【第2章】 第6話
巨大な両開きの扉が、重々しい金属の軋みを上げて内側へと押し開かれた。
長きにわたり閉ざされていた玉座の間に、大回廊から新たな空気が流れ込む。
その瞬間、ステンドグラスの隙間から吹き込んでいた冬の風が、不規則な渦を巻いて空間の塵を舞い上げた。
月光の帯が斜めに横たわる大理石の床へ、一つの影が足を踏み入れる。
カシャン、と。
極限まで研磨された鉄のブーツが、霜の降りた石畳を叩く。
現れたのは、鏡面のように光り輝く白銀の鎧を纏った騎士、エドワード。
彼の背後で翻る純白のマントが、薄暗い魔王城の最深部において、ひどく場違いなまでの華やかさを主張している。
「……なんという悪臭だ。呼吸器が腐り落ちてしまいそうだ」
エドワードは立ち止まり、懐から純白の絹布を取り出して鼻と口を覆った。
兜の面頬の奥で、彼の端正な眉間が深い不快感に歪む。
彼の視線は、真っ直ぐに玉座の主を捉えたわけではなかった。
その目は、床一面に広がる凄惨な光景へと向けられている。
足元から数メートル先。
そこには、首の骨を断ち切られた巨漢の傭兵の骸が、赤黒い水たまりの中に転がっていた。
周囲には、泥にまみれた王国の硬貨が無数に散乱している。
さらにその奥、台座の傍らには、暗褐色に変色し、どろどろとした瘴気を放ち続ける『黄金の恩賞袋』の残骸。
エドワードは絹布越しに、忌々しげな舌打ちを漏らす。
「貧民の強欲が行き着く先など、所詮はこの程度の汚泥に過ぎない。美しさの欠片もない、ただ見苦しいだけの肉塊だ」
彼は爪先立ちに近い不自然な歩幅で、床の血溜まりと散らばる呪貨を慎重に避けて進む。
その動作には、死者への悼みなど微塵も存在しない。
ただ、己の完璧な白銀の足元が、他者の流した不浄な血によって汚されることへの病的なまでの警戒があるだけだ。
玉座まで十数メートルの位置で、エドワードの足が止まった。
絹布を懐にしまい込み、彼は優雅な動作で右手を胸に当てる。
「待たせたな、世界の病巣よ。この私、最も気高く美しい騎士エドワードが、貴様のその薄汚れた歴史に終止符を打ちに来てやった」
よく通る、芝居がかった声が、分厚い石壁に反響する。
その響きには、絶対的な悪と対峙する者の悲壮感はない。
観衆のいないこの玉座の間にあってすら、彼は未来の歴史書に記されるであろう自身の英雄譚を演じ続けている。
玉座の上。
ラインハルトは、身じろぎ一つせずに座っていた。
漆黒の重鎧は、エドワードが放つ眩い光をすべて飲み込み、底なしの暗闇を形成している。
兜の奥の冷徹な双眸が、眼下の白銀の騎士を静かに見下ろしていた。
彼の視線は、エドワードが振り撒く過剰な自己陶酔の言葉を完全に素通りしている。
ラインハルトの意識を捉えて離さないのは、騎士の顔でも、その手にある華美な長剣でもなかった。
美しく磨き上げられた兜の額。
そこに埋め込まれた、ひどく歪な金属の塊。
『白銀の勲章』。
(……)
ラインハルトの胸の奥で、冷たい歯車が音を立てて噛み合う。
かつて、魔王討伐の最大の功労者として、王国の頂点から直接下賜された栄誉の結晶。
純白のリボンに吊るされ、鏡のように滑らかだったはずのその意匠は、今や見る影もない。
表面は焼け焦げた鉛のように変色し、周囲の月光すらも吸い込む呪具へと成り果てている。
網膜の裏側に、押し殺したような囁き声と、乾いた拍手の音がフラッシュバックした。
大謁見の間の豪奢な絨毯。
勲章を差し出す国王の、血の気を失って真っ白に染まった指の関節。
英雄の顔を決して直視しようとせず、背中に負った大剣と筋肉の隆起だけを怯えたように見つめていた濁った瞳。
あの時、彼らがラインハルトに与えたのは、感謝の証などではない。
自らの平穏を脅かす「強すぎる力」に首輪をつけ、都合の良い偶像として祭壇に縛り付けるための呪縛だったのだ。
そして今。
その勲章は、新たなる宿主の額で、不吉な脈動を打っている。
ドクン。
エドワードが言葉を紡ぐたび、暗褐色に濁った金属の表面が、まるで呼吸をするかのように微かに波打った。
「私の剣は光だ。この淀んだ空間を浄化し、完全なる正義を体現するための絶対の盾」
エドワードは両腕を広げ、天を仰ぐ。
その声の裏で、勲章から漆黒のオーラが漏れ出し、彼の鎧の表面を這い回っていく。
魔王領への道中で彼が振るった過剰な暴力。
他者を汚物として切り捨てる、冷酷な排他性。
エドワードの内に巣食う病的な自己愛と嫌悪感が、勲章という名のフィルターを通して、極限まで圧縮された魔力へと変換されている。
彼は自らを正義の体現者だと信じて疑わない。
だが、その正義の源泉が何であるかを、彼は全く理解していなかった。
「お前を討ち果たせば、世界は再び私の美しさに平伏すだろう。さあ、立ち上がれ魔王! 歴史の証人となる栄誉をくれてやる!」
鞘走る音が、張り詰めた空気を切り裂いた。
エドワードが長剣を上段に構え、その切っ先を真っ直ぐに玉座へと向ける。
鍔に散りばめられた宝石が、殺意を伴った青白い光を反射した。
ラインハルトは、ゆっくりと右手を動かした。
玉座の肘掛けから離れた鋼の篭手が、傍らに突き立てられた大剣の柄へと伸びる。
金属の継ぎ目が擦れ合う、ひどく無機質で重たい音。
彼は言葉を発しない。
自らの正義を声高に叫ぶ男に対し、反論を試みる意志すら湧いてこなかった。
他者の血と泥の上を歩きながら、自身の靴の汚れだけを気にする空虚な偶像。
彼が背負っているのは、世界を救う覚悟ではなく、ただの承認欲求の肥大化に過ぎない。
そんな者に、この玉座の重さが理解できるはずもないのだから。
大剣の柄を握る指先に、極限まで圧縮された力が静かに流れ込んでいく。
分厚い装甲の下で、限界まで引き絞られた筋肉の繊維が、硬い軋みを上げた。
視界の端では、『黄金の恩賞袋』の残骸が、次なる血を求めるかのように薄暗い瘴気を漂わせている。
ステンドグラスの隙間から、一段と強い冬の風が吹き込んだ。
エドワードの純白のマントが激しく煽られ、玉座の間の静寂が完全に飽和する。
その直前の、コンマ数秒の空白。
ラインハルトの喉の奥で、乾いた空気が擦れた。
それは言葉にもならない、ただの呼吸の欠片。
過去の幻想と、狂った世界のシステムに対する、深く、重い吐息が、漆黒の兜の奥から白く漏れ出た。




