【第2章】 第13話
カビと鉄の匂いが混ざり合う玉座の間に、湿った咳き込む音が反響している。
大理石の床に這いつくばった白銀の騎士は、自らの肺から空気を絞り出すようにして喉を鳴らしていた。
極限まで磨き上げられていたはずの彼の甲冑は、大剣による一撃の衝撃と床との摩擦によって、無数の傷とへこみに覆われている。
「ゲホッ……ガァッ……!」
エドワードの口の端から、血の混じった唾液が赤い糸を引いて床へとこぼれ落ちた。
彼は震える両腕で上半身を支え、ひどく焦点の定まらない目で周囲の空間をさまよわせている。
彼の脳髄には、つい数秒前まで、絶対的な情報量を持った他者の記憶が渦巻いていた。
歓喜に沸く王都のパレード。
花吹雪の中に隠された石礫。
純白の勲章を踏み躙る、名もなき群衆の下劣な靴底。
そして何より、英雄という偶像に向けられた、底なしの悪意と排他の熱狂。
それは、エドワードの額に埋め込まれた『白銀の勲章』が、かつての持ち主であるラインハルトと接触したことで引き起こされた、強制的な記憶の共有。
この世界において「英雄」がどのような末路を辿るのかという、残酷すぎる真実の提示だった。
「……ありえない」
エドワードのひび割れた唇から、掠れた音が漏れ出す。
彼は血走った眼球を動かし、ゆっくりと顔を上げた。
数メートル先。
漆黒の重鎧を纏った魔王が、大剣を片手に下げたまま、静かな足取りでこちらへと向かってきている。
カシャン、カシャンという冷たい金属音が、エドワードの心臓の鼓動を不規則に早めていく。
「ありえない……! あのような醜悪な光景、絶対に現実であるはずがない!」
エドワードは床の血溜まりに膝をついたまま、狂乱したように絶叫した。
彼が自らの存在価値を懸けて追い求めてきた「民衆からの称賛」。
それが、一皮剥けばただの責任転嫁と防衛本能の産物に過ぎず、用済みになればあっさりと切り捨てられる脆い砂上の楼閣であること。
その事実を認めることは、エドワードの病的な自己愛にとって、肉体を切り裂かれるよりも深い致命傷となる。
「私を謀ろうというのか、化け物め! 私の脳内に、汚らわしい虚言の幻術を見せたな!」
顔面を醜く引き攣らせながら、彼は右手を虚空に振り回す。
「民は私を愛している! 私のこの完璧な美しさに、世界中が平伏し、涙を流して感謝するのだ! あのような薄汚い石など、誰が私に向かって投げるというのだ!」
彼の声は裏返り、金切り声となって石壁にこだまする。
その言葉の裏側で、額に埋め込まれた勲章が、ドクン、ドクンと嫌な脈動を繰り返していた。
真実から目を背け、己の虚飾にしがみつこうとする歪な執着。
それが新たな魔力となって呪具へと注ぎ込まれ、暗褐色の瘴気が彼の顔の輪郭を覆い隠していく。
(……)
ラインハルトは、エドワードからわずか三歩の距離で歩みを止めた。
兜の奥の双眸が、眼下で吠え猛る騎士の姿を静かに捉えている。
かつて王都の大宴会場で、自分を裏切った者たちを容赦なく斬り伏せた時のような、底なしの怒りは湧いてこない。
第一の志願者であったガルスの強欲を前にした時のような、冷酷な殺意すら生じない。
彼の胸の奥を満たしていたのは、ひどく静かで、重い感情。
それは、悲痛なまでの『憐憫』だった。
ラインハルトには見えている。
エドワードがどれほど気丈に振る舞い、自らの正義を叫ぼうとも、その全身が小刻みに震え続けていることを。
彼が本当に恐れているのは、目の前に立つ魔王の力ではない。
他者からの承認を失い、誰からも見向きされなくなる孤独な未来を、動物的な本能で察知し、怯え切っているのだ。
「私を見ろ! この傷一つない、純白の……」
エドワードは言いかけて、自身の胸元に視線を落とした。
そこにあるのは、先ほどの攻防で深く削り取られ、泥と血にまみれた、見る影もない鉄の残骸。
純白のマントはちぎれ、誇りであった鏡面仕上げの意匠は完全に破壊され尽くしている。
「あ……ああ……」
彼の喉の奥から、空気が漏れるような音が鳴る。
エドワードは慌てて懐を探り、あの純白の絹布を取り出そうとした。
だが、彼の指先が掴み出したのは、すでに彼自身の血と泥を吸い込み、真っ黒に染まりきった薄汚い布切れだった。
「違う……こんなものは、私ではない……」
彼はその汚れた布を胸当てにこすりつける。
キュッ、キュッという虚しい摩擦音が鳴るたびに、汚れはさらに広がり、彼の鎧を醜く塗り潰していく。
その滑稽で哀れな足掻きを、ラインハルトは沈黙のまま見つめている。
かつての自分も、同じだった。
平和という理想を信じ、人々の笑顔のために剣を振るい続けた。
己が血と泥にまみれることで、誰かの明日が輝くと信じて疑わなかった。
だが、その果てに待っていたのは、英雄という名の生贄の祭壇。
眼前のこの男は、自分と同じ道を辿ろうとしている。
もし仮に、この騎士が魔王を討ち果たし、王都へ凱旋したとしよう。
その時、彼は必ず知ることになる。
歓声の裏に潜む悪意を。
自分に向けられる畏怖の視線を。
そして、己の心臓が冷たい石へと変わっていく、あの絶望の音を。
「……私の剣は、どこだ。私の美しい剣……」
エドワードは四つん這いになり、血の海を手探りで這い回り始めた。
遥か遠くの壁に突き刺さっていることにも気づかず、ただ虚ろな目で床の汚れをかき分けている。
その姿に、もはや騎士としての誇りなど一片も残っていない。
額の勲章から漏れ出す瘴気が、彼自身の首を絞めつけるように濃密さを増していく。
虚飾の鎧を剥がされた男の、行き場のない自己愛が、ついに暴走を始めていた。
「魔王……魔王ォォッ!!」
武器を持たないエドワードが、泥まみれの拳を握りしめ、ラインハルトの膝元へとすがりついてくる。
「私を認めろ! 私が英雄だと、お前が証明しろ! 私のこの完璧な生を……!」
泣き叫ぶような、血を吐くような哀願。
彼はラインハルトのすね当てを掴み、力任せに揺さぶろうとする。
しかし、漆黒の巨躯は、嵐の中の大樹のように微動だにしない。
ラインハルトは、すがりつく騎士の頭上へと、ゆっくりと視線を落とす。
彼に向けて振り下ろす刃は、憎しみによるものではない。
これ以上、この哀れな男が世界の悪意に晒され、心を完全に摩滅させてしまう前に。
英雄という名の残酷な鎖から、彼を解放するための儀式。
ギィ、と。
鋼の篭手が、大剣の柄を握る角度を変えた。
ステンドグラスの隙間から吹き込む冬の風が、二人の間を音もなく通り抜ける。
玉座の間を支配する底冷えのする静寂の中で、冷徹な白銀の切っ先が、ゆっくりと空へ向かって持ち上がっていく。




