【第1章】 第13話
網膜を焼き尽くすほどの光の奔流が、急激に収束していく。
鼓膜の奥で荒れ狂っていた雨音と、凄惨な肉の潰れる音がふっと遠のいた。
代わりに肺の底へとなだれ込んできたのは、分厚い氷盤のような絶対零度の冷気と、古城特有のカビの匂い。
強制的に引き伸ばされていた時間の感覚が、唐突に現実の速度を取り戻す。
ガルスは、大理石の床に両膝をついたまま、激しく咳き込んでいた。
脳髄を直接かき回されたような、強烈な目眩と平衡感覚の喪失。
視界がぐらぐらと揺らぎ、焦点が定まらない。
彼の目の前には、真っ二つに裂け、中身を吐き出した『黄金の恩賞袋』の残骸が転がっている。
その表面に施された金糸の刺繍は、もはや豪奢な装飾などではない。
無数の殺意と裏切りの血を限界まで吸い込み、おぞましい暗褐色に変色した、ただの呪いの塊だ。
「オ、オォェッ……!」
喉の奥から、胃酸のきつい臭いを放つ液体が逆流する。
ガルスは床に両手をつき、胃の中身を派手にぶちまけた。
涙と鼻水にまみれた顔を上げることができない。
彼が今、袋を通じて強制的に「見せられた」もの。
それは、英雄ラインハルトが味わった、人間の最も醜悪な感情の煮凝りだった。
彼はこれまで、金こそが世界の真理だと信じて疑わなかった。
傭兵として泥水を啜り、他人の命を奪い、時には味方を盾にしてでも手に入れたかった黄金。
この革袋に詰まっていた金貨は、その最上級の価値を持つものだと思い込んでいたのだ。
だが、違った。
あれは、偉業に対する報酬などではない。
平和を謳歌する者たちが、都合よく利用し尽くした存在を処分するための「猛毒」。
自分たちを救った恩人に牙を剥く、純粋な悪意。
その底なしの汚物を、自分は「宝」だと勘違いし、後生大事に腰にぶら下げていたのだ。
床に散らばった無数の硬貨が、視界の端で鈍い光を放っている。
数分前までなら、這いつくばってでも拾い集めようとしたはずのその輝きが、今はひどくおぞましいものに見える。
硬貨の表面に刻まれた王国の紋章が、まるで自分を嘲笑う亡者の顔のように歪んで迫る。
指先が微かに触れるだけでも、あの血生臭い宴会場の記憶が、再び脳髄を焼き尽くしそうだ。
「ヒッ……ァ……」
ガルスは、散乱する呪貨から逃れるように、血まみれの床を這いずって後ずさりしようとする。
だが、太い腕の筋肉が痙攣を起こし、思うように身体を支えることができない。
震えで肉体が硬直しているだけではない。
背後から、圧倒的な質量の影が、ゆっくりと彼の上に被さってきていた。
ラインハルトは、無言のまま大剣を下げて立っている。
兜の奥の暗闇は、自身の吐瀉物にまみれて震える巨漢を静かに見下ろしていた。
彼の内側でどのような思いが渦巻いているのか、分厚い装甲の外からは一切窺い知ることはできない。
ただ、大理石の床を踏みしめる重々しい鉄のブーツの音が、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
カツン。
刃こぼれだらけの大剣の切っ先が、床の石畳を擦った。
その微かな摩擦音が、ガルスの鼓膜には死刑宣告の鐘のように響く。
「く、来るな……ッ!」
ガルスは弾かれたように腰元を探る。
しかし、そこにあるのは無残に引き裂かれた革の残骸だけだ。
武器となるはずの呪貨は、すべて床に散らばり、彼の手の届かない場所にある。
いや、仮に手の届く場所にあったとしても、今の彼にはそれを掴む意志など残されていなかった。
漆黒の魔王が、目の前まで迫る。
見上げるような巨躯が放つ、無意識の魔力圧。
それは、世界中から憎悪を集め、一人で背負い込むことを選んだ男の姿だ。
国の上層部に踊らされ、薄汚い欲望のままにここへやってきた自分とは、存在の次元が違う。
「俺は……俺はただ、金が……」
言い訳にもならないうわ言が、ひび割れた唇からこぼれ落ちる。
ラインハルトの足が止まった。
彼は大剣を右手に持ち直し、その刃をゆっくりと持ち上げる。
荒々しい殺意はない。
ただ、空間の均衡を取り戻すための、ひどく事務的で冷徹な動作。
空気が、鋭く鳴った。
振り下ろされた大剣の平が、ガルスの右膝を正確に捉える。
鋭利な刃による斬撃ではない。
圧倒的な質量と、極限まで練り上げられた筋力による、純粋な打撃。
メチャッ。
分厚い革のズボン越しに、膝蓋骨が粉々に砕け散る悍ましい音が玉座の間に響き渡る。
関節の構造が完全に破壊され、右足が不自然な方向へと折れ曲がった。
「ギ、ガァァァァァァッ!!」
一拍遅れて、脳髄を貫くような痛覚がガルスの全身を駆け巡る。
彼は両手で右膝を抱え込み、肺の空気をすべて絞り出すような絶叫を上げる。
大理石の床を転げ回り、自身の吐き出したものと血の海にまみれてのたうち回る。
ラインハルトは、その無様な姿をただ静かに見下ろしている。
追撃の刃を振り上げることはない。
立ち上がる足を奪われ、逃げることも戦うこともできなくなった男に対し、これ以上の暴力を振るう必要性を認めていないのだ。
玉座の間を支配する静寂の中に、ガルスのくぐもった呻き声だけが反響する。
天井のステンドグラスから差し込む青白い月光。
その光の帯の中で、価値を失った王国の硬貨が、主の鮮血を浴びて鈍くきらめいていた。




