【第2章】 第3話
空を覆い尽くす分厚い鉛色の雲が、太陽の光を完全に遮断している。
魔王城へと続く荒野は、ただ果てしなく、生命の息吹を拒絶するような枯渇した風景を広げていた。
乾いた風が吹き抜けるたび、細かな砂埃と正体不明の腐臭が鼻腔を突き刺してくる。
かつては緑豊かな王国の街道であったはずのその場所も、今ではひび割れた岩肌と、粘り気のある暗褐色の泥濘に支配されていた。
「まったく、信じられない悪臭だ。呼吸をするだけで肺が汚染されていく」
白銀の騎士エドワードは、鼻を覆うように純白の絹布を当てながら、忌々しげに舌打ちを漏らした。
彼の纏う鎧は、この淀んだ風景の中にあって、まるでそこだけ次元が切り取られたかのように異質な光沢を放っている。
計算し尽くされた曲面を持つ肩当て。
鏡面のように磨き上げられた胸甲。
足元に広がる泥濘を避けるため、彼は爪先立ちに近い不自然な歩幅で、ひどく神経質に歩みを進めていた。
(なぜこの私が、このような汚物の上を歩かねばならないのだ)
エドワードの美しく整った眉間に、深い皺が刻み込まれる。
彼にとって、この遠征は自らの圧倒的な栄誉を歴史に刻むための、華々しいパレードであるべきだった。
歓声と花びらに包まれた王都の石畳を歩くことこそが、彼に相応しい舞台。
足裏から革ブーツ越しに伝わってくる泥の粘つく感触は、彼の自尊心を容赦なく削り取っていく。
「早くあの玉座に辿り着き、魔王の首を落とさねばならない。私の完璧な白銀の歴史に、この泥の匂いが染み付く前に」
独り言のように呟きながら、彼は腰の剣の柄に手を添える。
柄頭に埋め込まれた特大の青玉が、周囲の薄暗さを跳ね返すように微かな光を反射した。
ズズッ。
前方の岩陰から、湿った摩擦音が鼓膜を打つ。
地面の泥が不自然に隆起し、そこから数匹の異形が這い出してきた。
四肢が歪に発達した、腐肉の塊のような魔物たち。
黄ばんだ牙の間から、粘着質な唾液をポタポタと垂れ流している。
「下等生物が。私の視界に入るな」
エドワードは優雅な動作で長剣を引き抜いた。
刃こぼれ一つない刀身が、空気を鋭く切り裂く。
彼は左手でマントの裾を巻き上げ、汚れを避けるように半歩だけ横へ滑った。
魔物の一匹が、地面を蹴って跳躍する。
鋭い爪が、エドワードの首筋を目指して真っ直ぐに突き出された。
白銀の軌跡が、虚空に滑らかな半円を描く。
剣閃は正確に魔物の胴体を捉え、その肉を容易く両断した。
だが、問題は魔物の命を絶ったことではない。
ビシャリ。
二つに裂かれた魔物の体内から、赤黒い体液が四方へ弾け飛ぶ。
その一滴が、エドワードの磨き上げられた胸甲の端に、小さな染みを作った。
「あ……」
エドワードの動きが、完全に凍りついた。
その視線は、自身の鎧に付着した暗褐色の汚物に釘付けになっている。
彼の端正な顔立ちから、先ほどまでの余裕のある笑みが完全に抜け落ちた。
「おのれ……」
声のトーンが、数段低く落ち込む。
首の血管が青黒く浮き上がり、彼の瞳孔が異常なまでに収縮した。
「よくも……よくも私の完璧な白銀を……!」
美しい騎士の面影は消失し、そこにあるのはただ、自身の領域を侵されたことに対する病的なまでの嫌悪。
残る魔物たちが一斉に襲いかかってくる。
エドワードはステップを踏まない。
泥を避けることすら忘れ、重い足取りで自ら魔物の群れの中へと突っ込んでいった。
長剣が振り下ろされる。
魔物の腕が飛び、頭部が砕ける。
だが、彼の剣撃はそこで止まらない。
肉塊となって地面に倒れ伏した魔物に対し、何度も、何度も刃を叩きつける。
「汚らわしい! 消えろ! 私の世界から消え失せろ!」
叫び声と共に、宝石の散りばめられた柄が血と泥にまみれていく。
すでに絶命している肉片を、さらに細かく切り刻む過剰な打撃。
骨が粉砕され、飛び散った破片が周囲の地面に突き刺さる。
返り血がエドワードの白銀の鎧に降り注ぐが、今の彼はそれに気付くことすらなく、ただ狂ったように剣を振り下ろし続けていた。
荒野の風が、濃密な血の匂いを巻き上げて通り過ぎる。
エドワードの荒い息遣いだけが、静まり返った空間に響いていた。
「はぁ……はぁ……」
彼は足元の肉の残骸を忌々しげに見下ろし、ようやく剣の動きを止める。
刃の表面には、どす黒い脂と肉片がべったりとこびりついていた。
その激しい汚れを見た瞬間、彼は弾かれたように懐から絹布を取り出す。
「拭わなければ。早く、早く綺麗にしなければ」
キュッ、キュッ、キュッ。
激しい摩擦音を立てながら、彼は狂ったように刀身を磨き始める。
血を吸った布はすぐに赤黒く染まり、拭い取る機能を持たなくなる。
彼は舌打ちをしてそれを投げ捨てると、別の真新しい布を取り出し、今度は鎧の汚れを削り取るように拭き始めた。
その時だった。
エドワードの兜の額に埋め込まれた『白銀の勲章』が、異様な気配を放ち始めた。
ドクン。
まるで脈打つ心臓のような、不吉な振動。
勲章の表面がかすかに波打ち、周囲の光を飲み込むような漆黒のオーラを纏い始める。
エドワードが振り撒いた過剰な暴力と、それに伴う狂気的な嫌悪感。
それらの淀んだ感情が、見えない管を通って勲章へと吸い上げられていくかのようだった。
かつて栄誉の象徴であったその金属が、今や全く異なる何かへと変質しつつあることを、エドワード自身だけが気づいていない
宿主の歪んだ精神を燃料とし、その魔力を際限なく肥大化させていく。
(……素晴らしい。私の力が高まっているのがわかる)
エドワードは布を動かす手を止め、うっとりと目を閉じた。
額から脳髄へと流れ込んでくる冷たい魔力の奔流を、彼は「英雄としての自身の成長」だと完全に信じ切っている。
自らの行いが正義であると疑わず、過剰な殺戮すらも正当化する。
その病的な自己愛こそが、この勲章を最も効率よく稼働させる鍵なのだと気付きもせずに。
「見ているか、魔王。この美しき白銀の輝きを」
彼は血に染まった数枚の布を泥の中へ踏みつけ、再び歩き出した。
彼が去った後の荒野には、原型を留めないほどに破壊された魔物の死骸と、汚れた絹布だけが残されている。
遙か前方、重く立ち込める雲の隙間から、黒ずんだ巨大な城の輪郭が姿を現した。
エドワードの足取りは、先ほどよりもわずかに速くなっている。
彼の額で、濁りきった勲章が、さらなる生贄を求めるように鈍い光を放ち続けていた。




