【第2章】 第4話
天を衝くようにそびえ立つ、魔王城の威容。
ひび割れた巨大な外郭門の奥から、底冷えのする重い空気が絶え間なく這い出している。
それは、最奥の玉座に座る漆黒の魔王が放つ、絶対的な魔力の残滓。
門へと続く荒野の一本道。
白銀の甲冑を纏ったエドワードは、ぬかるむ荒野をようやく抜け、岩場の陰に繋いでいた豪奢な馬衣の純白の軍馬へと跨り直していた。
ブルルルルッ!
突然、軍馬が激しく嘶き、前足を高く跳ね上げる。
手綱が乱れ、エドワードの姿勢が大きく傾いた。
馬の瞳孔は限界まで見開かれ、口の端から大量の白い泡が吹きこぼれている。
城から漏れ出すラインハルトの魔力圧に、生物としての本能が完全に破壊されたのだ。
「落ち着け、この駄馬が! 私の完璧な行軍を乱す気か!」
エドワードは顔をしかめ、手綱を力任せに引き絞る。
しかし、狂乱した馬は主の命令など聞く耳を持たない。
前足を振り下ろして泥濘の中で暴れ回り、黒い泥水がエドワードの磨き上げられた白銀のすね当てに跳ねた。
ピチャリ。
その微かな汚濁の音が、彼の脳の奥で警鐘を鳴らす。
端正な顔立ちから、作られたような微笑みが完全に消え失せた。
美しい唇が醜く引き攣り、眉間に深いシワが刻み込まれる。
「……私の鎧を、汚したな」
鞘走る、冷たい金属音。
エドワードは腰の長剣を抜くや否や、一切の躊躇なく愛馬の首筋へと刃を振り下ろした。
肉を断ち、太い頸椎を叩き割る鈍い感触。
切断面から間欠泉のように噴き出す鮮血を、彼は身を捻って器用に避ける。
主を失った巨体が、重々しい音を立てて泥の中へと沈んでいった。
痙攣する馬の死骸を見下ろし、エドワードは懐から純白の絹布を取り出す。
「役に立たないばかりか、私に泥を跳ね飛ばすとは。これだから美しさを解さぬ獣は始末に負えない」
キュッ、キュッ。
すね当てに付着した泥を、彼は皮膚が削れるほどの力で執拗に拭き取る。
その瞳には、長年連れ添った乗騎への悼みなど微塵も存在しない。
ただ、己の完璧な姿を損なわれたことへの執着が、布を擦り付ける暴力的な速度に変換されている。
彼の額で、不規則に歪んだ『白銀の勲章』が、ドクンと不吉な脈動を打った。
不条理に振るわれた暴力と、対象を汚物として切り捨てる排他性。
エドワード自身の内奥から湧き上がる淀んだ感情を養分とするかのように、濁った金属の表面が一瞬だけ薄暗い光を反射する。
「まあいい。ここからは己の足で、この美しい白銀の軌跡を歴史に刻み込むとしよう」
エドワードは血と泥で汚れた布を放り捨て、城門へと歩み出す。
分厚い鉄のブーツが、荒野の泥濘を踏みしめた。
グチャ、ズズッ。
その足元に転がっているのは、馬の死骸だけではない。
泥の中に半ば埋もれるようにして、無数の人骨と腐りかけた肉塊が散乱している。
王国の紋章が削れた錆びた剣。
真っ二つに割れた粗末な鉄兜。
それらは、かつて魔王軍の侵攻を食い止めるため、この最前線で血を流し、誰にも知られることなく命を散らしていった名もなき兵士たちの残骸だ。
エドワードのブーツが、泥に塗れた頭蓋骨を無造作に踏み砕く。
メキッ、と乾いた音が鳴っても、彼の視線が下へ向けられることはない。
「聞くがいい、世界よ! 真の正義にして美の体現者たるこの私が、長きにわたる悪夢に終止符を打つ!」
よく通る、芝居がかった声が荒野に響き渡る。
彼の視線は、天を衝く魔王城の頂きよりもさらに高い場所――未来の歴史書に記されるであろう、己の輝かしい名声の幻影だけを見つめている。
泥にまみれ、誰かの明日を守るために死んでいった無数の骸の群れ。
その顔も名前も分からない沈黙の礎の上を、白銀の騎士は優雅なステップで踏み荒らしていく。
「歴史が私を待っている。光り輝く玉座こそが、私に相応しい」
城の奥深くから吹き抜ける冷たい風が、エドワードの純白のマントを大きく煽った。
踏み砕かれた兵士の骨の粉が、泥の中に静かに溶けていく。
果てしなく続く亡骸の道。
その暗闇の奥底で、絶対的な死を内包した漆黒の魔王が、ただ静かに次の供物を待ち受けている。




