぐしゃぐしゃに汚れ、口の端から垂れた涎が、かつての誇りだった胸当ての傷跡へと落ちていく。
「私は英雄だ……! 民衆に愛され、歴史に名を刻む、絶対の正義なのだ!」
エドワードの口から、壊れた蓄音機のように同じ言葉が繰り返される。
彼はすがりつくように額の『白銀の勲章』に手を伸ばすが、そこから溢れ出すのは、彼が渇望した称賛ではなく、淀みきった漆黒の瘴気だけ。
勲章は彼自身の承認欲求と、それを祭り上げた民衆の無責任な悪意を吸い上げ、すでに彼を呑み込む呪いの沼と化していた。
(……哀れな)
ラインハルトの兜の奥で、感情の抜け落ちた双眸が静かに揺れる。
目の前で無様に這いずる男は、世界の理不尽なシステムが生み出した、ただの犠牲者の一人に過ぎない。
英雄という虚構の役割を押し付けられ、他者の欲望の器として消費されるだけの存在。
ラインハルトは、かつて自分が同じ道を辿りかけたことを思い出す。
民衆の歓声の裏に潜む悪意に気づき、この男と同じように狂気へと逃げ込む選択肢もあった。
だが、彼はそうしなかった。
すべての悪意を引き受け、永遠に憎まれる絶対的な標的となる道を選んだ。
ズン、と。
ラインハルトのブーツが、エドワードの眼前で止まる。
巨大な漆黒の影が、白銀の騎士を完全に覆い隠した。
「ヒッ……!」
エドワードの喉の奥から、情けない悲鳴が漏れる。
彼は震える手で腰の短剣を抜こうとするが、指先に力が入らず、柄を弾いて床に落としてしまった。
カラン、と。
虚しい金属音が、玉座の間に反響する。
ラインハルトは無言のまま、ゆっくりと右腕を持ち上げる。
大剣の切っ先が、エドワードの喉元へと正確に向けられた。
刃の表面には、ステンドグラスから差し込む青白い月光が冷たく反射している。
「や、やめろ……私を殺せば、お前は……永遠に……」
エドワードの言葉は、そこで途切れた。
ラインハルトの兜の奥から放たれる、底なしの虚無と絶対的な殺意。
その重圧の前に、彼の薄っぺらな承認欲求など、もはや一片の意味も持たないことを悟ったのだ。
彼の額で、不規則に歪んだ『白銀の勲章』が、最後のあがきのようにドクンと嫌な脈動を打つ。
(……これで、終わりだ)
ラインハルトの胸の奥で、ひどく静かな諦観が満ちる。
英雄という名の呪縛から、この男を解放する。
それが、同じ絶望を知る者としての、せめてもの慈悲。
大剣の刃が、重力に従って振り下ろされる。
ステンドグラスの隙間から、一段と鋭い冬の風が吹き込んだ。




