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聖遺物《レリック》は語らない――勇者殺しの九つの断片  作者: 水縒あわし
【第2章】 虚飾の勲章

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【第2章】 第11話



 吐き捨てられた唾液が、湿った石畳の上で白く泡立っている。


アルコールの混じったツンとする臭気が、夜風に乗って鼻腔を撫でた。


群青色の礼服をまとったラインハルトは、足元の汚濁を見下ろしたまま動かない。


 男の千鳥足の足音が、迷路のような路地の奥へと遠ざかっていく。


靴底が泥をこする不快な摩擦音。


それすらも完全に聞こえなくなるまで、彼は薄暗い影の中で立ち尽くしていた。


 大通りからは、いまだに自分をたたえる歓声と、リュートの軽快な音色が響いてくる。


光に満ちた祝祭の中心と、冷え切った路地裏の静寂。


分厚い石壁一枚を隔てただけで、世界はここまで残酷に反転する。


懐に収められた『白銀の勲章』が、まるで氷の塊のように心臓の熱を奪い続けていた。



(……)



 彼が命を賭して守り抜いたのは、この程度のものだったのか。


魔王という共通の脅威を失った人類は、膨れ上がった熱狂の矛先を、すぐさま次の標的へと向けようとしている。


『平和』という名の空白を埋めるための、新たな生贄いけにえ


それが、他でもない自分自身であるという事実。


 ラインハルトは、冷たい壁に背中を預けた。


目を閉じ、深く、重い息を吐き出す。



「――あっちだ! 裏路地の方に行ったぞ!」



 ふいに、幼い声が静寂を破った。


タタタタ、と軽い足音が、複数の軌道を描いてこちらへ向かってくる。


ラインハルトは目を開き、声のする方へと視線を向けた。


 ランタンの薄明かりの中に浮かび上がったのは、三人の子供たちだった。


すすけたシャツに、継ぎ接ぎだらけのズボン。


手には、木の枝や、どこかで拾ってきた錆びた鉄パイプを握りしめている。


魔王討伐の熱狂にあてられ、英雄ごっこに興じる王都の孤児たちだろうか。


 彼らは路地の角を曲がり、壁際に佇む巨漢の姿を認めて急ブレーキをかけた。



 息を呑む音。


子供たちの瞳が、ラインハルトの群青色の礼服と、背中に負った巨大な白銀の大剣に釘付けになる。


昼間のパレードで、彼らもまた、遠くからこの姿を見ていたはずだ。


憧れの英雄を前にした、純粋な歓喜。



……最初は、そうだった。



だが、数秒の沈黙の中で、子供たちの表情が劇的に変化していく。


 ランタンの光が下から照らし出すラインハルトの顔。


そこに、かつてのような温かな笑顔はない。


歴戦の死線を潜り抜けてきた者の、削り出された岩のような冷徹な輪郭。


大人たちでさえ本能的な怯えを覚えるその静かな威圧感が、敏感な子供たちの心に、得体の知れない警鐘を鳴らしたのだ。


 

「……化け物だ」



 一番背の低い少年が、かすれた声で呟いた。


彼が後ずさりをした瞬間、その言葉は伝染病のように他の二人にも波及する。


握りしめていた木の枝が、カタカタと震え始めた。


大人たちが酒場で囁き合っていた『強すぎる怪物』という言葉。


それが、無垢な子供たちの想像力の中で、恐ろしい実体となって膨れ上がっていく。



「や、やっつけろ! 英雄様みたいに!」



怯えを無理やり振り払うかのように、一人の少年が足元の石畳へと手を伸ばした。


彼の手が掴み取ったのは、鶏卵ほどの大きさを持つ、角の尖った石塊。


少年は大きく腕を振りかぶり、力の限りに石を投擲とうてきする。




ヒュッ、と。


 石が空気を裂く音が、ラインハルトの鼓膜を打った。


魔物の放つ光槍の速度に比べれば、それは止まっているも同然の緩やかな軌道。


首をわずかに傾けるだけで、容易にかわすことができる。


ラインハルトの身体は、微動だにしない。


 回避するための筋繊維は完全に沈黙し、一切の指令を拒絶していた。


彼の中で、何かが完全に折れ曲がってしまったのだ。


自分に向けて放たれたその石礫いしつぶてが、この世界からの決定的な『拒絶』の印に他ならないと、脳髄が理解してしまったから。



ゴッ。


鈍い音が、路地裏の空間に響いた。


尖った石の角が、ラインハルトの右頬を浅く抉り、背後の石壁へと弾かれていく。



 カラン、カラン……。


転がる石の乾いた音が、ひどくゆっくりと遠ざかっていった。



「当たったぞ! 逃げろ!」



自らの行いに戦慄せんりつしたように、子供たちは甲高い悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように駆け出していく。


バタバタという足音が、やがて大通りの喧騒の中へと完全に溶けて消えた。


 後に残されたのは、圧倒的な孤独と、頬に走る微かな熱。


ラインハルトは、無言のまま虚空を見つめている。


鋭利な痛覚が、遅れて神経を撫で上げた。


だが、その物理的な痛みなど、彼にとっては蚊に刺されたほどの意味も持たない。


彼をさいなむのは、もっと深く、取り返しのつかない崩壊の音。



 ザラ……ザラ……。


彼が胸の奥底で必死に守り抜いてきた、人間としての温かな感情。


それが、乾いた砂となってこぼれ落ちていく感覚。


信じていた正義も、命を懸けた意味も、すべてが無価値な灰となって摩滅まめつしていく。



ツーッ。


 傷口から溢れ出した一筋の血が、頬の曲線を伝って顎へと滑り落ちる。


生温かい赤い線。


それは首筋を這い、群青色の礼服の襟元へと吸い込まれていった。


 滴り落ちた血の雫が、彼の懐に収められていた『白銀の勲章』の表面に直撃する。



ピチャリ。


 硬質な金属と血液が衝突する、微細な水音。


曇り一つなかった純白の銀に、どす黒い染みが広がる。


それは、英雄という虚像が完全に破壊され、新たな『呪具』が産声を上げた合図でもあった。


ラインハルトの瞳の奥から、最後の光が完全に消え去る。



          ◇




 鼓膜を劈くような高周波のノイズが止み、視界の白光が弾け飛ぶ。


カビと鉄の匂いが、再び肺を満たした。


意識が、現在――魔王城の玉座の間へと一瞬にして引き戻される。


眼下には、両手で大剣を振り下ろした姿勢のまま、苦悶の表情を浮かべるエドワードの顔。


 彼の額に埋め込まれた『白銀の勲章』が、狂ったように暗褐色の光を明滅させている。


二人の剣が交差したゼロ距離。


勲章を通して流れ込んできた記憶の逆流は、現実の時間にしてわずか一秒にも満たない。



(……あの日の、残骸か)



 ラインハルトの喉の奥から、極めて低い、乾いた吐息が漏れた。


それは言葉を伴わない、純粋な絶望と虚無の響き。


自身の承認欲求を満たすためだけに、他者を泥に踏み躙る眼前の騎士。


 彼が後生大事に額へ掲げているのは、かつてラインハルトの心を削り取り、民衆の底なしの悪意を吸い込んだ醜悪な呪具だ。


その事実が、魔王の分厚い装甲の下で、絶対零度の殺意へと変換されていく。



「な、なぜだ……!」



エドワードの悲鳴じみた声が、玉座の間に響く。



「なぜ、私の剣が通じない! 私は、選ばれた英雄のはずだ!」



 彼の腕の筋肉は限界まで膨れ上がり、毛細血管がちぎれんばかりに脈打っている。


それでも、ラインハルトの大剣を押し込むことは愚か、数ミリたりとも後退させることはできていない。


圧倒的な、次元の違う質量の差。


ラインハルトは、交差させた刃を軸にして、ゆっくりと右の手首を返した。



 ギガァァァン!!


腹の底を揺らすような轟音。


ラインハルトの大剣が、エドワードの華美な長剣を根元から力任せに弾き飛ばす。


空気を叩き潰すほどの反発力に耐えきれず、エドワードの身体が宙に浮いた。


白銀の騎士は無様に後方へと吹き飛ばされ、大理石の床を何度か転がり、血溜まりの直前で辛うじて停止する。



「ガハッ……! あ、あぁ……」



 肺から空気を搾り出され、エドワードは床に這いつくばったまま激しく咳き込む。


彼の右手の平は摩擦で皮膚が裂け、手放した長剣は遥か遠くの石壁に突き刺さって微かな振動音を立てていた。


 ラインハルトは、大剣の切っ先を再び床へと下ろす。


重厚な金属音が、審判の始まりを告げるように鳴り響く。


彼は一歩、また一歩と、無様な姿を晒す虚飾の騎士へと歩みを進めた。


その足取りに、もはや一切の迷いはない。



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