【第1章】 第12話
窓ガラスを叩きつける雨の振動が、血の海と化した大理石の床を微かに揺らしている。
刃こぼれだらけになった長剣の切っ先から、暗赤色の液体が糸を引いて垂れ落ちていた。
致死の猛毒は依然として全身の血管を焼き回っているはずなのに、痛みはすでに限界を越え、極寒の氷の底に沈んだような鈍い麻痺へと変わっている。
「な、何を出し惜しみしている! 奴をここで殺さねば、我々の首が飛ぶのだぞ!」
二階のバルコニーから、喉が裂けんばかりの絶叫が響いた。
顔面を蒼白に引き攣らせた財務大臣が、身を乗り出して暗闇へと指示を飛ばしている。
シャンデリアの光が届かない部屋の四隅。
そこから、泥が染み出すようにして新たな気配が這い上がってきた。
王室が飼い慣らした、存在しないはずの暗殺部隊。
光を反射しない特殊な短刀を構えた黒装束の群れが、床の血溜まりを踏む音すら立てずに間合いを詰めてくる。
一陣の風。
背後から首筋を狙う、完全な無音の軌道。
ラインハルトは振り返ることなく、右手に握った長剣を背後へと跳ね上げた。
硬質な衝突音。
直後、酷使に耐えきれなくなった安物の鋼鉄が、甲高い悲鳴と共に空中で粉々に砕け散った。
暗殺者の目元に、微かな油断の色が浮かぶ。
だが、その視線は次の瞬間、驚愕に見開かれることとなった。
ラインハルトの左の鋼の篭手が、暗殺者の顔面を真っ直ぐに鷲掴みにしていた。
一切の魔力を排した、ただの純粋な握力。
分厚い装甲の下で、限界まで引き絞られた筋肉の繊維が軋む。
頭蓋の骨がメシリと嫌な音を立てた。
彼はそのまま暗殺者の身体を宙へ持ち上げ、大理石の床へと思い切り叩きつける。
肉が弾け、肺に詰まった空気が一気に吐き出される。
彼は身を沈め、倒れ伏した胸郭を軍靴で容赦なく踏み抜いた。
血飛沫が、勢いよく頭上へと舞い上がる。
だが、その生温かい液体の軌道は、明確に物理法則から逸脱していた。
重力に従って床に落ちるはずの赤い飛沫が、空中でぴたりと静止する。
そして、見えない糸に強く引かれるように、空間の一点へと吸い寄せられていった。
破壊されたテーブルの残骸の横。
王から下賜された、あの真新しい革袋。
飛沫が表面に触れた瞬間、ズズン、と袋が不吉な重低音を響かせた。
なめし革の毛穴という毛穴が、意志を持った生き物のように開閉し、付着した血を貪欲に内部へと飲み込んでいく。
美しい金糸の刺繍が、ドロリとした暗褐色へと急速に変色していく。
四方から同時に、新たな暗殺者たちが躍りかかる。
狙うは心臓、頸動脈、そして膝の腱。
ラインハルトの瞳に、焦りの色は微塵も存在しない。
迫る短刀の刃をすれすれで見切り、がら空きになった首元へと右の手刀を叩き込む。
喉笛が潰れる音。
そのまま腕を絡め取り、関節の可動域を完全に無視してへし折る。
吹き出す血が、またしても不自然な曲線を描き、一直線に革袋へと吸い込まれていった。
殺戮の連鎖。
素手で肉を引き裂き、骨を砕くたびに、空間に滞留する血の匂いが極限まで濃縮されていく。
床に広がっていた近衛兵たちの血の海すらも、まるで時間を巻き戻すかのように逆流を始めていた。
幾筋もの赤い川が床を這い、袋の底面へと次々に吸収されていく。
他者を蹴落とす欲望、保身への執着、そして強すぎる力を排除しようとする殺意。
人々の内に沈殿していた感情が、猛毒と混ざり合い、物理的な質量を持った『呪い』として袋の中に凝縮していくのだ。
ズズン、ズズン。
袋の輪郭が、まるで脈打つ心臓のようにグロテスクな膨張と収縮を繰り返す。
その光景は、ラインハルト自身の切り捨てた人間としての温かな心が、そのまま真っ黒な呪いの塊へと変換されていく儀式のようでもあった。
最後の暗殺者の首が、奇妙な角度に折れ曲がる。
力なく床に落ちる肉塊の音。
バルコニーからは、もはや何の指示も聞こえてこない。
見上げれば、財務大臣が口から泡を吹き、白目を剥いて完全に失神していた。
大宴会場を支配しているのは、窓を叩く雨音だけ。
ラインハルトは、血に濡れた鋼の指先をゆっくりと下ろした。
兜の奥の視線が、足元の床に向かう。
そこには、原型を留めないほどに膨れ上がり、完全に真っ黒に染まりきった歪な革袋が転がっている。
最初の『聖遺物』
『黄金の恩賞袋』が、産声を上げた瞬間だった。




