【第1章】 第14話
血の海と吐瀉物にまみれ、ガルスは無様に床を這いずっていた。
粉砕された右膝はもはや使い物にならず、這って進むたびに折れた骨の断面が神経を苛み、絶叫を強要する。
「あ、あぐっ……ヒィィッ……!」
彼は血走った眼球を背後に向けた。
漆黒の重鎧が、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてくる。
大理石の床を踏みしめる重々しい鉄のブーツの音が、彼の鼓膜で死刑宣告の鐘のように鳴り響いていた。
(……なんで、俺が)
彼はこれまで、金さえあれば何でもできると信じて疑わなかった。
傭兵として泥水を啜り、他人の命を奪い、時には味方を盾にしてでも手に入れたかった黄金。
あの『黄金の恩賞袋』こそが、世界で最も価値のある最上級の宝だと思い込んでいたのだ。
だが、違った。
あれは、英雄を陥れるための卑劣な凶器であり、彼自身の強欲を際限なく膨張させるための呪具に過ぎなかった。
(クソッ……こんなもん……!)
ガルスは這いずる腕を止め、腰元の残骸へと手を伸ばした。
真っ二つに裂け、中身を吐き出した暗褐色の革袋。
彼は血に濡れた指で、袋を繋ぎ止めていた残りの鎖を強引に引き千切る。
鈍い音を立てて、呪いの塊が床へと転がり落ちた。
「ほ、ほらよ! こんな呪われた袋、くれてやる! 俺はもういらねえ!」
ガルスは狂ったように叫びながら、再び前へと這い進もうとする。
だが、その瞬間。
ズズン、と。
背後に投げ捨てたはずの革袋が、不吉な重低音を響かせた。
なめし革の毛穴という毛穴から、どろどろとした紫色の瘴気が溢れ出す。
それは無数の見えない手へと形を変え、床を這ってガルスの足首へと絡みついた。
「な……ッ!?」
極寒の氷を直接押し当てられたような、鋭い冷たさ。
ガルスの動きが、完全に停止する。
彼が自らの欲望を満たすためにかき集め、無造作に放ち続けてきた呪いが、今度は彼自身の逃走を許さない足枷となったのだ。
「離せ! 離しやがれ、このクソッタレがァッ!」
彼は左足で激しく宙を蹴り、見えない呪縛を振り解こうと暴れる。
だが、その抵抗は虚しく、絡みついた瘴気は彼の肉体を内側から急速に侵食していく。
ジュウ、と肉の焦げる嫌な音が響いた。
呪貨に込められた死者の未練と猛毒が、細胞を壊死させていく。
強靭な傭兵の筋肉が、まるで熱に溶ける蝋のように崩れ落ち、黒い灰となって床に散らばっていく。
「助けて……助けてくれ……俺の……金……」
薄れゆく意識の中で、ガルスは血走った眼球を動かした。
彼の視線の先、数メートル離れた場所。
そこには、切り裂かれた革袋からこぼれ落ちた金貨の山が、青白い月光を反射して鈍く光っている。
泥と血にまみれた、王国の紋章。
その表面にべったりと付着した、暗殺者の毒の残骸。
彼が世界で最も価値があると信じ、命を懸けて追い求めた黄金の正体。
(俺の……)
彼は震える右腕を伸ばし、床に散らばる金貨を拾い集めようとする。
だが、その指先が金属に触れるよりも早く、彼の視界全体を巨大な影が覆い尽くした。
漆黒の重鎧。
最強の魔王、ラインハルト。
彼の手には、刃こぼれ一つない白銀の大剣が握られている。
兜の奥の冷徹な双眸が、眼下で這いずる巨漢を静かに見下ろしていた。
その視線には、怒りも、憐憫も存在しない。
ただ、自らを裏切った世界のシステムと、それに踊らされた愚かな人間の末路を、静かに見届けるだけの鏡面。
ラインハルトの右腕が、ゆっくりと持ち上がる。
大剣の切っ先が、ガルスの首筋へと正確に向けられた。
玉座の間を支配する絶対零度の静寂の中で、金属と革がこすれ合う微かな音だけが響く。
重力と遠心力を味方につけた刃が真下へと振り下ろされる。
圧倒的な死の軌道。
骨と肉を断ち切る、ひどく鈍い音。
鮮血が間欠泉のように噴き出し、青白い月光の帯を赤く染め上げた。
ガルスの巨体が、ビクンと一度だけ大きく跳ねた後、完全に力を失って床に崩れ落ちる。
彼の顔に張り付いていた強欲の光は、すでに完全に消え去っていた。
そこにはただ、見開かれたままの濁った瞳が、虚空を見つめているだけだった。
ラインハルトは、大剣の刃に付着した血を無造作に振り払う。
血飛沫が、床の大理石に赤い斑点を作っていく。
彼はゆっくりと踵を返し、自らの玉座へと向かって歩き出した。
その背中で、床に散らばった金貨が、月光を反射して冷たくきらめいている。
血を吸い、死を喰らう『黄金の恩賞袋』の残骸。
それはもはや、誰の欲望を満たすこともなく、ただそこに転がっているだけの無価値な金属片に過ぎなかった。




