【第2章】 第12話
鋭い痛覚の余韻が神経を撫でる間もなく、視界がさらに赤く、そして暗く塗り潰されていく。
路地裏の静寂は唐突に破られ、鼓膜を圧迫するような喧騒が四方から押し寄せてきた。
石畳を踏み鳴らす、無数の足音。
怒号。
そして、獲物を追い詰めた獣のような、下劣な歓喜の入り混じった声。
「いたぞ! 化け物だ!」
「王様に毒を盛って逃げ出した反逆者だ!」
松明の炎が、狭い路地に幾重もの影を躍らせる。
ラインハルトは、背後を石壁に塞がれた袋小路で、完全に包囲されていた。
群青色の礼服は、先ほどの子供たちの石礫による傷と、逃走の過程で付着した泥によって無残に汚れきっている。
群衆の最前列にいるのは、王都の近衛兵たちではない。
昼間、パレードで歓喜の涙を流し、彼に向かって花吹雪を撒き散らしていた一般の市民たちだ。
鍛冶屋、商人、酒場の主人、そして、かつて彼が魔物の群れから直接救い出したはずの農夫。
彼らの顔は、松明の赤い光に照らされ、狂気じみた高揚感で赤黒く上気している。
「みんな、気をつけろ! あいつは人を殺すことしか頭にない怪物だ!」
「俺たちの平和な街に、あんな危険な奴を置いておくわけにはいかねえ!」
口々に叫ばれる言葉の刃。
彼らは、ラインハルトが王族を暗殺しようとしたという、出処の知れない噂を狂信的に信じ込んでいる。
いや、真実などどうでもいいのだ。
彼らにとって重要なのは、「英雄」という手の届かない存在を、「反逆者」という絶対悪へと引きずり下ろすための大義名分が手に入ったという事実だけ。
彼がいない方が、自分たちの価値が上がる。
強すぎる力を排除することで、自分たちのちっぽけな安寧を絶対的なものにできる。
何万という人間の中で密かに醸成されていた無意識の悪意が、この瞬間、一つの巨大な奔流となってラインハルトへと殺到していた。
「やれ! 化け物を殺せ!」
誰かの合図と共に、雨あられと石が飛んでくる。
腐った野菜、泥、そして空き瓶。
ラインハルトは避けない。
大剣を抜くことすらしない。
彼が指一本動かせば、この脆弱な群衆など数秒で肉塊へと変えることができる。
だが、彼を縛り付けているのは物理的な拘束ではなく、絶望という名の絶対的な重力。
自分が命を懸けて守り抜いた世界が、これほどまでに醜悪な顔を持っていたという事実が、彼の肉体からあらゆる反撃の意志を削ぎ落としていた。
ゴッ、ドスッ。
鈍い音が連続して響く。
飛んできたレンガの破片が額を割り、生温かい血が視界を赤く染める。
木片が肩に命中し、礼服の生地が裂けた。
それでも、彼は壁に背を預けたまま、ただ無言で眼前の光景を見つめ続けている。
「ひるむな! 反撃してこないぞ!」
「見ろ、あの首にぶら下がってるの! 王様から騙し取った勲章だ!」
群衆の中から、数人の男たちが飛び出してきた。
酒の臭いと、汗の酸っぱい匂い。
彼らはラインハルトに群がり、その屈強な肉体を力任せに床へと引きずり倒す。
石畳に頬が打ち付けられた。
鼻腔を、冷たく湿った土の匂いが満たす。
「よこせ、こんな立派なもの、人殺しの化け物には似合わねえ!」
男の一人が、ラインハルトの首元へと乱暴に手を伸ばす。
純白のリボンが引き千切られ、鈍い音を立てて『白銀の勲章』が石畳の上へと転がり落ちた。
かつて栄誉の象徴であったその意匠は、すでにラインハルトの血と泥にまみれ、本来の輝きを完全に失っている。
「へへっ、いい値で売れそうだぜ」
「バカ野郎、そんな呪われたもん、触るんじゃねえ!」
別の男が、勲章を拾い上げようとした男の手を蹴り飛ばす。
その拍子に、勲章は石畳の上を滑り、群衆の足元へと弾き出された。
「踏み潰せ! 化け物の誇りごと、粉々にしてしまえ!」
無数の靴底が、次々と勲章の上に降り注ぐ。
ガリッ、ギチッ。
硬質な金属が削られ、形を歪めていく不快な摩擦音。
革靴、木靴、裸足。
あらゆる身分の、あらゆる人間の足が、狂気に憑かれたように一つの金属片を踏みにじり続ける。
ラインハルトは、石畳に押さえつけられたまま、その光景をただ静かに見つめていた。
踏みつけられるたびに、勲章の表面から微細な紫色の光が漏れ出している。
それは、彼自身の心が物理的な形を持って砕け散り、同時に、民衆の底なしの悪意を際限なく吸い込んでいる証でもあった。
「どうだ、悔しいか! これが俺たちの力だ!」
「もう誰も、お前のことなんか英雄なんて呼ばねえよ!」
男たちの下劣な嘲笑が、路地裏に反響する。
彼らはラインハルトの背中を、頭を、腹を、容赦なく蹴りつける。
骨が軋む音。
肺から空気が強制的に絞り出される感覚。
だが、その物理的な痛覚すら、もはや彼の心には届いていない。
(……これで、いい)
血と泥にまみれた視界の中で、ラインハルトは静かに目を閉じる。
群青色の礼服は破り捨てられ、誇りは完全に泥に沈んだ。
彼はこの時、世界を守るために必要なものが何かを、明確に理解したのだ。
正義の英雄などという脆い偶像では、彼らの狂気を繋ぎ止めることはできない。
すべての悪意を引き受け、永遠に憎まれる絶対的な標的。
『魔王』という名の、世界を維持するための生贄。
群衆の足元で、完全に形を失い、どす黒く変色した『白銀の勲章』が、最後の月光を吸い込んで鈍く明滅した。
それは、新たなる呪具が完全に覚醒した瞬間。
世界で最も孤独な魔王が産声を上げた、決定的な夜の記憶。
◇
脳髄を揺らすような高周波のノイズが、唐突に途切れた。
視界を埋め尽くしていた極彩色の残骸が、急速に色褪せ、元のカビ臭い暗闇へと還元されていく。
意識が、現在――魔王城の謁見の間へと完全に引き戻された。
ラインハルトの視界には、大剣を交差させたまま、肩で激しく息をするエドワードの姿がある。
彼の額に埋め込まれた『白銀の勲章』は、先ほどの記憶の奔流を逆流させた余韻からか、微かに暗褐色の瘴気を漂わせていた。
交差した刃の摩擦音が、凍てついた空間に小さく響く。
ラインハルトの鋼の篭手が、大剣の柄をゆっくりと握り直した。




