【第2章】 第5話
大回廊の空気を、重く湿ったカビの匂いが満たしている。
青白い魔力光を宿した古びた燭台が、一定の等間隔で石柱の間に並び、エドワードの白銀の鎧を冷ややかに照らし出していた。
カシャン……カシャン……。
極限まで研磨された鋼鉄のブーツが、石畳を踏みしめる。
それは忍び歩きとは程遠い、己の存在を世界に知らしめるための行進。
一歩ごとに響く規則正しい金属音が、底冷えのする静寂を傲慢に切り裂いていく。
「見事な広さだ。この私が歩むレッドカーペットに相応しい」
エドワードは満足げに頷き、純白のマントを大きく翻した。
壁の両側に並ぶのは、かつてこの城の主であったであろう魔族たちの巨大な彫像群。
異形の姿をした石の顔が、それぞれ異なる武器を構え、通路の中央を睥睨している。
エドワードの足音が反響するたび、彫像たちの瞳孔のない目が、一斉に彼を追従しているような奇妙な感覚。
見えない視線の圧力が、彼の肌をチリチリと撫で上げる。
だが、彼は恐怖を感じるどころか、その視線を浴びて陶酔の笑みを深めた。
「見よ。かつての支配者たちですら、私の完璧な美しさから目を離せないでいる。この歴史の舞台で主役を張るのは、他でもないこの私なのだからな」
(……)
玉座の間で彼を待ち受けるラインハルトの鼓膜にも、その澄んだ足音は確かに届いていた。
それは、泥臭く這いずり回ったガルスの足音とは対極にある、洗練された狂気。
死地に赴く者の覚悟など欠片もなく、ただ己の虚飾を満たすためだけに突き進む、空っぽの音。
カシャン……カシャン……。
エドワードの歩みが、大回廊の中間地点に差し掛かる。
その時。
キィン……。
耳の奥を引っ掻くような、微細な金属音が鳴った。
それは、エドワードの鎧が擦れた音ではない。
彼の額に張り付いた『白銀の勲章』。
暗褐色に濁りきったその表面から、何かが漏れ出した音だ。
エドワードは足を止め、不快そうに眉間を寄せる。
「……何の音だ?」
彼は周囲を見回すが、彫像たちは沈黙を守ったままだ。
しかし、音は確かに聞こえる。
それも、遠くからではなく、彼自身の頭蓋骨のすぐ近くから。
クスクス……。
アハハハ……。
それは、金属音から次第に変質し、押し殺したような笑い声へと姿を変えていく。
数十、数百という男女の低い声が混ざり合った、陰湿な嘲笑。
「誰だ! 私の前で笑う無礼者は!」
エドワードが長剣を抜き放ち、虚空に向かって鋭く叫ぶ。
だが、声の主は姿を現さない。
代わりに、彼の網膜の裏側に、ある光景がフラッシュバックする。
彼が王都を出発する日の朝。
沿道に並んだ民衆たちが、彼に向けて放っていた熱狂的な歓声。
だが、今彼の脳内で再生される彼らの顔は、ひどく歪んでいた。
口元は歓喜の形を作りながら、その瞳の奥底に沈殿していたのは、強すぎる力への純粋な恐怖と、それを排除しようとする醜悪な打算。
『英雄殿、どうか我らをお救いください』
『だが、戦いが終われば、お前はただの化け物だ』
『さっさと死んで、綺麗な伝説になってくれ』
無数の声なき声が、エドワードの脳髄を直接揺さぶる。
額の勲章が、ドクン、と大きく脈打った。
「ち、違う! 私は英雄だ! 歴史に名を刻む、最も完璧な騎士だ!」
エドワードは両手で頭を抱え、狂乱したように叫ぶ。
彼自身の病的な自己愛と、勲章が吸い上げた民衆の悪意。
二つの歪んだ感情が衝突し、彼の精神を内部から徐々に蝕んでいく。
彼は血走った目で前方を睨みつけ、再び重いブーツを踏み出した。
「魔王……そうだ、魔王を討てばいい! そうすれば、すべての賞賛が私のものになる!」
カシャン、カシャン、カシャン!
規則正しかったはずの歩みが、急激にテンポを早める。
それはもはや行進ではなく、見えない恐怖から逃れるための無様な疾走。
大回廊の奥深く。
巨大な両開きの扉の向こう側から、絶対零度の冷気が音もなく漏れ出していた。




