【第2章】 第1話
玉座の間に広がるのは、死の冷たい残り香。
先ほどまで巨漢の傭兵が這いずり回っていた血の海は、大理石の床の上でゆっくりと温度を失い、赤黒い染みへと変わりつつある。
ステンドグラスの隙間から吹き込む冬の風が、カビと鉄の匂いを攪拌していた。
ラインハルトは、玉座に深く腰を沈めたまま微動だにしない。
彼の視線の先には、闇の奥へと続く長く薄暗い大回廊が口を開けている。
カシャン……カシャン……。
規則正しく、寸分の狂いもない金属の歩み。
それは静寂の底を這うような音ではなく、自らの存在を誇示するかのように、意図して反響させられた足音。
一歩進むごとに、極限まで研磨された鋼鉄同士が触れ合い、澄んだ高い音を立てている。
やがて、回廊の奥から一つの影が姿を現した。
否、それは影と呼ぶにはあまりにも眩しすぎる存在。
第二の志願者が、青白い月光の帯の中へと足を踏み入れる。
全身を覆うのは、鏡面のように磨き上げられた白銀の鎧。
兜、胸当て、手甲、そしてすね当てに至るまで、一切の曇りも許さない完璧な光沢を放っている。
ステンドグラスから差し込む光を乱反射し、彼の周囲だけが白昼のように輝きを帯びていた。
「ああ、なんて忌まわしい。空気が腐敗している」
兜の面頬の奥から、ひどく甘ったるく、しかし神経質な声が響いた。
白銀の騎士は、玉座の間を見渡し、大げさに肩をすくめる。
彼の視線は玉座の魔王ではなく、床に広がる血の海と、事切れたガルスの巨体に向けられていた。
「これだから野蛮な輩は困る。美しさというものを全く理解していない。このような汚物の中で死を迎えるなど、私には到底耐えられない悲劇だ」
騎士は、血溜まりを避けるように、爪先立ちに近い不自然な歩幅で歩みを進める。
純白のマントが床の汚れに触れないよう、左手で優雅に裾を跳ね上げていた。
その動作の端々から、過剰なまでの自己愛と他者への見下しが滲み出ている。
「おっと、いけない」
ふいに、騎士の足が止まった。
彼は懐から純白の絹布を取り出すと、右腕の装甲を熱心に拭き始める。
そこには肉眼で確認できるような汚れなど一切ない。
それでも彼は、空気中の目に見えない塵すら許容できないというように、布を滑らせていく。
キュッ、キュッ。
「常に完璧であらねば。この美しい白銀こそが、私の正義の証明であり、圧倒的な名声の象徴なのだから」
(……)
ラインハルトの兜の奥で、冷徹な双眸がその異常な所作を静かに捉え続ける。
彼自身もかつては、光り輝く鎧を纏い、民衆の前で英雄として振る舞った時期がある。
だが、眼前の男が発しているのは、人々を守るための誇りではない。
ただ己を飾るための、空虚で病的なまでの自己陶酔。
絹布を懐にしまい込み、騎士は再び歩き出す。
「自己紹介が遅れたね、魔王。私の名はエドワード。世界で最も気高く、そして最も美しい騎士だ」
エドワードは玉座から十数メートルの位置で立ち止まり、優雅な一礼を披露する。
装甲の擦れる音が、まるで計算された音楽のように響いた。
しかし、その洗練された動きとは裏腹に、彼から放たれる魔力には泥のような粘り気が混じっている。
ラインハルトの視線が、エドワードの頭部へと真っ直ぐに向けられる。
美しく磨き上げられた兜。
その額の中央に、一つの飾りが埋め込まれていた。
周囲の光り輝く白銀とは決定的に異質な、ひどく歪な金属の塊。
『白銀の勲章』
かつては国家の最大の功労者にのみ与えられる、栄誉の結晶だったはずのもの。
だが今のそれは、表面がどす黒く変色し、まるで焼け焦げた鉛のように濁りきっていた。
まるで内側から何かを吸い続けているかのように、周囲の光すらも飲み込んでいく
勲章の縁は不規則に歪み、内側から何か恐ろしいものが這い出ようとした痕跡すらある。
光を反射するどころか、周囲の月光すらも吸い込み、底なしの暗闇を形成する呪具。
エドワード自身は、己の額に張り付いたその醜悪な呪いの存在に全く気づいていないようだ。
「お前を討てば、私は歴史上類を見ない最高の栄誉を手に入れる。すべての民衆が私を讃え、王すらも私に傅くだろう」
陶酔に満ちた声が、玉座の間に反響する。
「想像するだけで身震いがする。この完璧な白銀の歴史に、魔王討伐という最高の金字塔が打ち立てられる瞬間を!」
エドワードは両腕を広げ、恍惚とした表情を隠そうともしない。
その言葉の裏で、額の『白銀の勲章』がドクン、と脈打つように嫌な振動を放った。
名声への果てしない渇望。
その歪んだ欲望を養分として、勲章は静かに、しかし確実に何かを蓄積し続けている
ラインハルトは、玉座の肘掛けに置いていた右手をゆっくりと動かした。
関節部の鎖帷子が微かに鳴る。
傍らに突き立てられた大剣の柄。
その冷たい革の感触が、鋼の篭手を通して指先に伝わってきた。
彼は言葉を発しない。
眼前の男がどれほど自己の美しさを語ろうと、どれほど名声を渇望しようと。
彼にとって、それは路傍の石の囁きと同義。
世界の理不尽を背負うと決めた男の心には、一片の波紋すら起こさない。
ただ、物理的な障害物を排除するための機構として、肉体が静かに起動を開始する。
「さあ、見せてやろう。私の美しく、絶対的な剣技を!」
エドワードが腰の鞘から長剣を引き抜いた。
鍔に宝石が散りばめられた、実戦用とは思えないほど華美な武器。
しかし、その刀身に込められた魔力は、決して見掛け倒しではない。
空間を切り裂くような鋭い剣気が、血の匂いを真っ二つに分断してラインハルトへと迫る。
ラインハルトは玉座から腰を上げない。
ただ、大剣の柄を握る右手に、極限まで圧縮された力を流し込んでいく。
兜の奥の暗闇が、白銀の騎士のわずかな重心のブレを正確に捉え続けている。
ステンドグラスの隙間から、冷たい冬の風が吹き込んだ。




