【第2章】 第14話
白銀の切っ先が、玉座の間の冷気を切り裂いて真上へと持ち上げられる。
ラインハルトは無言のまま、すがりつくエドワードの首筋へと視線を落とした。
その太い腕の筋肉が微かに収縮し、慈悲なき一閃を振り下ろそうとした、まさにその時。
キィィィィン……!
鼓膜を突き破るような高周波の耳鳴りが、空間を暴力的に支配する。
音の発生源は、エドワードの額に埋め込まれた『白銀の勲章』だった。
暗褐色の表面から、周囲の光を喰い尽くすほどの漆黒の瘴気が噴き出す。
それはラインハルトの過去から逆流してきたものではなく、勲章自身が長年溜め込んできた呪いの奔流。
英雄という偶像を祭り上げ、そして引きずり下ろそうとする民衆の身勝手な熱狂。
その途方もない質量が、エドワードの極限まで肥大化した承認欲求を完璧な器として認識し、ついに飽和点を迎えたのだ。
「あ、あああ……!」
エドワードの喉が、不自然に引き攣る。
彼はラインハルトのすね当てから手を離し、自らの頭を抱え込んで大理石の床をのたうち回った。
彼の網膜を、現実とは異なる光景が次々と塗り潰していく。
沿道で歓声を上げていたはずの民衆たちの顔。
彼らの口元は今、称賛の言葉ではなく、おぞましい嘲笑の形に歪み切っている。
『偽物の英雄め』
『傷だらけで、泥まみれじゃないか』
『ただの汚らしい人殺しだ!』
(違う、私は美しい……!)
エドワードの心臓が、肋骨を打ち破るほどの速度で激しく脈打つ。
耳を塞いでも、幻聴は脳髄の奥底から直接響いてくる。
他者の称賛という細い糸で吊り下げられていた自己が、黒い濁流に呑まれて完全に粉砕されたのだ。
「黙れ! 私を讃えろ! 私を見ろォォォッ!」
獣のような咆哮が響き渡る。
エドワードは床の血溜まりを素手で掻きむしりながら、勢いよく立ち上がった。
その瞳孔は限界まで見開かれ、白目には無数の毛細血管が赤黒く浮き出ている。
彼の額の勲章から溢れた泥のような魔力が、傷だらけの白銀の鎧をどろどろと覆い尽くしていく。
右手を虚空に向かって突き出すと、壁に刺さっていた長剣が異常な引力に引かれ、凄まじい速度で彼の手の中へと舞い戻ってきた。
柄を握りしめる力が、手甲の金属をミシミシと軋ませる。
エドワードの視界に映っているのは、もはや漆黒の魔王ではない。
自分をあざ笑い、泥を投げつけてくる無数の顔なしの群衆たちだ。
「消えろォッ!」
踏み込みの予備動作など、一切ない。
エドワードの姿がブレたかと思うと、次の瞬間にはラインハルトの懐へと肉薄していた。
下段から跳ね上がるような、力任せの激しい斬撃。
先ほどまでの様式美にこだわった華麗な剣技とは、完全に別物である。
泥臭く、不格好で、ただ対象を破壊することだけを目的とした暴力の嵐。
その刀身には、勲章から溢れ出した漆黒の呪いがべったりと絡みついている。
ガガァァァン!!
ラインハルトは大剣を盾にして、その一撃を正面から受け止める。
重厚な金属の衝突音が響き、ラインハルトの巨躯がわずかに後方へと押し込まれた。
鉄のブーツが床の霜を削り、火花が散る。
(……力が増している)
兜の奥で、ラインハルトの眼光が鋭さを増す。
エドワードの腕力そのものが強くなったわけではない。
彼を突き動かしているのは、自身を否定するものすべてを消し去ろうとする、底なしの防衛本能。
呪具の力が、騎士の肉体を限界を超えて強制駆動させているのだ。
「私を汚すな! 死ね! 死ねェェェッ!」
狂乱したエドワードの連撃が、滝のように殺到する。
横薙ぎ、袈裟斬り、突進を伴う刺突。
血溜まりの泥を跳ね上げ、自らの純白のマントを踏み千切りながら、ただひたすらに剣を振るう。
その口の端からは泡立った唾液が飛び散り、かつて己の美しさに陶酔していた騎士の面影は微塵も残っていない。
彼は今、自分を取り繕うことすら忘れ、ただのむき出しの獣へと成り果てていた。
自身を守るための盾すら放棄し、肉体が砕けることも厭わずに剣を叩きつけてくる。
火花が、暗闇の中で幾度も弾け飛ぶ。
ラインハルトは後退しながら、最小限の動きで黒い剣閃を的確に弾き落としていく。
大剣の腹で打撃を受け流すたびに、呪いの瘴気が刃を伝って這い上がってくる。
肌を直接焼かれるような、生理的な不快感。
それは、英雄を祭り上げながら都合よく使い捨てる世界のシステムそのものが持つ、途方もない重さ。
目の前の騎士は、その機能に完全に飲み込まれ、自我を失った操り人形に過ぎない。
(……哀れな男だ)
兜の奥で、ラインハルトは小さく息を吐き出す。
自分がかつて直面した絶望を、この男は受け入れることができず、狂気へと逃げ込んだ。
その脆弱な精神を嘲笑う気にはなれない。
ただ、この冷たい玉座の間に響き渡る金属音だけが、どうしようもない悲哀を帯びて反響し続けている。
「私は美しい! そうだと言えェェッ!」
エドワードの長剣が、ラインハルトの左肩の装甲を激しく擦り上げる。
甲高い摩擦音とともに、黒い魔力の火の粉が激しく散った。
ひび割れたステンドグラスから、刺すような夜風が玉座の間へと絶え間なく流れ込み続けている。




