【第2章】 第2話
兜の奥の視界に、ほんの微かな既視感が滲み出す。
玉座の間の冷たい石壁が、遠い記憶の輪郭と重なり合い、一瞬だけ別の色彩を帯びた
鼻腔を満たしたのは、魔王城のカビの匂いではなく、乾いた土と獣の糞尿の臭い。
そして、人々のざわめきが波のように押し寄せてくる。
ラインハルトは、重さのない透明な観測者として、その空間の中央に立っていた。
そこは、魔王領の入り口に位置する辺境の宿場町。
風化した木造の建物が身を寄せ合うように建ち並び、吹き抜ける乾風が砂埃を舞い上げている。
広場の中央には、即席で積み上げられた木箱の壇。
その上に、白銀の鎧を纏ったエドワードが立ち、両腕を大きく広げていた。
「嘆くことはない、気高き民よ! この私が来たからには、魔王の脅威など明日には過去のものとなるだろう!」
よく通る、芝居がかった声。
彼は純白のマントを風に靡かせ、彫像のように完璧な角度でポーズを決めている。
木箱の周囲を取り囲んでいるのは、数十人の町民たちだ。
麻の服は土に汚れ、誰もが一様に頬が痩せこけ、目の下には濃い隈を作っている。
魔王領からの魔物の襲撃に怯え、日々の糧を得ることすら困難な生活。
彼らの瞳に宿っているのは、英雄への純粋な期待ではなく、藁にもすがるような切実な飢えだった。
「私の剣は光! 闇を切り裂き、貴方たちの明日を約束する絶対の盾である!」
エドワードの演説は続く。
だが、彼の視線は、眼下で震える民衆の顔を一度も捉えてはいなかった。
兜の奥の瞳がせわしなく追いかけているのは、群衆の最後尾に立つ数人の男たち。
豪奢な服を着た王室の書記官と、分厚い羊皮紙に羽ペンを走らせる教会の記録係だ。
エドワードが美しい言葉を紡ぐたび、彼らのペンが羊皮紙を擦る音がシャリシャリと鳴る。
その音が響くたびに、エドワードの口角が満足げに吊り上がっていった。
(……なるほどな)
透明な視界の中で、ラインハルトの喉の奥が微かに鳴る。
この騎士にとって、目の前の民が明日生き延びるかどうかなど、路傍の石以下の価値しかない。
彼が守ろうとしているのは、羊皮紙の上に記される「偉大なる英雄エドワード」という虚飾の文字列だけなのだ。
やがて、演説を終えたエドワードが木箱から飛び降りる。
群衆の中から、数人の町民がおずおずと彼に歩み寄った。
「あの、騎士様……どうか、うちの畑を荒らす魔物を……」
「触るなッ!」
泥だらけの手を伸ばした老人の腕を、エドワードは鞘に収まった剣の柄で激しく打ち払った。
ゴツッ、と鈍い音が響き、老人が砂埃の中に転がる。
「私の鎧に泥がつくではないか! 気安く近寄るな、下民ども!」
エドワードは顔を歪ませ、懐から純白の絹布を取り出して鎧の表面を狂ったように拭き始める。
先ほどまでの慈愛に満ちた声はどこにもない。
突き放された民衆たちは、地面に倒れた老人を助け起こすこともせず、ただ無言で一歩、二歩と後退した。
彼らの瞳の奥で、すがりつくような光が急速に冷え、得体の知れない濁った色へと変質していく。
その民衆の顔。
その暗い視線。
ラインハルトの胸の奥で、封じ込めていた古傷がギリリと音を立てて軋んだ。
かつて、王都の広場で自分に向けられたあの眼差し。
期待が外れた瞬間に、容赦なく手のひらを返し、英雄を怪物として排斥しようとする人間の防衛本能。
集合無意識の悪意【ルサンチマン】。
エドワードの振る舞いが、民衆の心に静かな火種を落としている。
書記官の羽ペンが羊皮紙を擦る音が、次第に耳障りなノイズとなって空間を満たし始めた。
ラインハルトの視界の端で、砂埃が不規則な渦を巻き始める。




