【第1章】 第10話
王城の最も奥深く。大宴会場を満たしているのは、鼓膜を圧迫するほどの喧騒と熱気だ。
天井から吊るされた巨大なクリスタルのシャンデリアが、何百もの蝋燭の光を乱反射し、室内を白昼のように照らし出している。
部屋の中央を貫く長机には、香草をふんだんに擦り込まれた仔羊の丸焼きや、宝石のように色鮮やかな南国の果実が、これ見よがしに山のように積まれていた。
肉から滴る濃厚な脂の匂いと、年代物の赤ワインが放つ芳醇な香りが混ざり合い、広大な空間の隅々にまで立ち込めている。
壁際に配置された楽団が奏でる軽快な弦楽器の音色は、人々の高い笑い声にかき消され、もはや断片的なリズムとしてしか耳に届かない。
その熱狂の中心に、一人の青年が座っている。
ラインハルトは、刃こぼれだらけだった重鎧を真新しい群青色の礼服に着替えていた。金細工の施された杯を片手に、その口元は柔らかく緩んでいる。
彼の周囲には、豪奢なドレスや仕立ての良い軍服に身を包んだ貴族たちが何重にも人垣を作り、次々と祝いの言葉を投げかけてくる。
「いやはや、見事な太刀筋であったと伺っておりますぞ。まさに一騎当千!」
「我が国の誇り、いや、全人類を救った真の救世主だ!」
押し寄せる称賛の波に対し、彼はただ静かに頷き、口角を上げる。
つい数日前まで顔にこびりついていた死臭や泥の汚れは、すっかり洗い流されている。
胸の奥で常に燻っていた焦燥感も、今はもうない。
流した血の分だけ、世界は平和という確かな形になって報いてくれたのだと、彼は信じていた。
ふと、卓上の銀食器に視線が落ちる。
そこに反射する群衆の姿が、微かな違和感として網膜に張り付いた。
誰もが彼を称え、満面の笑みで拍手を送っている。
しかし、彼らの肩は不自然なほど強張り、ワイングラスを持つ指先は小刻みに震えていた。
笑い声を上げる口元の筋肉はひどく引き攣り、目が全く笑っていない。
煌びやかな絹のドレスが擦れ合う音が、まるで威嚇する蛇のひずみ声のように鼓膜を撫でる。
そして何より、彼を見つめる瞳の奥には、得体の知れない猛獣の檻を覗き込むような、濁った色合いが沈殿していた。
(……)
ラインハルトの喉仏が、ゆっくりと上下する。
魔物を屠り続けた規格外の武力は、脅威が去ったこの平和な空間においては、ただの異質で危険な暴力でしかないのか。
その冷酷な事実が、目に見えない薄い膜となって、彼と周囲の人間たちを明確に隔てている。
楽団の奏でるテンポが、ほんの少しだけ遅くなったように感じられた。
「英雄殿。王より、特別な恩賞の品がございます」
ふくよかな体付きをした財務大臣が、恭々しい足取りでテーブルへと近づいてくる。
その両手に重々しく掲げられていたのは、豪奢な金糸の刺繍が施された分厚い革袋。
『黄金の恩賞袋』
王国の財をかき集め、未来永劫の安泰を約束するという触れ込みのそれは、純白のテーブルクロスの上に置かれた瞬間、ズシリとひどく重い音を立てた。
硬貨同士がぶつかり合う軽やかな金属音ではない。
もっと密度の高い、砂袋でも落としたかのような鈍い響き。
「民からの、ささやかな感謝の印です。どうか、その手で開けてお確かめを」
大臣の額から、脂汗がツーッと滑り落ちる。
彼はラインハルトと決して視線を合わせようとせず、そそくさと数歩後ろへ退いた。
周囲の喧騒が、潮が引くようにスッと静まる。
ラインハルトは立ち上がり、革袋の太い結び目に指を掛けた。
なめし革の滑らかな表面が、妙に冷たく指先に張り付く。
結び目を解き、袋の口を大きく開く。
チクリ。
右手の示指を、極めて微小な痛みが貫いた。
それは、硬貨の丸みを帯びた角に触れた感触ではない。
もっと鋭利で、悪意に満ちた針の先端が、肉の奥に深く食い込んだ感覚。
ラインハルトの太い眉が、わずかに寄る。
革袋の中には、王国発行の金貨がぎっしりと詰め込まれていた。
だが、その黄金の表面は、黒く濁った粘液によって無惨に汚れ切っている。
そして金貨の山の間には、同じ粘液を塗られた無数の鋼の針が、罠として巧妙に仕込まれていたのだ。
鼻を突く、薬品の甘い匂い。
刺された指先の毛細血管から、急速に熱が奪われていく。
砕けた氷の破片を直接血管に流し込まれたような、強烈な痺れ。
それは瞬く間に手首を駆け上がり、肘を抜け、心臓の鼓動を不規則で暴力的なリズムへと狂わせ始める。
(毒、か)
視界の輪郭が、水面のようにぐにゃりと歪曲した。
膝からごっそりと力が抜けそうになるのを、テーブルの端に左手をついて無理やり堪える。
大理石の縁を掴む指の爪が、白く変色するほどに軋んだ。
呼吸がヒュッと甲高い音を立て、肺の奥が燃え盛る鉄を押し当てられたように焼け焦げる。
「やれッ!」
限界まで張り詰めていた静寂を破り、大臣の金切り声が空間に響き渡った。
それを合図に、周囲を遠巻きに取り囲んでいた近衛兵たちが一斉に剣を抜く。
金属が鞘を擦る、連続した鋭い摩擦音。
シャンデリアの光を反射した何十もの刃が、毒に苦しむラインハルトの首筋へ向けて一気に殺到する。
「平和な世界に、貴様のような化け物は不要なのだ!」
先頭を駆ける兵士の一人が、顔を真っ赤に紅潮させながら叫ぶ。
その顔には、正義を執行する崇高な高揚感など欠片も存在しない。
ただ、自らの平穏を脅かす「強すぎる力」を前にして、顔面を蒼白に引き攣らせた剥き出しの怯えだけが張り付いている。
彼らが愛していたのは、自分たちの身代わりとなって血を流す都合の良い「英雄の偶像」であって、生身のラインハルト自身ではなかった。
集合無意識の悪意【ルサンチマン】
世界を救った最大の代償が、無数の殺意となって彼に牙を剥く。
四方八方から迫り来る、逃げ場のない刃の軌道。
ラインハルトは、痺れで感覚を失いつつある右腕を強引に振り上げる。
猛毒に侵されていようと、彼の肉体に深く刻み込まれた戦士としての本能は、未だ死に絶えてはいない。
振り下ろされた長剣の腹を、素手で的確に叩き落とす。
骨と鋼が激突する、ひどく鈍い音。
弾かれた剣が空を切る隙を突き、彼は兵士の胸当てを鷲掴みにした。
そのまま、規格外の腕力で身体ごと持ち上げ、後続の兵士たちへと投げつける。
重い肉体の塊が激突し、豪奢な料理の並ぶテーブルごと派手に粉砕された。
宙を舞った赤ワインが、純白のテーブルクロスに血のような染みを作っていく。
だが、刺客の波は止まらない。
背後から、無音で忍び寄る致命の気配。
ラインハルトは身体を低く沈め、床に落ちていた兵士の剣の柄を足の甲で蹴り上げる。
回転しながら宙を舞った剣を左手で掴み取り、振り返りざまに横凪ぎに一閃した。
肉を断ち切り、脊椎を砕く凄惨な感触。
強固な装甲の隙間を縫うように、刃が滑り込んでいく。
赤黒い血飛沫が、圧力から解放されたように間欠泉となって噴き出した。
生温かい液体が、ラインハルトの頬から首筋にかけてを真っ赤に染め上げる。
それは、彼が今まで嫌というほど屠ってきた魔物の、悪臭を放つ冷たい体液ではない。
昨日まで同じ旗の下で戦い、勝利の喜びを分かち合ったはずの、人間の血の確かな温度。
ひび割れた唇の端に、ひどく塩辛い鉄の味が滲む。
彼の喉の奥から、乾いた空気が漏れた。
数分前まで確かに浮かべていた、あの雲一つない青空のような、混じり気のない笑顔。
その形を作っていた表情筋が、ぴくぴくと小刻みに痙攣を起こし、重力に従ってゆっくりと崩れ落ちていく。
太い眉間には決して消えることのない深い皺が刻み込まれ、澄んでいた瞳の奥から急速に光が失われていった。
口角は力なく垂れ下がり、そこにはもはや、人間としての温かな感情は一滴も残っていない。
ただ冷徹に、迫り来る命を機械的に刈り取るだけの、「魔王」の顔へと変貌していく絶対的なプロセス。
テーブルの上に残された『黄金の恩賞袋』。
その口から無残にこぼれ落ちた毒塗りの金貨に、空を舞う鮮血が次々と降り注ぐ。
美しい金糸の刺繍が施された革の表面が、人間のどす黒い執着と裏切りの血を限界まで吸い込み、醜い暗褐色へと染め上げられていった。
宴の華やかな喧騒は、すでに凄惨な悲鳴と肉の潰れる音に完全に塗り潰されている。
シャンデリアの豪奢な光の下。血の海と化した大理石の床に、新たな死体が重たい音を立てて崩れ落ちた。




