【第2章】 第8話
鋼鉄と白銀が激突したゼロ距離の空間。
大気を震わせる轟音の余韻の中で、エドワードの額に埋め込まれた『白銀の勲章』が、意志を持ったかのように不気味な脈動を打った。
ドクン、ドクン。
それは、周囲の月光を吸い込むような暗褐色の淀みから、どす黒い光の奔流へと変質していく。
勲章の表面に刻まれた細かい意匠の隙間から、無数の怨嗟の声が漏れ出した。
『英雄殿、どうか我らをお救いください』
『だが、戦いが終われば、お前はただの化け物だ』
『さっさと死んで、綺麗な伝説になってくれ』
それは、魔王を討伐して王都へ凱旋したラインハルトに投げかけられた、民衆の身勝手な熱狂と、その裏側に隠された純粋な恐怖の集合体。
彼が世界を救った代償として受け取った、醜悪なルサンチマンの記憶そのものだった。
エドワードの歪んだ承認欲求――他者からの称賛と名声を際限なく渇望する空虚な器が、その呪いの引き金となったのだ。
ギィン、と。
金属同士が限界を超えて擦れ合う、鼓膜を劈くような摩擦音。
勲章から放たれた黒い光が、交差した剣身を伝ってラインハルトの漆黒の鎧へと流れ込む。
物理的な攻撃ではない。
それは、ラインハルト自身の奥底に封じ込めていた「あの日の記憶」を、暴力的にこじ開けるための鍵。
ラインハルトは、大剣の柄を握る手に力を込めようとする。
だが、指先の感覚が急速に薄れていく。
視界の端から、大理石の床も、砕けたステンドグラスも、眼下で顔を歪める白銀の騎士の姿も、水に溶けた絵の具のようにドロドロと輪郭を失っていった。
代わりに彼の網膜に焼き付けられていくのは、極彩色に彩られた王都のメインストリート。
降り注ぐ花吹雪と、鼓膜を圧迫するほどの熱狂的な歓声。
空を覆い尽くすほどの旗が風に舞い、数え切れないほどの人々が道の両脇を埋め尽くしている。
自身の視点は、現在の漆黒の兜越しではない。
生身の眼球が、その光景を真っ直ぐに捉えている。
魔王を討ち果たし、真新しい群青色の礼服に身を包んでパレードの馬車に揺られていた、あの眩い絶頂の日。
「万歳! 英雄ラインハルト万歳!」
「我らが救世主! よくぞ魔王を打ち倒してくださった!」
沿道を埋め尽くす民衆の顔には、歓喜の涙が光っていた。
彼らは両手を振り上げ、喉が裂けんばかりの声でラインハルトの名を叫び続けている。
その熱気は、数日前に王城の大宴会場で彼を取り囲んでいた貴族たちと同じもの。
だが、今の彼には、その歓声の裏に隠された「真実」がはっきりと見えていた。
彼らの笑顔の筋肉はひどく引き攣り、目は全く笑っていない。
馬車に向かって投げられる色鮮やかな花びらの中に、鋭い小石が混ざっていることに、ラインハルトは気付いていた。
(……)
ラインハルトの喉仏が、ゆっくりと上下する。
魔王という絶対的な脅威が消滅した今、民衆にとって最大の恐怖の対象は、その魔王をたった一人で討ち果たした「規格外の暴力」そのもの。
彼らは、自分たちを守ってくれる存在を求めているのではない。
ただ、自らの平穏な日常を脅かさない、都合の良い「安全な偶像」を欲しているだけなのだ。
パレードの馬車が、王城の巨大な正門をくぐり抜ける。
その先にある大広場には、豪奢な王衣を纏った国王と、高位の貴族たちがずらりと並んでいた。
彼らの顔にもまた、沿道の民衆と同じ、歪な笑みが張り付いている。
馬車から降りたラインハルトは、群青色の礼服の裾を翻し、王の御前へと歩みを進める。
周囲の歓声が、潮が引くようにスッと静まった。
「……真の英雄たるそなたに、我が国最高の栄誉である『白銀の勲章』を授けよう」
玉座に座る王の声は、微かに震えていた。
彼の合図を受け、青ざめた顔の大臣が恭しく豪奢なビロードの箱を差し出す。
箱の中に鎮座するのは、曇り一つない純白の輝きを放つ勲章。
それは、後にエドワードの額で濁った光を放つ呪具の、本来の汚れなき姿だった。
ラインハルトは無言のまま、片膝を突き、その勲章を受け取る。
王の瞳は、英雄の顔を決して直視しようとはしなかった。
せわしなく泳ぐ視線は、ラインハルトの背に負われた大剣の柄と、彼自身の分厚い筋肉の隆起の間だけを、怯えたように往復し続けている。
(俺の力から、目を背けている)
ラインハルトの胸の奥で、ひどく乾いた音が鳴る。
その白銀の表面に、冷たい王城の光が反射した。
この時はまだ、彼も、そして王たちも知る由はなかった。
この輝かしい栄誉の証が、間もなく民衆の底なしの悪意と石礫によって無残に叩き潰され、歪められる運命にあることなど。
強烈な目眩と共に、景色がぐにゃりと歪曲する。
王の顔も、歓声も、純白の勲章も。
すべてが泥のように溶け落ち、ラインハルトの意識はさらに深い、底なしの深淵へと引きずり込まれていった。




